中世以前の関東(7)保元の乱と河内源氏

 

鳥羽上皇(法皇)による天皇の退位と即位

 保元元年七月、皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河方と崇徳上皇方に分裂し、武力衝突に至った。
 保元の乱の勃発である。

 皇位継承問題に於ける天皇家の内紛について簡単に整理すると。
 永治元年(1141)、院政を敷いていた鳥羽上皇は、崇徳天皇を退位させ、第九皇子を近衛天皇として即位させた。

 久壽二年(1155)、近衛天皇が早世すると、後継に崇徳上皇の皇子ではなく、弟が後白河天皇となる。
 こうして崇徳上皇の不満は増大していった。

 一方、摂関家では、関白・藤原忠通は嫡子に恵まれず、父の意向で弟頼長を次の関白とすべく、忠通の養子とした。
その後、忠通に男子が誕生し、頼長の養子を解消したことで、忠通に不満を持つ父忠実・弟頼長は崇徳上皇に接近。

 伊勢平氏は、清盛が後白河方に、叔父忠正は崇徳上皇方に付いた。

 河内源氏では、義朝や義康(足利)が後白河方に、義朝の父為義は崇徳上皇方に付いた。

保元の乱、信西は対立勢力である崇徳上皇方を一掃した

1156年
 保元元年七月二日、鳥羽法皇が崩御した事で、両派の主導権争いが活発となる。

 七月十一日未明、後白河方が、崇徳上皇方に夜討を掛け後白河方が勝利した。

 敗れた崇徳上皇は流罪となる。
 藤原頼長は敗死した。 頼長と並んで、謀反の張本人と目された忠実は、高齢であり幽閉とされた。 乱を聞きつけ、宇治の忠実の許に駆け付けた頼長の息子達は流罪となった。

 平清盛の叔父忠正は、息子の長盛、忠綱、正綱、通正を伴い投降したが、七月二十八日、六波羅で清盛の手によって処刑された。

 後白河方について勝利した源義朝は自らの戦功に代えて、父為義と弟たちの助命を願うが許されず。 逃亡を続ける為朝を除き、七月三十日、斬首された。
 逃亡を続けた為朝が、近江国坂田で捕えられた時には、既に戦後処理も一段落しており、武勇を惜しまれて助命され伊豆大島に流刑となった。