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甲州街道を歩く( 35:教来石)(山梨県北杜市)  2021.10.16




(写真は、「教来石」宿の地名の由来となった「経来石(きょう ら いし)」)


早朝に、JR新横浜駅から横浜線に乗り、八王子駅で中央線に乗り換えて、韮崎駅で下車します。


韮崎駅始発の路線バスに乗り、終点の教来石(きょう ら いし)へ向かいます。

新横浜 5:27 →(JR横浜線)→ 6:30 八王子 6:35→(JR中央本線)→ 8:29 韮崎 8:45 →  路線バス  → 9:25 教来石


教来石から先の旧甲州街道は、バス路線も無くなり、JR中央本線からも離れてゆきます。


教来石宿からの旧甲州街道は、次の蔦木宿を経て金沢宿へと続きます。

この金沢宿の近くの「JRすずらんの里駅」までは、教来石宿からは18キロもあり、その間は、電車もバスもタクシーも無い交通機関空白地帯です。

この交通機関空白地帯で、持病の股関節炎が再発しないか心配です・・・ 

 

「教来石宿」は、本陣1、脇本陣1、旅籠7軒で、甲府の代官所が治める幕府領でした。

教来石宿は、甲州(山梨県)の最後の宿場町だったので、宿場としての機能よりも、隣の信濃の国(長野県)に対する防御機能に重点が置かれていました。

そのため、宿場の外れには関所が置かれていました。

そして、「経来石(きょう ら いし)」という珍しい地名の由来については、のちほど「経来石」の実物を見物する際に・・・


 

 



前回のゴールの「下教来石 下」のバス停で路線バスを降ります。



教来石宿に入りますが、先ず、「経来石」を見物するために、街道の最初の一本目を左折します。




上の写真の火の見ヤグラの奥に下の写真の「延命地蔵尊」がありました。





緩やかな坂道を上って行くと、右手の草地の中に写真の「教来石」がありました。

   



大きな石の上には、馬頭観音と男女双体道祖神が祀られています。

案内板によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、甲州の酒折から隣国の信濃に向かう途中で、この地に立ち寄り、この石の上で休みました。

(酒折の日本武尊については、「甲州街道を歩く・石和B」を見てね。)        

                     

村人は、この大石を、日本武尊が酒折を経(へ)て来て休んだ石なので、「経来石」(へて こ いし)と呼びました。

ところが、後に、”経”の字が”教”と誤記されたため、「教来石」(きょうらいし)となり、この誤字がそのまま地名になった、とあります。

下の写真の解説版によると、1830年に刊行された甲駿道中之記には、「村の西に 教来石とて 高さ七尺許(ばかり)、竪(たて)三間、横二間許の巨石あり」と、
やはり”経”ではなく”教”と書かれているそうです。




教来石の見物を終わり、教来石宿の町並みに戻ると、左手の段上に、下の写真の「明治天皇小休所跡碑」がありました。



ここが教来石宿の「河西本陣跡」で、明治13年の巡幸の際に、明治天皇がここで休息しました。



少し進み、鳳来郵便局の手前を右折します。



旧甲州街道は、左に大きくカーブし、眼下には田園風景が広がります。









更に進むと、左手の段上に、1617年創建の「諏訪神社」があります。













説明版によると、本殿は1844年創建だそうで、本殿全体に、信州諏訪の宮大工による見事な彫刻が施されています。



諏訪神社の先の左手の段上には、写真の「明治天皇御田植御通覧之址碑」があります。

明治13年の巡幸の際、明治天皇が、ここで眼下の田植風景をご覧になった、とあります。





やがて、緩やかな上り坂になり、街道脇に下の写真の「御膳水跡」があります。



解説版によると、明治13年の明治天皇巡幸の際に、この細入沢の湧水をお飲みになり誉められた、とあります。



御膳水跡碑の脇には、写真の馬頭観音像がありました。





その先の上り坂を進んで行くと、国20号に合流します。



国道20号を進むと、左側に、写真の地蔵菩薩、庚申塔、馬頭観音などの石仏石塔群がありました。



この石仏石塔群の向いから、斜め右の旧道に入ります。

 



暫く歩いて行くと、写真の白州町の観光案内板が立っていました。

へ〜、ここも白州町なんだ〜、白州町って広いんだな〜。







やがて、右手に四国のお遍路の達成記念碑である「順禮四國八拾八箇所供養塔」があります。



次に、大目沢を大目沢橋で渡ります。







右手に、北杜市白州町上教来石の標識があります。









その先に写真の「山口関所跡」の碑がありました。







この関所は、武田信玄が設けた、甲州24ケ所の番所のひとつで、信州口を見張った國境の関所跡です。



山口関所跡碑の向かいには、写真の「西番所跡」の碑がありますが、これは、徳川幕府が設置した番所で、江戸時代には、
「女改め」の取り締まりが厳しく行われたそうです。


説明版によると、1836年、郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた際に、これを防がずして西番所の門扉を開いた判断を咎められ、
ここの番士が「俸禄召し上げ」の処分を受けました。


しかし、のちに、この番士は再び職に戻り、番所が廃止されるまで勤め、明治6年に設けられた台ケ原屯所の初代屯所長に起用された、とあります。







この山口関所跡を過ぎて、田んぼの中の1本道をひたすら歩いて行き国界橋を渡ると、もう隣国の信濃の国(長野県)です。

 




旧甲州街道は、やがて国道20号に突き当たります。



ここでは、国道20号を横切って直進し(赤矢印)、白い2階建ての建物の脇の土の道に入って行きます。















この草の生い茂る道が、ホントに旧甲州街道なのか不安になってきました?・・・・

ともかく、雑草を掻き分けながら不安な気持ちで歩いていきます。


腰のあたりまで茂った草むらをかき分けて進んだので、ズボンに雑草の種子が、写真の様にいっぱい付いてしまいました・・・









間もなく、写真の怪しげな橋に出ましたが、地図を見ると、どうもこの橋が、甲州(山梨県)と信州(長野県)の国境の「国界(こっかい)橋」の様です。



イメージしていた国境の橋とは違って、橋桁も欄干もありません。

ガッカリ・・・



国界橋で釜無川を渡ります。



橋を渡ると、旧甲州街道の正面には、害獣除けの「電流ネット」が張られており、行く手を阻みます。











皮膚がネットに触れると感電するとのことなので、持参した厚手の手袋を着用して、恐る恐る慎重に開けます・・・



鎖の先端のフック状の金具を持ち上げて、フックが掛かっていたリングから外します。



電流ネットの開閉に自信のない方や草むらが嫌な方は、先程の国道20号を横切って直進した分岐点で、横断せずに右折して(赤矢印)、
新国界橋に迂回した方が安全です。






何とか電流ネットを抜けると、旧甲州街道は、下蔦木の交差点に突き当たるので、ここを左折して国道20号を進みます。







少し歩いた先の斜め右の上り坂に入って行きます。



坂を進むと、直ぐ右手に、南無妙法蓮華経の「題目碑」があります。





この題目碑から奥へ入って行くと、上の写真の「敬冠院」があり、その境内に下の写真の「日蓮上人の高座石」がありました。







説明版によると、1274年、流罪を赦免された日蓮上人は、村々を回って布教に努めました。

当時、ここ蔦木村では、悪疫が流行り、村人は難渋していました。

ここを通りかかった日蓮上人は、この高座石の上に立って、3日3晩説法と加持祈祷を行い、村人を悪疫から救った、とあります。





後に日蓮上人の弟子となった日誘が、この高座石の脇にお堂(敬冠院)を建立して日蓮上人を祀りました。



敬冠院の先には「石仏石塔群」が並びます。





石仏石塔群の左手には、上の写真の「三つ辻柳」の説明版があります。

説明版には、この三つ辻柳は情趣豊かな大木で、村民から親しまれていましたが、強風により倒伏してしまった、とあります。

蔦木の小唄の一節に、「川路下りょか 逸見路にしよか いっそ蔦屋に泊まろうか ここが思案の三つ辻柳」と唄われたそうです。



蔦木の小唄で唄われている「逸見路」って何だろう?

その答えが、三つ辻柳の先の急な坂道を上り切った、草道の入口に立つ下の写真の「逸見路(へみじ)追分」の説明版に書いてありました。



それによると、「甲州街道」は、釜無川沿いの川路ですが、「逸見路」は、七里岩の上を通って韮崎に至る山路でした  

従って、この逸見路は、釜無川の氾濫により甲州街道が通行不能になった場合に、迂回路として利用されていたそうです。

なるほどね〜、そういう事か!

確かに、韮崎宿からずっと、甲州街道の右手は七里岩の崖が続いていて、JR中央本線はその崖の上を走っていましたものね、
昔の逸見路が現代の中央本線なんだ、納得!




上の写真は、草道の入口に立つ追分の道標で、風化していてよく読めませんが、「みぎ へみぢ にらさきまで むしゅく」と刻まれているそうです。



その右手には、馬頭観音が祀られています。









下蔦木集落の集落センターには、上の写真の標高731メートル標識が設置されています。



坂を上って行くと「真福寺」の前がY字路になっているので、左に進みます。









真福寺の境内には、写真の芭蕉句碑がありましたが、風化していてほとんど読めません。

解説版によると、”御命講(おめいこ)や 油のような 酒五升” の句だそうです。

(句意:日蓮の命日である「御めい講」の日に、油の様にトロリとしたお酒を五升もご馳走にあずかりました、と感謝の意を著した句。)





街道を進むと、左手に上の写真の「石祠道祖神」が祀られています。





その先の右手に、「応安の古碑」と刻まれた上の写真の御影石の碑があります。



その御影石の後方の上の写真の四角形の石造物が、1372年の銘が刻まれている応安の古碑みたいです。

応安の古碑の後ろには、下の写真の子乃神(ねのかみ)、九四天、 1813年建立の馬頭観音像などがあります。



この応安の古碑の先には、下の写真の甲子塔、庚申塔、馬頭観世音文字塔、馬頭観音像があります。









ここから先は、眼下の国道20号に沿った緩やかな下り坂になります。 





緩い下り坂を下り切ると、正面に石置き屋根の「蔦木(つたき)宿」のモニュメントがありました。



信州最初の宿場町の蔦木宿に到着です。

教来石宿から蔦木宿まで約5キロです。