東海道を歩く (41:宮宿)---
(写真は七里の渡し跡)
鳴海宿から、足を引きずりながら約7キロ、ようやく名古屋の市街地に入った感じで、東海道の
両側には中小のビルが続きます。
JRの踏切を渡り、名鉄のガードをくぐると、宮宿(みやしゅく)の入口である伝馬町商店街に
着きました。
でも、裁断橋跡などの史跡の立て札が点在するだけで、宿場町の面影は残っていません。
宮宿は、江戸時代には、「七里の渡し」として、次の桑名宿への海上航路の玄関口であると共に、
熱田神宮の門前町として、旅籠248軒と、桁違いの規模の宿場町だったそうです。
「七里の渡し」跡がある「宮の渡し公園」に向かいます。
しかし、いくら注意して歩いても、「七里の渡し」や「宮の渡し公園」の表示が全くありません・・・
右腰の筋肉の痛みと腰痛の再発で、間違った道を戻る元気はありません!
祈る様な気持で、表示を探しましすが、見当たりません!
参ったな〜! 道を間違えたかな・・・
高い場所から見回してみよう、と陸橋に登ってみます。
何と!その陸橋を向こう側に降りたところが宮の渡し公園でした!
「宮の渡し公園」には、船の出入りの目印となった、冒頭の写真右の「常夜灯」や、写真左の
「時の鐘」などが復元され、往時が偲ばれます。
時の鐘は、出航時刻を告げ、常夜灯は、灯を灯すことで、逆に渡船禁止の時間帶を示した
そうです。
「東海道中膝栗毛」では、弥次さん喜多さんは、宮宿の鍵屋という旅籠に泊まります。
弥次さんが、宿の主に、”船で桑名に渡るのはいいが、船から小便するのが怖くてな。”
と相談すると、
主が、”そういう方には、切った竹の筒を差し上げています。”と答えます。
翌朝、桑名に渡る船の中で尿意をもよおした弥次さんは、早速、周りの人に気付かれない様に、
こっそりと竹筒を取り出します。
本来、この竹筒の使用法は、船べりから竹筒を海に突き出して、火吹き竹の様に、
先に開けてある小さな穴から海へ流すためのものです。
ところが、この竹筒を携帯トイレと勘違いした弥次さんは、竹筒の先の小さな穴に気がつかず、
座ったまま用を足してしまいます。
(でも、1/12のNHK「ぶらタモリ」では、 江戸の隅田川では、竹筒を携帯トイレとして使用していた
そうですから、弥次さんが間違えたのも仕方なかったのかも?)
たちまち、船床は水?びたしになり、船の中は、大騒ぎになります。
竹筒を持ったまま、まごまごしている弥次さんは、船頭に、
”誰だ!小便をしたのは!船の神様が汚れる! 早く小便を拭いて!”
まくしたてられた弥次さんは、ふんどしを脱いで、床を拭き始めます。
現在は、海上の「七里の渡し」がないので、東海道を歩く人の間では、神宮前駅から
桑名駅までは、電車に乗ることが”慣例”になっているそうです。
私もこの慣例に従うことにします。
七里の渡しから歩いて10分位の熱田神宮へ、足を引きずりながら寄り道をします。
熱田神宮の前の名鉄・神宮前駅から電車に乗り、岡崎を経由して豊橋へ向います。
そして、豊橋でJRに乗り換えて、何とか横浜に戻りました。
バスで行く東海道「第8回-3」(宮宿〜桑名宿) 2012.11.4
「41:宮宿」
宮宿の”宮”は”神社”を意味しますが、ここでの宮は熱田神宮です。
”宮”の地名は全国にあり、例えば、埼玉県では、大宮の”宮”は氷川神社を意味します。
・宮の渡し公園
船の出入りの目印となった「常夜灯」や「時の鐘」などが復元され、往時が偲ばれます。
時の鐘は、出航時刻を告げ、常夜灯は、灯を灯すことで、逆に渡船禁止の時間帶を示した
そうです。
下の写真は、浮世絵の常夜灯を拡大したものです。
・丹羽家住宅
道路を挟んで、時の鐘の前にある丹羽家は、「尾張名所図会・七里渡し船着」に描かれている
脇本陣の旅籠「伊勢久」で、正面左に見える破風(はふ)の付いた玄関が格式の高さを示して
いるそうです。
・浮世絵
浮世絵は、熱田神宮の神事を描いたもので、右端が、神宮の鳥居で、お祭りの男達が
着ている赤と青の半纏(はんてん)は、有松絞りだそうです。
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