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42:桑名


東海道を歩く(42:桑名宿)13km



(写真は桑名城の櫓)

今回は、新幹線で名古屋に行き、JR関西線に乗り換え桑名駅で降ります。

いよいよ、愛知県から三重県に入りました!

江戸時代は、宮宿(名古屋港)から、海上の「七里の渡し」で、桑名宿(三重県)に到着しました。

現在は海上の「七里の渡し」がないので、東海道を歩く人の間では、名古屋の神宮前駅から
三重の桑名駅までは、電車に乗ることが慣行になっているそうです。

私もこの”現代の慣行”に従って、桑名宿の七里の渡しに近いJR関西本線・桑名駅から
スタートします。

桑名駅の周辺には、焼き蛤(やきはまぐり)のお店が点在します。

”その手は くわなの 焼き蛤”で有名な桑名の蛤焼きは、江戸時代は、茶店の店先で売られて
いたそうです。

今日は風が冷たく、日没前に四日市駅前の宿に着きたいので、お店を横目に見ながら
先を急ぎます。

駅から七里の渡しへ向かう途中に、下の写真の海蔵寺がありました。



説明板によると、薩摩藩は、洪水が頻発する揖斐(いび)川などの治水工事を命じられました。

ところが、工事が難航し、責任をとって、薩摩藩の工事責任者51名が、ここで切腹した、
とあります。

ヒェ〜!厳しい!

●電の責任者も責任をとって欲しいけど・・・。

更に歩いてゆくと、揖斐(いび)川のほとりに、冒頭の写真の桑名城の櫓(やぐら)が
鉄筋コンクリートで復元されていました。

広重も描いた蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)です。

桑名城には、この様な櫓が51もあったそうです。



櫓の中は、水管理事務所になっていて、管理係のオバサンが、下の写真の様に櫓の窓から
見える四方の山、橋、高速などの風景について説明してくれました。



他に見学者も居なかったので、このオバサンと色々と長話をしてしましました。

その話によると、

木曽川、長良川、揖斐(いび)川と、大きな川が3本集まる宮宿と桑名宿の間は、江戸時代は、
洪水の頻発エリアであり、陸路を通行することは困難だったため、海上の「七里の渡し」が
定められたそうです。

宮宿の堀川から伊勢湾に出て、揖斐(いび)川の流れる桑名までが、東海道中で唯一の海路
でした。

櫓から揖斐川の巨大な水門が見えます。現在は、これらの川の水門を開けるか閉じるかで、
関係者の利害が対立し、もめているので頭が痛いそうです。

桑名城の櫓の隣が、下の写真の七里の渡しの渡船場跡でした。



従って、桑名の七里の渡しで船を降りたつもりで、ここから旧東海道を西へ進みます。

渡船場跡の脇にある上の写真の大鳥居は、ここから伊勢街道に入ることから「伊勢国一の鳥居」
と呼ばれたそうです。

江戸時代には、この鳥居を拝んで、伊勢詣を済ませた気分になって、京へ向かった不心得者も
多かったそうです。

う〜ん!

でも、確かに、伊勢にお参りに行くより、京都に遊びに行った方が楽しそうですよね。

特に、2〜3人連れの女性の旅人は、伊勢へは向かわずに、一生に一度の刺激と解放感を
求めて、京の都のショッピングと食べ歩きを楽しんだそうです。

旧東海道の左側が、桑名城のお堀になっていて、全体が城跡の九華(くわな)公園です。





お堀の石垣は、江戸時代のままだそうです。



下の写真は、徳川四天王の一人、桑名藩の初代藩主の本多忠勝の像です。



公園の突き当たりを右折し、桑名市博物館で桑名宿のパンフレットを入手します。



桑名宿の矢田立場跡や火の見櫓などを見物しながら、桑名宿を抜けて四日市駅へ向かいます。





近鉄名古屋線・伊勢朝日駅の踏切を渡り、JR朝日駅まで来たところで、恐れていた日没です!




四日市のビジネスホテルまで歩きたかったのですが、この寒風では、日没後には
歩く気がしません・・・

予定を変更して、JR朝日駅で電車に乗り、四日市駅に向かい、翌朝、このJR朝日駅を
スタートする事にします。

でも、今晩は、四日市駅から徒歩1分のビジネスホテルを確保してあります!

風が身を切る様に冷たいので、早く宿に入ってバスタブで温まりた〜い!

四日市駅で降りて、改札口を出ます。

駅の構内には売店もなく?、駅を出るとロータリーの前は、真っ暗です?・・・

駅前には、食堂も、コンビニも、交番も無く、人も歩いていません?!


大都市・四日市の駅前がなぜ?

そうか!降りる駅を間違えた?

慌てて駅に戻り、駅名を確認します。

”四日市駅”です・・・

駅名に間違いありません・・・

駅から徒歩1分のビジネスホテルはどこ?

何故、駅前が真っ暗?!

取り敢えず、駅前の道を、感で1分くらい歩いてみます。

・・・余計に、暗い道に入ってしまいました。

今、目の前で、何が起きているのか?理解出来ません・・・

「東海道中膝栗毛」の弥次さん・喜多さんの様にキツネに化かさた?

それとも、急に、痴ほう症になった?


深呼吸をして、真っ白になった頭の中を整理しようとしますが、夜風が身を切る様に冷たく
整理できません・・・

目を凝らして、辺りを見回すと、遥か遠くに、屋上ネオンの上半分が微かに見えます・・・

ひょっとして、あの辺りが、四日市の繁華街?

ワラを掴む様な気持ちで、そのネオンを目指して、速足で歩きます。

あのネオンが場末のラブホテルのネオンとかでありません様に・・・

速足で歩くこと約10分・・・

徐々に人通りが・・・

そして繁華街のネオンが・・・

近鉄・四日市駅の看板が!!

良かった!

インターネットで予約をした時、四日市駅の周辺にたくさんビジネスホテルがあったので、
一番駅に近いホテルを予約したのですが、その時、”近鉄”四日市駅と、”JR”四日市駅が
こんなに離れているというのは、全く頭にありませんでした・・・

桑名宿から四日市宿まで約13キロです。

(但し、桑名宿から朝日駅までは約5キロです。)





バスで行く東海道「第8回-3」(宮宿〜桑名宿) 2012.11.4


「42:桑名宿」

バスは、1号線を走り、木曽川、長良川、揖斐(いび)川と次々に橋を渡ります。



(上の写真は揖斐川です。)

どれも海の様に広い巨大な川です。

しかも、この3本の巨大な川の河口が一箇所に集中しているのです。

津波、高潮・・・考えただけでもゾッとします・・

・海蔵寺

薩摩藩は、洪水が頻発する長良川・木曽川・揖斐川の治水工事を、幕府より命じられました。

ところが、工事が難航し、薩摩藩の10年分の財政を使い果たしてしまいます。

薩摩藩の家老を始め工事責任者51名が、薩摩の方角を向いて、申し訳ないと切腹しました。


 
ここ海蔵寺には、切腹した24名の名前が書かかれています。

同じ様に、薩摩藩は、徳川幕府に安倍川の改修を命ぜられる等、幕府から徹底的に
いじめられます。

 この時の薩摩藩の幕府に対する恨みは深く、同じように幕府にいじめられ深く恨んでいた
長州との薩長同盟の伏線となります。

犬猿の仲だった薩摩と長州ですが、坂本龍馬は、この両者の幕府への深い恨みを巧みに
利用して、薩摩と長州の手を結ばせます。


・輪中

 ”輪中”についての地図の案内版がありました。



 そう言えば、中学の地理で、”土塁に囲まれた輪中”を習いました。

 この巨大な木曽川、長良川、揖斐川に囲まれた土地だから、”土塁で囲んだ家”だったんだ!
 今頃になって、ようやくピンときて理解できました。

・住吉神社



・浮世絵



 浮世絵は、船着き場に着いて、帆を降ろした2艘の渡し舟です。

船の背後は、桑名城です。

 左側の舟々は、帆を上げ、風を受けて海面を走っています。

・桑名城の蟠龍櫓



 揖斐(いび)川のほとりに、広重も描いた写真の桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が
復元されています。


 櫓の隣が、下の写真の七里の渡しの渡船場跡です。





渡船場跡の近くの本陣跡に、次の写真の1875年創業の老舗料亭・船津屋があり、更に近くの
脇本陣跡に、更にもう一つ下の写真の料亭月山のビルがあります。





 桑名藩の初代藩主の本多忠勝は、千葉県の大多喜城の城主でした。







 上の写真は、桑名城の石垣と堀です。

・春日神社(桑名総社)



 春日神社の門前の鳥居は、石ではなくて青銅です。



 その鳥居の横には、写真の”しるべ石”があります。



これは、迷子になった子供を捜している人が、子供の特徴を書いた紙を、この石柱の左に
貼りつけておくと、子供を見つけた人が、石柱の右にその見つけた場所を書いた紙を貼りつける、
というものです。


 面白い〜!


41:宮
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