虹の教会

 

ペトロ 晴佐久 昌英

人間の目は思いのほか精巧で、十万色以上を見分けることが出来るそうです。
確かに、空の青ひとつとっても午前から午後にかけて微妙に変化していくのが分かりますし、今の季節で言えば木々の緑がほんの少しずつ濃くなっていくのを感じます。
先週から教会の庭のアジサイが咲き始めましたが、花びら一枚の中にも澄んだ青から仄かなバラ色へと変化する精妙なグラデーションが見て取れ、この宇宙を彩る無数の色の神秘に胸打たれます。
おそらくは十万色どころか、全存在がそれぞれに固有の輝きを放っているのであって、この世に二つと同じ色はないのでしょう。
であれば、その色と色の組み合わせに至っては、いったい何通りになるのでしょうか。
この世界は、無限の美の可能性を秘めています。
創世記が語るノアの箱舟物語は、「二度と人々を洪水によって滅ぼすことはない」という神の約束で終わります。
ご自分が、善人を救い悪人を滅ぼすような原理主義者ではなく、すべての人を無条件に救う愛の神であることを宣言した、重要な約束です。
神は、こう誓います。
「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く」(創世記9・12―13)。
ここでいう虹とは、「すべての色」を表しています。すべての色が共にあってひとつに輝く虹こそは、神がすべての人とすべての生き物、ご自分のお造りになったすべての存在を分け隔てなく愛するという、希望のシンボルなのです。
先月、ある神父の質問に対する教皇フランシスコの答えが話題になりました。
その神父は「教会から拒絶された経験のあるLGBTのカトリック信者に、どんなことを言いたいですか」と尋ねたのです。
教皇は、こう答えました。
「その人たちには、それを『教会からの拒絶』と捉えるのではなく、『教会の中の人から』の拒絶と思ってほしい。」「教会は母であり、その子どもたち全員を呼ぶのです。」「神のなさり方は『寄り添いといつくしみと優しさ』です。この道を進めば、神と出会えます」(カトリック新聞2022年5月29日号)。
そうでなくとも社会から拒絶されて苦しんできた人にとって、最後の砦であるはずの教会からの拒絶は死刑宣告にほかなりません。
お優しい教皇は「教会の中の人から」の拒絶と言ってくださいましたが、それほど優しくない晴佐久神父は、「拒絶する人を『教会の中の人』って言っていいの?」とつぶやいてしまいます。
「子どもたち全員」に寄り添わずに、どうして神に出会えるでしょうか。
神の「いつくしみと優しさ」の目に見えるしるしである教会は、すべての色が揃い、すべての色を結ぶ、虹の教会でなければなりません。
ご存じのとおり、性的マイノリティーを始めとする多様な少数派の人たちの人権と連帯のシンボルは、レインボーカラーです。
あらゆる色が等価であり、あらゆる色が大切にされ、あらゆる色が共生することで初めて世界の美しさが現れ出るという、真の普遍主義を表すシンボルです。
パレードではためく七色のレインボーフラッグが印象的ですが、あれは個人的には七色を線で区切らずに、本物の虹のように境界をぼかしたグラデーションにした方がいいと思っています。
そのほうが、色の連続性と無限性を表現できるからです。大自然の本質は青と赤を線で区切るようなものではなく、ちょっとだけ赤みがかった青紫からちょっとだけ青みがかった赤紫へと、すべてはグラデーションとして、線の引けないひとつのいのちを造り上げているのです。
人の世では今日も国境線を巡って殺し合いの戦争が続いており、奪った土地に赤い旗を立てたり青い旗を引きずり下ろしたりしていますが、そもそも線のないところに線を引くこと自体を、罪と呼びます。
罪の結果は分断であり、拒絶であり、何色の旗を立てようともそこは灰色の死の国にほかなりません。
虹の教会は、多様な人たちがあらゆる境界線を越えて受け入れ合い、喜びを持って共に生きる神の国をこそ待ち望みます。
その国で、聖なる風に翻る「雲の中の虹」の旗のもと、キリストやお釈迦様を含め、ありとあらゆる人々が顔を輝かせてパレードしている姿が目に浮かぶようです。
色とりどりの神の子たちの、なんという美しさ!

前の記事を見る うぐいす目次へ 次の記事を見る