長享の乱(2)上野・北武蔵・下野の攻防

文明18年(1486)11月~長享元年(1487)12月



長享の乱:文明18年11月~長享元年2月上州・北武蔵の戦い

1486年11月
 文明18年11月、上杉顕定は、惣社長尾氏の本拠蒼海城(前橋市)を拠点に、長尾景春方で上州一揆の中心になっている長野業尚の箕輪城を攻撃。

1487年2月
 長享元年2月2日、山内上杉顕定は、古河公方に属する増田重富の四津山城を攻撃。
 四津山城は落城し増田重富は自刃した。
 増田重富の子重政は四津山城より脱出し、故郷増田(深谷市)を経て、増田重富の少年時代の知己、一州正伊和尚の玉泉寺(みなかみ町)に身を寄せ、領主大友氏に仕官した。

 山内上杉顕定は、居城である鉢形城の周囲から安定を固めていった。

長享の乱:長享元年、山内上杉顕定は越後上杉からの養子

1487年11月
 山内上杉顕定は越後上杉家からの養子である。 顕定の実兄越後上杉定昌は当時白井城(渋川市)に居た。定昌が家臣宇佐美新兵衛尉を派遣し勧農城を攻撃した。
 この城は、主家山内上杉氏に背き長尾景春に属していた長尾景長の居城で、叔父長尾房清が景長の後見役を務め守備していた。

長享の乱:長享元年、足利長尾景長は長尾景春に属していた

1487年12月
 14日、古河公方に属す長尾蔵人と佐野周防守が山内上杉方の善(前橋市)・山上(桐生市)を攻めたが、山内上杉方の赤堀上野介などの活躍で退散。