深谷市新戒・高島の史跡めぐり

①から⑪まで巡って①へ戻るコース ; 約 5.2km


社長

  1. 荒木翠軒(あらきすいけん)顕彰碑
  2. 古櫃神社(こひつじんじゃ)
  3. 大林寺(だいりんじ)
  4. 東雲寺(とううんじ)
  5. 生品神社(いくひなじんじゃ)
  6. 正伝院(しょうでんいん)
  7. 笹井万太郎の墓
  8. 利根川に隔てられた土地
  9. 諏訪神社の大榧(おおかや)
 10. 安養院(あんよういん)
 11. 地蔵尊


1.荒木翠軒顕彰碑

 荒木翠軒(あらきすいけん)は幼少時より学問詩歌に優れ、ペリー来航時に開国の建白書を大老に提出している。 明治二年、備前堀取水口工事に住民が反対運動を起こした備前堀事件で、桃井宣三・尾高藍香らと共に県や明治政府と渡り合い工事を中止させた。

2.小櫃神社
 この辺一帯が新開(しんがい)氏の屋敷があった所、古櫃神社(こひつじんじゃ)は新開氏の氏神。
新開氏が伝来の武具を櫃(ひつ)に入れて社の下に納めたことによりこの神社の名前がつけられたという。
 5世紀、朝鮮半島が混乱し多くの渡来人が対馬海峡を渡ってやって来た。 新羅系渡来人秦河勝(はたかわかつ)の子孫が東山道を下って利根川の中州で肥沃な土地を開拓して土着、地名を姓とした。
 秦河勝は数代の朝廷に仕え、特に聖徳太子に重用され聖徳太子より仏像を賜り、京都太秦に広隆寺を建立した。
 治承四年(1180年)石橋山の合戦に源頼朝に従い敗れ、箱根山中のしとどの窟(いわや)に頼朝以下6人が隠れたが、その中に新開荒次郎忠氏も加わっていた。
 鎌倉幕府の終わり頃、新開氏は徳島県阿南に渡り牛岐(うしき)城主となり、220年間阿南を治めた。
 天正十年(1582年)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に丈六寺(じょうろくじ)で謀殺され、今も血天井として跡を残し、新開氏は滅亡した。
3.大林寺

 大林寺は新海荒次郎夫人が開基。 男と女を分けて葬った。 大林寺は女寺。

4.東雲寺

 秦河勝の子孫と云われる新開荒次郎忠氏(ただうじ)が、平安時代の末にここに館を構えた。 東雲寺は忠氏の子、新開荒次郎実重(さねしげ)の開基、死後は男女別々の墓に葬るという習慣が昭和中頃まで続いた。 東雲寺は男寺。 新開荒次郎実重の墓が境内にある。没年は正治二年(1200年)。

5.生品神社
 生品神社は七社ある、新田の関係の所にだけしかない。 新田義貞(よしさだ)が鎌倉幕府倒幕のため挙兵し、神前において護良親王(もりよししんのう )に賜った北条氏討伐の令旨(りょうじ)を読み上げたと伝えられる。
 生品神社には平将門の弟が祀られている、氏子は成田山新勝寺には参拝しないと云う言い伝えがあり、今でもお参りしない人がいる。
朝廷が下総国公津ヶ原(こうづがはら)に不動明王を安置し朝敵降伏を祈願し、満願日に平将門が討死した。 その不動明王は現在、成田山新勝寺に安置されている。
6.正伝院
 平安時代の文人貴族、小野小町の祖父、小野篁(たかむら)の開基と云われている。
 坂上田村麻呂が奥州征伐に出掛けた時に、家来の小野岑守(みねもり)がお供した、その子篁が一緒に付いてきて本尊を納めたと云われている。 その言い伝えによると深谷では4番目に古いお寺。
 正伝院の四脚門にある寺紋(じもん)は三つ葉葵、利根川の水運を経た江戸とのつながりが伺われる。
 享保二十年(1736年)建立された宝篋印塔内から、木造宝篋印塔、木造五輪塔、木造仏像、寛永通宝などが発見された。
 正伝院は高野山真言宗。 正伝院の境内に、高野山御影堂前にある霊松と同じ松がある。 弘法大師が中国へ渡り勉強して、日本の何処で真言宗を広めたらいいか、三鈷杵(さんこしょ)を投げた、お大師さんが日本に帰って来て全国各地を歩いた、三鈷杵は高野山の三葉(さんば)の松に留まっていた。 落葉している三葉の松葉を拾って帰るとご利益があると云われている。
 境内にある弘法大師のお像は和歌山県の高野山の方を向いている。
7.笹井万太郎の墓

 高島村の名主、笹井万太郎は明治維新、開国にあたり横浜港の波止場の建設工事を請け負い僅か4ヶ月で高島埠頭を完成させた。 安政六年(1859年)のことです。

8.利根川に隔てられた土地
 利根川の埼玉県側、高島・石塚・中瀬・横瀬、この辺は新田の領地だった。 利根川の向うの森、群馬県ではなく深谷市高島、平成22年県境を変更し群馬県となった。
 高島は9つの地区と接している、中瀬・新戒・成塚・沼尻・石塚・二ッ小屋・武蔵島・阿久津・大舘、昔の領主は利根川の水運を目指していた事が伺われる。
 川沿いまで畑だったが土手を作るため住んでいた人たちは土手の外へ移転した。 以前は深谷駅から出る高島行きのバスが一番多かった、上武国道の群馬県側の二ッ小屋との間に渡しがあった。
9.諏訪神社の大榧

 樹齢は推定1200年、落雷により2つに割れ燃えたが現在は根元から2つの幹に分かれている。
 1333年、新田義貞(よしさだ)が鎌倉に攻め上った軍勢の進撃路は諸説あるが、この榧(かや)の木を目印にし集まったと伝えられている。
 昔この辺を利根川が流れていた、利根川はいたる所を流れていた。

10.安養院

 本尊は大日如来。
 境内に六地蔵がある、六地蔵とは六道において衆生の苦しみを救うと云う六種の地蔵菩薩のことで、この六地蔵は雨乞い地蔵として有名。

11.地蔵尊
 地蔵尊と言えば、多くは寺の境内や村の辻に立っている姿が多く、また屋根も小屋作り程度のものが多いが、ここには立派なお堂がある。
 毎年7月23日に夜のお祭がおこなわれ、24日にはお地蔵様が各戸をまわる、村の人が引いてそれぞれの家をまわって、お賽銭をいただく。