セネガル便り 第3便 次へ 2003.05.05更新
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セネガル在住10年になる妹が突然帰国しました!
さあ、いったい妹の身の上に何が起きたのでしょう! 

2003  不思議なご縁と幸運に恵まれて
4月30日に突然妹から2通のメールが来ました。
そこには朝の顔、夕の顔とのタイトルで2枚の自分で写した写真が添付されていました。
何でも後で聞くと文字を打つのもしんどかったので写真のみ送ったとのことですが見てビックリ。
すっぴんの顔の右半分がお岩さんのように腫れあがっていました。
これも後で聞くと、セネガルには化粧品もなく普段から化粧はしたことが無いとのこと。
それにしても自分の知っている妹とは似ても似つかぬ生気の無い顔でした。

その後、大使館就きの医務官(ドクター)と直接電話連絡がとれ、抗生物質の点滴で抑えているが、万一敗血症(血液中に細菌が入り全身の臓器を侵すこと)にでもなったらセネガルでは十分な治療は不可能で、命取りにもなりかねないので帰国治療を勧めますとのお話。

一方、私とは別に、東京にいる姉にも電話連絡が入り、医学には素人の姉も妹が死んでしまうかもというので、大急ぎで知人のドクターと相談をし、やはり帰国させようと結論しました。
今まで10年間、3度のマラリア罹患と、2度の大手術にもけして帰国しようとしなかった妹も今回は比較的素直に帰国を決意した様子で、いっそう不安を募らせました。
実はつい最近日本からきた若者一人の命を失い、もう一人も重度のマラリア熱から奇跡的に生き返った事実があるだけに精神的にも不安で弱気になっているところでした。

私との連絡で帰国との方針を決めてからは、およそ半日の間に、一番早い便で日本へ戻れるようにとの飛行機チケットの手配やら、途中フランスで容態が悪化したときの手配やら、万一SARSの影響で成田で足止めされたらこの証明書を見せなさいやらと、ドクターや大使館の人が大変親切に動いてくれました。
実はこのドクターは私どもの実家の病院で働いている先生の後輩で、大学時代同じ卓球部に席をおいていたという間柄だったのです。

 それでもセネガルから日本までは非常に遠く、フランスで乗り継いで1日半はかかるのです。
2日の仕事はお休みをもらい、5月1日、夕方5時に仕事を終え、直ちに東京へ。
 妹とすれ違いで外国旅行に出かけた姉の家に一泊し、5月2日、朝一番に成田空港へお迎えに行きました。
(2歳年上の姉は私以上に心配症で、旅行をとりやめると言ったのですが、私が責任を持つからと旅行させました。しかし結局姉も外国で体調をくずし、下痢、発熱と旅行を楽しむどころではなかったようです。)
 
万一東京へつれて帰るだけの猶予もなさそうな時は、空港近くの○○大学へ、SARSで入国出来ないときは○○の印籠を出してなどとあれこれと最悪の事態を想定して空港へ着きました。
 アナウンスを見ると幸い飛行機は予定通りに順調に到着したようです。
ちょっと妹に運があるような気になりました。
あとは関税を無事通過できるかどうかです。
 メッセージボードを見ると飛行機到着から、ただいま税関検閲中へと案内がかわっていました。まだ一人も出てこないし、早くても30分は待たされるだろうと想像し、出口はここで間違えないか?、タクシー乗り場は?、公衆電話は?と再確認のためキョロキョロ、ウロウロしていたら、突然背後から「お兄さん?」という声が聞こえたような気がしました。
エッ、ギョッ、空耳?と思って振り返ると、元気そうな妹が手荷物1つかかえて笑っていました。
幸運にも抗生物質が効を奏して顔の腫れも引き、荷物が少ないため誰よりも早く外に出られたというわけです。
 
以下、詳細は省きますが、思いがけず病状は好転しており、直ちに口腔内の切開、排膿をしてもらい、完治までには半年間ぐらい要するものの命には別状ないことが判明しました。おかげで、浦島たろ子の妹と3日間、死をも覚悟して帰国させたとは思えないほどに、楽しい時を過ごすことが出来ました。
この間、4月30日から帰国まで、及び帰国後のたった数日間の間に、数々の幸運や偶然に次から次へとめぐりあい、妹と二人つくづく「不思議な縁」があるものだねと話した次第です。

今は拍子抜けするほどに元気な妹ですが、今までけして日本に帰ろうとしなかった妹が今回こんな姿で帰ってきたのには、きっとその必要性があったのだろうと、油断せず治療に専念させたいと思っています。
 2003.5.5記