Baby please  <2>





「いただきます」
「はい、どうぞ召し上がれ」
4人で声をそろえて言うと、若島津さんはにっこり笑って答えた。

彼はいつもキレイに微笑む、うちのハウスキーパーさんだ。
でもそれがもともとの仕事じゃない。
ちょうど1年前、父さんがいきなり彼を家に連れてきた。
僕と、多分小次郎もすぐにわかっただろう。
彼があのサッカー選手だった、若島津健だという事を。

若島津さんは肩の故障でサッカーを辞めた。もう3年くらい前になるかな。
当時スポーツニュースとか、サッカー雑誌にはかなりその事が取り上げられていたので、僕もそれは知っている。
日本の宝とまで言われて将来を有望視されていた彼が、サッカーをやめてから後、どうしていたのかはわからない。
一度、弟の勝が尋ねていたのを、偶然ドアの隙間からこっそり聞いてしまったけれど、その時若島津さんは笑って結局何とも言わなかった。
それ以降、僕もなんとなくその話題には触れちゃいけない気がしている。


父さんと若島津さんが、どういう知り合いなのかも知らない。
ある日突然彼を連れてきて、今日から一緒に住む事になったから、と言った。
その時、若島津さんもひどく驚いた顔をしていたから、きっと父さんが勝手に話を進めたのだろう。父さんにありがちな事だ。
父さんはこんな風に時々周りを振りまわす。前に僕がそう言って怒ってたら、ゲイジュツカだから仕方ねぇんじゃねぇのと小次郎は言った。でも芸術家である以前に、いい大人なんだからと僕は思うんだけど、まぁもう半分はあきらめている。


その時、若島津さんは父さんと別室に話をしに行って、部屋から出てきた時には少し赤い目をしていた。
そしてその後僕たちに、よろしくお願いしますと頭を下げた。
桜もそろそろ満開に近い、ある春の夜だった。

僕もみんなも、突然の出来事に最初は確かに戸惑った。それはきっと若島津さんも同じだったと思う。
けれどそのうちにだんだんと馴染んできて、今年の桜も開き始めた今では、すっかりこの家の一員として定着している。

彼は最初生活費を父さんに包んでいたみたいだった。でも父さんは頑として受け取らなかった。
――そんな、それで置いてもらうわけにはいかないです。そこまでしてもらう理由もなにもない。
――私が勝手に君を呼んだんだからね、それこそそれをもらうわけにはいかないよ。私がしたくてそうしたんだ。余計なおせっかいだと思うけど、少しでも君の手助けをしたくてね。

父さんの部屋にコーヒーを持って行こうとしたら、偶然ドアの前でそんな会話を聞いてしまった。
何だか僕はそんなつもりもないのに、立ち聞きばっかりしてる。
――いいかい、若島津くん。そのお金は君の将来のために使いなさい。この先まだ君の人生は長い。サッカーという一幕を降ろしたばかりだ。このあと、いろんな事が待っているだろう。その時のために取っておくんだ。
しばらく沈黙があったあと、父さんの声が続いた。
――ご両親にはここに越した事を連絡したのかい?
その返事が聞こえるまでには、また少し間が開いていた。
――もう何年も連絡は取ってませんから。それに、俺はあの家とは縁を切ったし。

父さんはそれ以上、そのことを深く追求しなかった。
お金を受け取ってもらえないなら、何かこの家の仕事をさせてくれと若島津さんは言い張って、結局家事全般が彼に任せることにした。
確かにそれが僕たちとしても一番助かる。
でも若島津さんはきっとそれまで、料理とか洗濯なんてやったことなかったんだろう。
サッカー一筋だったみたいだから、当たり前と言えば当たり前だけど、最初の頃の料理はかなりすざまじいものが出てきたし、洗濯の時もいくつか服をダメにした。
その度に、若島津さんは本当に申し訳なさそうに僕らに頭を下げていた。

その頃の若島津さんは家事に、本当に見ていてわかるくらい一生懸命で、その度に僕たちは苦笑するしかなかった。
でもさすがに1年以上経った今では、料理も美味しいし、洗濯も掃除もできる。
これならいつでもお嫁に行けるねと、この前からかったら、この家でもらってくれと返されて、二人で大笑いした。
その時一緒にいた小次郎は、飲んでいたコーヒーを吹き出していたけれど。


若島津さんが一緒に住む理由を、自分が留守がちで子供たちだけにしておくのも心配だからと父さんは言っていたけれど、でも若島津さんだってそれほど年上ってわけでもない。まだ23.4歳のはずだ。
きっと小次郎ならはっきり知っているだろう。
小次郎は昔からサッカーをやっていたし、若島津さんの事も僕よりも情報を持っている。
でも若島津さんの家族の事は、さすがに小次郎でもあんまり知らないんじゃないかな。
何気なく聞いた話を繋げてみると、若島津さんの実家は大規模な空手の道場を開いていて、彼も段を持っているらしい。
でもサッカー選手になると決断した時点で、どうやら家族とは縁を切ったみたいだ。

若島津さんにとってサッカーは、それくらい大きな価値のあるものだったんだ。





「ほら直ちゃん、こぼれてるよ」
夕食を食べながら、若島津さんが直子に注意しているのを見て、僕は自分が少しぼんやりしていたのに気付いた。

今日は小次郎も珍しく一緒の夕飯だ。
今は春休み中なので、部活は昼間だけ。
いつも彼は帰りが遅いので、めったに一緒に食事をする機会がない。
朝も、僕たちが起きてくるとすでにもう小次郎は家を出た後。
きっとすごく早起きをして、若島津さんは小次郎に朝ご飯を作り、送り出しているのだろう。
そこまでしてもらってるのに、小次郎は若島津さんと話す時にはいつも無愛想なんだよね。
でも彼の事が嫌いとかそういうんじゃなくって、その逆。好きだから意識しちゃって、普通に話ができないらしい。
全く、だからガキだって言うんだよ。若島津さんもちょっと小次郎の態度は気になっているみたいだし、誤解されても知らないよ。
小次郎があんなに照れ屋だったなんて、若島津さんが来て初めて知った事だ。いつも自分だけ大人だ、みたいな顔してるからそういう彼を見ているのはちょっと面白い。


小次郎にしてみれば、サッカーを辞めなければいけなかった若島津さんのそばで、サッカーを続けている自分。別に誰のせいでもないのだけれど、そんな状況に少し負い目を感じているのかもしれない。
あれで結構、人に気を使ったりしてるんだよね。
特別な相手、限定だけど。

それでも前よりは小次郎も、若島津さんと話をしている所を見かけるようになった。
全く、見ているこっちが恥ずかしくなっちゃうような、すいぶんと優しい目で。

小次郎はポーカーフェイスを気取っているつもりらしいけど、僕から見たら、これ以上判りやすいくらい人はいないってくらい顔に出ている。
僕としては、弟が道ならぬ恋に進むのは好ましくはないけれど、相手が若島津さんだったらまぁいいか、なんて思わなくもない。まぁこれは、若島津さんの意思を全く無視した話ではあるけれど。
若島津さんは小次郎をどう思っているのだろう。
自分が辞めなければならなかったサッカーをしている小次郎を見て、思うところが全くないってわけでもないんだと思う。
でもいつも瞳は穏やかだ。そこは確かに大人なのかな。




「若島津さんはさ、付き合ってる人とかいないの?」
夕飯の後片付けを手伝いながら、何気なくそう口に出してみた。
彼は皿を洗う手を止めて、驚いた顔で僕を見た。
「何?急に」
「ううん、別に。ちょっと気になっただけなんだけどね。」
さりげなさを装うために、作業の手は止めずに続ける。
「だってさ、若島津さんかっこいいし、すごいモテたでしょ?」
「太郎、なんか欲しいもんでもあるのか?」
若島津さんは笑ってそうごまかそうとした。でもそれには引っかからないよ。
「付き合ってる人いないの?」
しつこくそう食い下がってみると、彼は呆れたように笑った。
「お前な、この生活でそんな相手いると思うのか?」
少し考えるフリをする。そう、こんな毎日じゃそんなヒマはないとは思うけど。でも人はヒマだから恋愛するわけじゃないでしょ。
「付き合いたいと思う人、今いないの?」
「どうしたんだよ?急に?」
「ううん、別になんでもないけど」
そこでキッチンに誰かが近づいてくる気配がした。あれ、小次郎?
入るに入れない話題だと察したのか、小次郎は入って来ようとしない。
若島津さんは、小次郎の存在に気付いていないみたい。
全くいいタイミングで来るね、小次郎。でも立ち聞きはよくないよ。僕も人の事を言えないけれど。

「昔はな、いたよ。付き合ってた人。まだ俺がサッカー選手だった頃な。」
「・・・・・・」
「一時は結婚の話も出てたんだけど、でも俺、もうサッカーできなくなっただろ?その時俺も彼女もすごく悩んでな。もうお互い限界だと感じて、それでまぁ話合いの末、別れたんだ」
自分から聞いておいてなんだけど、その時僕はどう返して良いのか判らなくて布巾を手にしたまま黙っていた。

今はこんなに綺麗に笑う若島津さん。
でもやっぱりいろいろと辛い時期があったんだ。そんな時期を経ているからこそ、こんなにも綺麗に笑えるんだろうか?

「まぁもうその頃、俺人間らしい生活してなかったから、彼女どころじゃなかったんだよな」
食器を洗う手も休めず、明るく笑って言う。
なんとなく悪い事を聞いた気になってしまった。
「ごめん……」
「なに謝ってんだよ?」
若島津さんは悪戯っぽく笑って、蛇口の水を僕にかけた。
「わっ!冷たい!
悲鳴を上げると、ははは、と笑いながらタオルが放られた。
僕も笑って、濡れた顔を拭いた。


立ち入った事聞き過ぎたかなと、少し反省はしたんだけど、僕に前からもうひとつ、聞いてみたかったことがあった。
少しの沈黙のあと、思い切って口を開いた。
「若島津さん、この家でこんな毎日じゃ、新しい彼女作るヒマもほんとにないでしょ?…いやじゃない?こんな生活」
こんな、おさんどんの毎日。
若島津さんはまだ若くてお世辞じゃなくても魅力的だし、他にもたくさん楽しい事はあるだろう。
でも父さんに丸め込まれて、こんな風にこの家にいていいんだろうか?
僕としては(多分、小次郎は特に)大歓迎だけど、ほんとに若島津さんはいいと思っているのかな?

若島津さんは驚いた風に僕を見た。自分でも何故だかわからないけれど、その時、僕は顔を上げられなかった。答えを聞くのが少し怖かったのかもしれない。
若島津さんは苦笑したみたいだった。
「まさか。いやなわけないだろ。この家に置いてもらってるだけでもすごくありがたいと思ってるし、お前たちにも感謝してる。ここに来なかったら、俺は今でも死んだような毎日を送ってただろうし、こうしてみんなと暮らすのはほんとに楽しいよ。」
――うん、僕も楽しい。母さんと小次郎たち兄弟ができた時も嬉しいと思ったし、たまにうるさい時もあるけれど、家族が増えて大勢で暮らすってのは良い事なんだと思う。
「俺は社会生活のリハビリ中だからな、まだまだ彼女なんて作る気ないよ。大体こんなどうしようもない役立たずの男に、彼女なんて出来るわけないだろ?」
――そんなことないよ。どうしようもないなんて、やっぱり若島津さんは自分の事よくわかってない。

「そんなことねぇよ」
言おうと思った言葉を誰かに言われて驚いていると、小次郎がキッチンの入り口に立っていた。
「どうしようもなくなんかねぇだろ!あんたはこの家で充分役に立ってるし、いないと困る。俺はすげぇ感謝してる。そんな風に言うなよ!」
若島津さんは水道の水も出しっぱなしで振り返り、ぽかんと口を開けて小次郎を見ている。
僕もちょっと驚いた。小次郎の言葉には、それほどの勢いがあった。
僕たちの反応に気付いたのか、小次郎は急に言葉をなくして、う、とかあのとか口篭もっている。
「だ、だから、そういう事だから・・・・・・」
そこで赤くなってどもるなよ、小次郎。このままビシっと決められたら、君の株はかなり上がったと思うよ。
僕は若島津さんの反応が気になって、ちらっと視線をやった。
彼は、なんとも言えない嬉しそうな照れくさそうな複雑な表情をしていた。
そして、今までに見た中で一番綺麗に微笑んだ。
「ごめん、ありがとな」

小次郎、ゆでダコみたいだよ。全く君はまだまだ修行が足りないね。
そう言う僕も、つられて少し赤くなってしまった。
こんな風に聞いてみないと安心できない僕も、まだ未熟だったな。
なんだか僕たち、バカみたいじゃない。三人でそろって、台所で赤くなってるなんて。
お互い余計な事に気を使って、バカみたいだ。
急におかしくなって、少し笑ってしまった。



そのあと片付けを終えた僕らは、そのままキッチンでお茶を飲んだ。
小次郎はさっきの事が未だ照れくさいのか、お茶の誘いに乗らずにさっさと自分の部屋に行ってしまった。かわりに勝と直子が来て、若島津さんは二人にホットミルクを作ってくれた。



その横顔は、いつもよりすこしだけ幸せそうだった。




end / 2001.4.29
next→3



close