長享の乱(7・完)長享の乱終結

永正元年(1504)8月~永正2年(1505)年3月

長享の乱:永正元年(1504)8月山内上杉顕定は河越城を攻撃

 明応五年(1496)以降両上杉氏の戦は休戦状態であったが、八年の時を経て山内上杉顕定が攻勢をかけた。


1504年8月
 永正元年8月21日、山内上杉顕定は上戸(川越市)に着陣し、さらに仙波(川越市)に陣を移して河越城の間近に陣取り、毎日にわたり河越城に矢軍を加えた。

長享の乱:永正元年(1504)9月北条・今川軍が桝形山に着陣

1504年9月
 6日、河越城を攻め落とすのは難しいと判断した山内上杉顕定は仙波の陣を立って江戸城に向かい、白子(和光市)に布陣した。

 15日、扇谷上杉支援のために北条早雲が越山し、武蔵国桝形山(川崎市)に着陣。

 20日、今川氏親軍も武蔵国桝形山に着陣した。

 この動きを見て山内上杉顕定は立河原(立川市)に陣を張り、古河公方政氏も合流した。
 河越城を守っていた扇谷上杉朝良も今川軍に合流した。

 25日付け書状で、山内上杉顕定は小田原城主だった大森藤頼を通じて顕定同様、北条早雲の自国への侵攻に悩まされている甲斐の武田信縄へ援軍要請を行う。

長享の乱:永正元年(1504)9月立河原の戦い

27日朝、今川・北条・扇谷上杉軍が多摩川を渡って立河原に上陸、山内上杉・古河公方連合軍と睨みあい。

 正午頃より合戦が始まる。

 渡河を許し攻め込まれた山内上杉・古河公方連合軍が大敗を喫し、二千あまりともいう戦死者が出た。

 山内上杉顕定は鉢形城に帰城。
 扇谷上杉朝良は河越城に戻り、今川・伊勢軍は鎌倉に引きあげた。

1504年11月
 山内上杉顕定の支援要請を受けた越後上杉房能の家臣越後守護代長尾能景の軍勢が越山して山内上杉顕定に合流。騎馬兵2千、歩兵1万人という。

1504年12月
 1日、上戸(川越市)に布陣し河越城をにらみつけていた山内上杉顕定の陣を扇谷上杉朝良が攻め込む。

長享の乱:永正元年(1504)12月扇谷上杉は北条からの援軍が期待できなくなった

 2日、山内上杉顕定が上戸に布陣し河越城の扇谷上杉朝良を牽制している間に、越後勢が扇谷方の椚田城(八王子市)を攻撃し落城。

 26日、越後勢はさらに南下し扇谷上杉朝良の重臣、上田正忠(政忠)の真田城(平塚市)を攻撃し落城。

 これにより扇谷上杉氏は武蔵国多摩郡の拠点と相模国中部域の拠点を失うことになり、北条からの援軍が期待できなくなってしまった。

1505年1月
 永正2年正月、北条からの援軍路を断った山内上杉顕定は、越後勢と共に河越城を取り囲む。

1505年3月
 7日、河越城の合戦で双方に多くの戦死者が出た後、河越城を支えきれなくなった扇谷上杉朝良は、家老曾我祐重を通じて顕定に和睦を申し入れた。

 この頃、道灌の家督と家宰職をを継承したとする、太田六郎右衛門尉が中野(中野区)の陣で殺された。
山内上杉方の勝利によって、道灌誅殺で太田家の家督を継いだ六郎右衛門尉は立場を失い誅殺されたのか?

長享の乱:永正2年(1505)3月扇谷・山内氏系図

 和睦の条件は、扇谷上杉朝良が引退、朝良には当時男子がいなかったので兄朝寧の子朝興を後継とすることであった。
 しかし、扇谷上杉家の重臣はこの処置に反抗の姿勢を見せたため、上杉顕定もこれ以上の強要は出来ず、以後も上杉朝良が扇谷上杉家当主の職務を続けている。

 山内上杉家と扇谷上杉家との和睦が成立、十八年で長享の乱が終結。

 二年後の永正四年(1507)、山内上杉顕定の養子憲房と扇谷上杉朝良の妹の婚姻が成立して山内・扇谷両家の同盟関係が復活した。

長享の乱関東の勢力図(長享の乱前)

山内・扇谷両上杉氏が十七年に渡り争った長享の乱、終わってみれば扇谷上杉と古河公方は代が替わったが力関係は紛争前と変わりは無い。

長享の乱:関東の勢力図(長享の乱後)

 しかし大きく変化したのは堀越公方が滅亡し北条早雲が伊豆国、更に相模国の小田原までを手に入れ、関東進出への足掛かりを得たことであろうか。