中世以前の関東(2)河内源氏の祖・源頼信の関東派遣。源頼義が鎌倉に地盤を得る

長元元年(1028)~長元四年(1031)

 

平忠常の乱、良文流平氏と貞盛流平氏

1028年
 長元元年、平忠常が房総半島で反乱を起こす。平忠常の乱である。
 朝廷は、良文流平氏と長年の敵対関係にあった貞盛流平氏の平直方を、追討使に任じた。
 しかし、忠常は上総国夷隅郡の要害に立て籠って抵抗を続け、乱は一向に鎮圧できなかった。

1030年
 長元三年、朝廷は平直方を召還し、代わって源頼信を追討使に任じ忠常討伐を命じた。
 この源頼信は河内源氏の祖で、系図を辿ると平氏と同じ桓武天皇につながる。

源頼長と平直方の関係系図

 源頼信の祖父、源経基は承平八年(938)、武蔵介として関東に足跡を残している。
  この時、武蔵足立郡の郡司・武蔵武芝(むさし の たけしば)との間で紛争となり、平将門が仲裁に乗り出したのだが、武芝の手勢が経基の営所を包囲したため、経基は京へ逃げ帰ってしまう。 その後、経基は将門追討の副将軍に就任するも、活躍の場は無かった。
 この頃は、経験も浅い弱小の軍事貴族でしかなかったのである。

源経基と武蔵足立郡の郡司・武蔵武芝との間の紛争
1031年
 長元四年、長期に及ぶ戦いで平忠常の軍は疲弊しており、源頼信に降伏。 頼信は、忠常を連れ京へ向かうが、忠常は美濃国で病死した。
  忠常の子の常将は罪を許され、下総国に帰還し、後に千葉氏の祖となる。

1036年以降
 前追討使・平直方は、平忠常の乱で、父源頼信と共に戦い、勇名を馳せ、長元九年に相模守となっていた源頼義へ娘を嫁がせた。 さらに鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡した。
 頼義が相模守在任中に得た人や土地は、河内源氏が東国へ進出する足場となってゆく。
高望流平氏、秀郷流藤原氏、河内源氏は関東に基盤を築いていった

 

 河内源氏が坂東で軍事貴族の地位を固めてゆく一方、良文流平氏は各地に土着し、河内源氏の郎等として仕え、更に武蔵七党と云われる在地の勢力との関係を深めてゆく事により、在地の有力武士としての地位を固めて行った。

 軍事貴族 ー 各地の有力武士 ー 在地の軍事的集団。
 この様な関係が後に治承・寿永の乱などで大規模な軍事動員を掛ける事が可能となってゆく。