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甲州街道を歩く (33:韮崎) (山梨県韮崎市) 2021.9.29




(写真は、七里岩の崖の中程にある「霊場・窟観音堂」)


 

「韮崎(にらさき)宿」は、北には信州道(佐久往還)、南には身延道(駿州往還)があり、そして舟運のための「船山河岸」を有する交通の要衝でした。

船山河岸は、江戸城に納める年貢米などの物資の集散地として大いに賑わいました。

韮崎宿は、本陣1、問屋1、旅籠17軒でした。

 



韮崎宿に入り、韮崎市立病院の先の下宿の交差点を左折します。



左折した道の突き当りの船山橋の左手に下の写真の「船山河岸跡」碑があります。





1835年、ここに「船山河岸」が築かれました。

この河岸は、富士川の舟運の終点として大いに賑わいました。

以前にも説明しました様に、この富士川の舟運は、江戸城の生命線でした。

つまり、江戸城が陥落したときには、将軍は、服部半蔵の手引きにより江戸城を脱出し、「八王子の千人同心」に守られて甲州街道を抜け、
この河岸から、舟で一気に徳川の本拠地である駿府に下る計画だったからです。


(八王子の千人同心については、「甲州街道を歩く:八王子」を見てね。)      

                       



船山河岸跡碑の奥には「姫宮神社」があります。



姫宮神社から下宿の交差点に戻ると、交差点の脇に下の写真の「鰍沢(かじかざわ)横丁」があります。



船山河岸までの鰍沢横丁の沿道には、茶屋などが軒を連ねていました。





韮崎宿の宿場町に入ると、右手には、重厚な造りの昭和5年創業の上の写真の「井筒屋醤油店」があります。



写真は、街道沿いのビルの前にある「馬つなぎ石」(赤丸印)です。



馬の手綱を、この石の穴に通して繋ぎました。



街道沿いの眼科医院が「韮崎宿本陣」の跡です。



本陣は問屋を兼ね、人足25人、馬25頭を常備していました。

甲州街道を通行する参勤の大名は、高島藩、高遠藩、飯田藩に限られていたうえに、日程の関係上、韮崎宿本陣に宿泊することは少なかったそうです。



この眼科医院の間の路地に入ると、正面が写真の「一橋陣屋跡」です。

巨摩郡3万石の一橋領を治めるために、1753年、宇津谷(うつや)からこの地に陣屋が移設されました。

(宇津谷の一橋陣屋跡については、「甲州街道を歩く:甲府柳町宿から韮崎宿へ」を見てね。)                 

                                                                                                   



本陣跡の向いに、1845年創業の老舗旅館で今も現役の「清水屋」があります。



後日、ここに1泊します。

本町第二交差点を右折すると、JR中央本線韮崎駅です。

本町交差点を右に入り、平和観音への坂道を上ると崖が現れます。

釜無川の浸食により出来上がった「七里岩」の西端です。



七里岩の上には、昭和36年造立の巨大な「平和観音」が立っています。

この平和観音は、群馬県の高崎観音、神奈川県の大船観音と共に、関東三観音の一つだそうです。





この平和観音の下に、1464年創建の「雲岸寺」があります。



雲岸寺の裏の七里岩の急崖には、写真の「窟(あな)観音堂」があります。

この懸崖造り(けんがいづくり)の「窟観音堂」は、828年の弘法大師の開基です。

この場所は、釜無川が氾濫して、一面の河原だったため、七里岩の東側から隧道を穿って参道にしたらしいです。



(隧道の参道の入口)







(隧道の参道の出口)

隧道の出口の横の急崖の窟観音堂の中には、20センチぐらいの仏像が千体祀られている(干体仏)らしいのですが、残念ながら工事中で、
窟観音堂には近づけませんでした。


街道に戻ると、左手に「にらさき文化村」があり、そこには下の写真の「小林一三翁生家」跡碑がありました。



小林一三は、阪急東宝グループの創業者で、宝塚歌劇団の創始者です。



更に進むと、「韮崎市役所」の敷地内に「武田信義像」がありました。



武田信義は、源頼朝に従い、富士川の戦いで、平維盛(これもり)が率いる平家軍を敗走させました。

韮崎宿の印象は、想像していた以上に大きな町で、メインストリートの歩道は広く綺麗で清潔な感じでした。

韮崎市役所から韮崎駅へ向かい、甲府駅で特急列車に乗り換えて、八王子経由で新横浜に帰りました。



甲府駅で特急列車を待つ間に、お土産に上の写真の「桔梗信玄饅寿」を買いました。


 

 



始発電車で新横浜からJR中央線に乗り、八王子経由で、上の写真の韮崎駅で下車します。



韮崎の市街地の外れの上の写真のホテルルートインコート韮崎を過ぎて水神地区に入ります。

ホテルルートインコート韮崎には今晩1泊します。

青坂バス停の先が、下の写真の様にY字路になっています。



左の直進は甲州街道、右の坂道は七里岩ラインです。



直進して進むと、石垣の上の祠に、「行人正人」と書かれた写真の「行人塚」があります。







この行人塚は、行者が生きたまま埋葬されて「即身成仏」した塚だそうです?

生きたまま埋葬なんて、驚き!

(「即身成仏」の説明については、「バスで行く奥の細道:日本最古の即身仏」を見てね。)  

                    

更に進むと、一ツ谷の交差点の手前の三角形の土地に、釜無川を鎮めるための「水神宮」(すいじんぐう)が下の写真の様に祀られていました。(1857年建立)



この一ツ谷の交差点で国道20号に合流します。





少し進むと、上の写真の「十六石」の石碑があります。

武田信玄は、釜無川の水害から韮崎を守るため、治水工事を行いました。

この際、堤防の根固めに並べ据えた巨石が十六石だそうです。

更に進むと、下の写真の石仏石塔が並んでいます。



3体の地蔵尊、1792年建立の庚申塔、1780年建立の馬頭観音像が並んでいます。

少し進み、国道20号線から分かれて、下の写真の右の脇道の下祖母石(しも うばいし)の旧甲州街道に入ります。



この分岐点には写真の様に「水難供養塔」があります。

昭和34年の台風の豪雨により釜無川が氾濫、これによる犠牲者を供養したものです。



旧甲州街道に入ると、右手には「七里岩」(しちりいわ)の崖が続く、のんびりとした田園風景で、楽しい街道歩きのスタートです。 







この街道沿いの延々と続く「七里岩」の名前は、この先の信州との國境まで、崖が延々と七里(28キロ)も連なっている、というのが由来らしいです。





のんびりとした田園風景を抜けると、広い敷地の「なまこ壁の旧家」や「長屋門の旧家」が続いています。















上の写真は、風情のある武田家の有力家臣だったという名家の「茅葺の武家門」です。



やがて左手に、1724年創建のここ祖母石(うばいし)の鎮守の「神明宮」があります。









更に進むと、左手に火の見ヤグラがあり、その向いに1721年建立の「南無阿弥陀佛名号碑」があります。

赤く塗られているところから、地元では「赤地蔵」と呼ばれています。







その先の左手に上の写真の石塔群があります。

蚕神(かいこがみ)、石尊神、道祖神、和氣大神、九頭竜大神などと刻まれています。



旧甲州街道は、この先で国道20号に合流します。





左手に写真の「治水護郷碑」があります。

昭和34年(1959)の台風襲来で、富士川(釜無川)が氾濫し多数の被害者がでましたが、この水没者の冥福を祈るための石碑だそうです。



この辺りの国道20号は、ちゃんと歩道があるので危険はないのですが、写真の様に雑草が歩道を覆っています・・・

仕方なく、雑草をかき分けながら進みます。





国道20号線をひたすら歩いて行きます。







 

地図を見ると、穴山三軒屋バス停(赤丸印)の所から300メートルくらい右に入ると、JR中央本線の穴山駅です。

本日は、この中央本線の穴山駅から乗車して韮崎駅に戻り、ホテルルートインコート韮崎に宿泊する予定です。

この小道の先300メートルに穴山駅があるハズなのですが・・・

小道の先には垂直の崖がそびえています?

ということは、ここからは見えないけれども、この崖の上に穴山駅が?

この断崖を上る道などなさそうです?・・・

え、えっ〜!、うそ〜!

地図では、ここから僅か300メートルで駅なのに・・・

参ったなぁ〜!

 

 

 

 



JR中央本線の穴山駅からの乗車を諦めて歩き始めます。





釜無川を「穴山橋」で渡ります。





穴山橋は、江戸時代には、長さ十間(18メートル)の橋でしたが、橋が流失すると舟渡しとなりました。







穴山橋を渡り終わり、上の写真の「円野(まるの)郵便局前」の交差点の歩道橋をくぐります。



そして、上の写真の「みどりや食堂」の少し先の斜め右の「上円井(かみつぶらい)旧道」に入ります。

















上の写真の円野分団第一部の火の見ヤグラを過ぎると右手に下の写真の「内藤家」の堂々とした「なまこ壁の長屋門」があります。





明治天皇は 明治13年の巡行の際に、ここ内藤家で休息しました。





上円井旧道は、上の写真の上円井の交差点で国道20号に合流します。

この交差点が「韮崎(にらさき)市」と「北杜(ほくと)市」の境です。





「小武川」を「小武川橋」で渡ります。



小武川には、江戸時代には、土橋が架橋されていました。





小武川橋を渡り終わると、直ぐに右折して、小武川に沿って進み、道なりに左折します。



間もなく、宮脇地区に入り「黒沢川」を黒沢橋で渡ります。



街道沿いの左手に、風化が進んだ「馬頭観音」らしき石碑が3体並んでいました。



この馬頭観音の先で、国道20号に合流します。



国道20号を進み、上の写真の中央の武川町農産物直売センターの所から右の小道に入ると牧原地区です。





牧原地区を進むと、変則T字路に突き当たるのでここを左折します。



この分岐点には、1822年建立の「庚申塔」があります。



旧道は、一旦、国道20号に合流します。



牧原の歩道橋の交差点を左に入ると「牧原八幡神社」があります。





牧原の歩道橋に戻ると、その先に牧原交差点があり、その脇に「牧之原」バス停があります。

もう、路線バスの最終便の時刻に近くなったので、ここからバスに乗って、韮崎まで戻ることにします。



路線バスで韮崎の繁華街まで戻り、写真のホテルルートインコート韮崎にチェックインします。



歩き疲れたので、外に出ないで、ホテル内の食堂で夕食を食べます。





 

 



翌日、ホテルの朝食を済ませると、写真のホテルルートインコート韮崎をチェックアウトします。

ホテルの前のバス停から路線バスの始発便に乗り、昨日最終便に乗った牧之原バス停で降りて、本日のスタートです。



「大武川(おおむがわ)」を「大武川橋」で渡ります。





国道20号を進むと「下三吹」バス停があります。



国道20号をひたすら歩いて行きます。







更に国道20号線をひたすら進むと上の写真の上三吹交差点があるので、ここを斜め右に入ります。











旧道を暫く歩いて行くと、上の写真の「神明社」がありますが、その境内には、以下の写真の無量院(廃寺)の跡碑や供養塔群などがあります。







旧甲州街道が国道20号に突き当たる手前の右手に、写真の「旧甲州街道一里塚」跡碑があります。



碑には、「甲府ヨリ七里ナノデ 七里塚トモ云ウ」と刻まれています。



国道20号に突き当り右折します。



尾白川(おじらがわ)を「尾白橋」で渡ります。



江戸時代には、長さ11メートルの橋が架かっていました。

橋を渡ると、武川町三吹から白州町(はくしゅうまち)台ケ原に入ります。



少し歩くと、写真の「甲州街道古道入口」の石碑があります。





草道に入り歩いて行くと、「横町の道標」と呼ばれる「馬頭観音」が3基が祀られています。



3基のうちの2基は道標を兼ねています。

1776年建立の道標には「右 かうふみち 左 はらぢ通」、1792年建立の道標には「左 はらみち」と刻まれています。

説明板によると、この道は、「かうふ(甲府)」から次の宿場町の「台ケ原」へ通じる道で、「はらぢみち」と呼ばれた幹線道路だったそうです。



 







この道標の先の右手の小高い丘の頂に「無名の大石塔」がありました。

 





説明文によると、日蓮上人の550年の法要の碑を造るために、上の写真の巨石を、尾白川を遡った山中で切り出してここまで運びましたが、
釜無川を越えられず、ここに放置されたとのこと。


従って、無名の大石塔の名の通り、碑には何も書かれていません・・・



上の写真は、この大石塔を切り出した山中から、ここまでの約10キロの道程を牽引した縄だそうです。



更に進んで、木立の中を抜けると、やがて「尾白川」沿いの土手道になります。



尾白川に架かる曲足橋の手前から緩やかな上り坂の舗装路になりますが、ここには下の写真の「甲州街道 台ケ原宿 古道」の標石があります。

 



上り坂の途中には、上の写真の様に「庚申塔(注)」や馬頭観音が並んでいます。

(注)庚申塔:60日に1回廻ってくる庚申の日に、人々が眠っている間に、腹の中にいる三尸(さんし)という虫が、天へ昇りその人の悪行を言い寿命を縮める。

   これを防ぐために、庚申塚の周りで、眠らないで徹夜で宴会を行った。

上り坂は直ぐに国道20号に突き当たります。



ここにも「古道入口」の標石があります。

説明文板よると、江戸時代には、この辺りが「台ケ原宿」の入口で、悪霊の侵入を阻止するための道祖神があったそうです。



台ケ原下の交差点で国道20号を横断すると、正面に写真の「日本の道百選 甲州街道 台ケ原宿」の大きな看板があります。



「台ケ原宿」に到着です。


 

韮崎宿から台ケ原宿までは約16キロもあります。