Baby please <1> |
一日はあっという間に過ぎる。 週に3回はまだ薄暗い5時に起きて、部活の朝練がある次男のために朝食を作る。 彼を送り出したあと、長男・三男・末っ子を起こして朝ご飯を食べさせて支度を手伝い(主に末っ子の)、三人を学校に出す。 帰ってきてからは掃除・洗濯・買物、そして夕飯の仕度。 やる事は盛りだくさんだ。休む暇はない。 専業主婦は3食昼寝付きだと思っていた、あの頃の自分は浅はかだった。 彼、若島津健がこの家に来て1年とちょっと経つ。 ゴールデンウィークも終わり、気温もずいぶん上がってきた。もう初夏の陽気だ。最近は洗濯物もよく乾く。 プロとしてやってきたサッカーができなくなって、気力のない毎日を過ごしていた自分。それを岬一郎氏が拾ってくれて、この家に住む事になったのはちょうど去年の桜が終わった時期だった。 何もしないで置いてもらうわけにもいかず、この家の家事が自分の仕事となった。 この家に暮らしているのは、自分を入れて6人。 家主の岬一郎氏。職業は画家。 風景画が専門で、パリにもアトリエを持っていて、海外に行っていることも多い。 子供は4人いる。しかし一郎氏の実子は長男の太郎だけ。 この家族は少し複雑らしい。 次男の小次郎、三男の勝、末っ子の直子は一郎氏の再婚相手の連れ子だそうだ。 小次郎だけ姓は以前の日向のままだが、別に親の再婚に反対したわけではない。日向家の家系は彼らしかいなかったので、そのまま姓を継いだとのこと。 家族関係は至って円満にいっていたらしいが、ある日小次郎たちの母親、一郎氏の再婚相手は悲劇的にも交通事故で突然亡くなってしまった。 ――それからは、5人で支えあって暮してきたんだよ。 と、一郎氏は目頭をおさえながら言った。 そして。 ――子供がいるから、なかなか仕事に専念できなくってね、でも仕事はどんどんと入ってくる。贅沢な悩みだけれど実際困っていたんだよ。君が来てくれると本当に助かる。毎日来てくれるという家政婦さんは見つからないし、よしんば来てくれても、私が留守にしてると夜は子供たちだけでしょう? いくら上の二人が高校生になったからといっても、まだ未成年だし、いろいろと心配なんだ。 そう言って、自分がこの家にいる理由を作ってくれた。 長男と次男は高校2年生の同い年。3ヶ月だけ誕生日が早いので、長男は太郎ということになる。 柔らかい外見と優しい口調。でも時々意外と辛辣。余計なお世話だが、顔はあまり父親には似ていない。 小次郎は部活が忙しいため帰りが遅く、主に太郎が今まで家事を担当していたそうだ。 同じ高校生でも、二人は通っている学校が違う。僕の方が家から近いからちょうど都合がよかったんだと、太郎は笑って言った。 若島津が来てからは、時間も余ってついに部活を始める気になったらしく、半年前に美術部に入った。前々からかなりしつこいアプローチがあったらしい。あきらめて入ったと、彼は苦笑していた。 やはり父親の血を引いているのか、この前めでたい事に賞も取ってきた。(どういった賞なのかは、絵に詳しくない若島津にはわからなかったが。でも盛大にお祝いした。) 父親とは違い、彼は人物画を描くらしい。一度彼にモデルになってくれと言われたが、丁重にお断りした。 三男の勝は、まだ小学3年生。どちらかと言うと、血はつながっていない太郎に気性が似ているようだ。おっとりとした物腰で、たまに学校でケンカしては泣かされて帰ってくる。 男がそんな事で泣くな!と一喝をする小次郎。その横で直子も、泣いている兄を情けないと憤慨する。そこで、まぁまぁと慰める太郎。 もう見なれた光景だ。 直子の性格はバランスがいいとでも言おうか、小次郎に似ているらしい。 そしてその次男の小次郎。 彼はサッカー部に入っている。ポジションはフォワード。 期待のエースであり、全日本ユースメンバーにも名前が上がっているほどの実力がある。 若島津も現役の頃、実は名前は耳にした事があった。 そして、この家に来てからは何度も自分の目で見た。 強引なまでのボール運び、強烈なシュート力。 幼い頃は誰もがとかく強引なプレーに走りがちだが、彼はそのレベルをはるかに凌いでいる。本当のサッカーの天才と言われている。 この1年でかなり背も伸びて、顔もすっかり大人っぽくなった。 彼がサッカーに打ち込んでいるのを見るのは、辛くなかったといえば嘘になる。 自分には、もう2度と出来ないサッカー。 それでも、もう心の整理は大分ついていたし、なにより小次郎の真っ直ぐな気性と強烈なプレーは、まだどこかで踏ん切りのつかない自分の背中を押してくれたように思う。 彼には密かに感謝している。 だがしかし、実は最近その彼の様子がおかしいのだ。おかしいと言うか、なんと言うか。 ・・・・・・うう〜ん。 「ただいま〜」 「ただいま!健ちゃん〜!」 玄関から賑やかな声が聞こえてきて、勝と直子が帰って来た。 学校が終わると勝が直子の教室までを迎えに行って、一緒に帰ってくるのだ。 二人を玄関まで出迎える。 「お帰り。今日のおやつはプリン」 「わ〜い。プリン!健ちゃん作ったの?」 「そう。がんばって朝から作ったんだぞ」 この1年で、すっかり彼の料理の腕も上達した。なんたって今ではケーキまで焼ける。 若島津が来るまでは、帰宅しても家に誰もいないことが多かったそうだ。 自分の家は家業の関係上家族以外にも人が大勢いて、自分が学校から帰って来て誰も出迎えてくれないなんてことは一度もなかった。 こんな子供が二人きりで留守番をしていた姿を想像して、少し胸が痛くなった。それ以来、用事はなるべく昼間に済ませ、こうして帰宅時間には家にいるように努めている。 自分は本当の家族じゃないけれど、それでも帰って来て家に誰もいないよりはいいだろう。 ……岬先生もいい人なんだけど、こういう面はかなり大雑把だよな。子供二人で何かあったらどうするんだ。いくらセキュリティがしっかりした家だからって、世の中結構物騒なんだぞ。 なんてぶつぶつオヤジくさく呟いてしまうくらいには、この二人ともすっかり打ち解けたし、第一かわいい。 「ほら、まず手洗って。おやつはそれから。」 「は〜い」 洗面所に二人を向かわせ、その間に冷蔵庫からおやつを出す。 そうか、もう帰ってくる時間だったか。今日は少しのんびりしてたかな。急いで夕飯の仕度にかからねば。 二人におやつを食べさせて、風呂の準備して、それから夕飯の仕度。 そうだ、勝は今日宿題が出ているのだろうか。あるなら早くやらせないと。 若島津の中で、めまぐるしくタイムスケジュールが組み込まれていく。 この辺の手際は、もう慣れたもの。もういつでも結婚して、子育てでもなんでもできそうな気がする。 まぁこんな定職もない身で結婚なんて、考えた事もないけれど。 夕飯の支度をしながら、昼間学校や保育園で起きた出来事なんかを二人から聞いていると、辺りはもう薄暗くなる。 そろそろ太郎が帰って来る頃だ。 ちょうど炊飯ジャーのスイッチが切れた時、案の定玄関のドアが開く音がした。 「ただいま。良い匂いだね、今日の夕飯何?」 「おかえり。今日はトンカツ揚げた。もう出来るから、着替えたらすぐ夕飯にするぞ」 「そうだね、小次郎はまた遅いだろうし、相変わらず父さんは連絡なしでしょ」 一郎氏は今、パリのアトリエにお住まい中。今描き上げているのが出来るまでは帰れないそうだ。でもそれはいつのことになるのやら。 そんな事はザラなのだと、始めに聞いた時は少し驚いた。 こんなふうな仕事のペースじゃ、そりゃ家にはあまりいられないわな。 さすがに上の二人がまだ中学生だった頃は、こんなにも長期に家を空けることはあまりなかったそうだが、最近では言葉通り家の事は若島津に任せているようで、本当に仕事に専念している。 ――子供が心配というのも、あながち俺に気を使わせないためだけじゃないのか。 それでも、たまに帰ってくる父親に下の二人も良く懐いている。 岬先生も家にいる時には父親の顔になり、子供たちに本当に愛情を注いでいるのが見て判る。 たまに小さな兄弟ゲンカもあるけれど、家族関係はおおむね良好だ。 夕飯も終わり、TVを見ながらダラダラしていた太郎たち3人を風呂に追いやった所で、外の門が開く音が聞こえた。 食器を洗っていた若島津はそれに気付いて、エプロン姿のまま玄関に向かった。程なくして、小次郎がドアを開ける。 「おかえり」 「た、ただいま」 「お疲れさん。夕飯出来てるからな、着替えたらすぐ降りてこいよ」 ああ、だか、うん、だかボソリと返事をして、小次郎は自室のある2階へ階段を上がって行った。 その姿を見送って、若島津もキッチンに戻った。 ううむ。 小次郎は……、初めて会った頃から、何を考えているのかいまいち掴み所のない子ではあった。 最初はもしかして嫌われているのかと思った。あまりにも自分に対して、無愛想に応対するので。 でも太郎に以前何気なくそう言ったら、まさか、と一笑に付された。 ――何言ってんの?若島津さん。小次郎が若島津さんを嫌ってるなんて、そんな事あるわけないじゃない。 あるわけないかどうかは知らないが、太郎の言い分はどうやらそうらしい。 小次郎は、現役時代の自分を知っていた。まぁサッカーをやっている者なら、昔Jリーガーだった自分を知っていてもおかしくないが。 ――小次郎ね、ずっと若島津さんのファンだったんだよ。今でもきっとね。あれは多分、照れてるんだよねぇ。 ・・・・・照れてる・・・ねぇ。 いまいちピンとこない。しかも今もと言われても、もう自分はプロ選手ではないし、他にさして取り柄があるわけでもないのに。 そう言ったら、若島津さんは自分の事を知らなすぎるよ、と意味ありげに返された。 ――どういう事なんだろうなぁ。 その意味が、未だによく理解できない。 どうも最近、輪をかけて小次郎の事がよくわからないのだ。目下の悩みはそれである。 この前も俺が風呂から上がった時に、ちょうど小次郎が洗面所に入ってきて、あいつはえらい慌てぶりでわたわたと出て行こうとして、壁に頭を強かにぶつけていた。(いや、体のサイズからしたら、わたわた、というよりドタドタって感じだったが) 普通、見られた俺の方が慌てるもんだろう。いや、他人とは言えど、男同士なんだから、別に見られたって俺は気にしないんだが。 いや、うう〜ん、ちょうどムズカシイ年頃だしな。どうも彼が最近、自分に対してよそよそしいのも気にかかる。俺、なんかあいつの気に障ることでもしただろうか…? 味噌汁を温めながら考え込んでいると、制服を着替えた小次郎がキッチンに入ってきた。私服になると、年相応に多少幼く見える。 ・・・・・・しかし、ほんとここ1年でよく育ったもんだよな。俺がこの家に来た当初は、まだ俺より背も低くて、顔も幼さが残ってたのに、今ではすっかり越されて、もう見た目は大人だもんな。 ――あぁ、こういうのってもしかして、父親の気分とでも言うのだろうか。 知らず彼の顔を凝視していたらしい。若干顔を赤らめた小次郎に、居心地悪そうに、何?と言われて初めて己の行動に気付いた。 「いや、なんでもない。腹減っただろ?すぐ温まるからな」 慌てて視線をそらし、誤魔化すように戸棚から食器を取ろうとした。 若島津の右腕は、肩から上には上がらない。しかも腕を上げようとすると、肘にかけてツキリと痛みが走るのだ。 普段から気を付けているつもりなのだが、ついつい生活する上で忘れてしまう事も多い。 その時もカツを盛るために、若島津は食器棚の一番上の段にある皿を取ろうと両腕を伸ばした。 しかし、突然後ろから手がスッと伸びてきて、目的の皿が目の前で取り出される。驚いて振り返ると、小次郎が至近距離に立っていた。 間近で目が合う。 「ほら、これ取りたかったんだろ?」 慌てたようにパッと離れ、ぶっきらぼうに皿を渡された。 「あ、あぁ、サンキュ」 ――もしかして、今のはやっぱり俺の肩を気遣ってくれたんだろうか。 こういうことは、実はよくあるのだ。 言葉や、わかりやすい態度ではあまり示さないけれど、気が付けばさりげなく俺を助けてくれているような事。 もともと小次郎は優しい子だ。 でも嫌ってたら、そんな事してくれないよな。やっぱ俺、ほんとに嫌われてるわけじゃないのかな? 太郎に言われた言葉を思い出して、若島津は綺麗な眉を少し寄せた。 しかし当の小次郎は、今は無心に食事をかっこんでる。その姿を見ていたら、不意におかしくなった。 外見だけ見てると、こいつも大人になったもんだと少し寂しい気がしていたが、こうしてるとまだまだかわいいもんだ。 「何笑ってんだよ?」 気が付けば自分は笑っていたらしい。向かいに座っている彼に、上目使いで睨まれた。 「え?俺笑ってた?」 「どう見ても笑ってんじゃねぇかよ」 「そうか?いや、何でもない。」 そして誤魔化すように、美味いか?と言って彼の顔を覗き込むと、小次郎は焦ったように急に咳込んだ。 顔を真っ赤にしてゴホゴホ言っている。 「大丈夫か?」 「いや、だ、大丈夫」 「あっ、こう兄ちゃんおかえり」 そこへ風呂から上がった太郎たちが、キッチンに入ってきた。 「何、台所で微笑んで見詰め合っちゃって。そうしてるとまるで新婚さんみたいだよ」 太郎に変な冗談でからかわれて、まやもや小次郎はグっと詰まった。 「太郎、てめぇ、くだんねぇこと言うんじゃねぇ」 赤い顔してすごんだ所で、さっぱり迫力は出ないが。 まぁ、こんなやり取りはいつもの事だ。ほっておくといつまでも続いて、さっぱり片付かない。 「小次郎、食い終わったら、お前も早く風呂入れよ」 空いた鍋をシンクに運びながら、若島津はそう声をかけた。 太郎はまだ髪も乾かしていない。妹達の方が優先だったのだろう。 冷蔵庫から水を出してコップに汲み、食事もほとんど終わっている小次郎の前に座った。 「悪いね小次郎。僕たち先に入っちゃった」 「あ?いや、別に…」 そんな事もういつもだろ、今更何を言い出すんだ? 訝しみながらもそう返事をすると、何を思ったのか太郎は顔を近づけてきて、そしてこっそりと耳打ちをした。 「あ、そうだ。若島津さんと一緒にお風呂入って背中でも流してもらえば?」 「ばっ…!!」 ガタンッ!! 突然の物音に若島津が振り返ると、椅子を後ろに倒して赤い顔で立っている小次郎と、しれっとした太郎。 「何?どうした?」 「あのね、若島津さん、小次郎と一緒に…」 「な、なんでもねぇ!ごちそうさん!俺、風呂入る!」 太郎の言葉を遮ってそう言い捨てると、小次郎はまっすぐ風呂場に向かって行った。 「そ、そんな別に急かしたわけじゃないぞ、ゆっくり…」 入ってもいいんだぞ、と続けた若島津の言葉は、果たして彼の耳に入っていたのかどうか。 太郎はくすくすと笑っている。 何だかこの兄弟も、ほんとよくわからんなぁ。 まぁいいけど。 明日も小次郎は朝練のある日だし、早く片付けて俺も早く風呂に入って寝よう。 朝メシ、何にしようかなぁ。納豆はこの前出したばっかりだし…。 本当に一日はあっという間だ。 でも忙しいって事は、充実してるっていうことなんだろう。 洗い物を終えて、若島津は満足そうに微笑んだ。 |
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end / 2001.4.22 |
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