(写真は、尾張の殿様の定宿)
甲州街道の難所「座頭転がし」を無事に抜けると、歩いて来た矢坪旧道の西口にあたる新田に出ました。
この新田の辺りは、「犬目宿」の東側にあたり、写真の立派で長い塀の旧家があります。
この家が、尾張藩主の常宿だった「陣屋」跡です。
この陣屋は、代々、米山伊左衛門を名乗り、尾張藩主の定宿を勤めると共に、庄屋も兼ねていました。
陣屋の脇の道端に、上の写真の「念佛石経塔」と「庚申供養塔」がありました。
尾張藩主御常宿から先に進むと、一旦、犬目宿の東側の集落が途切れます。
旧甲州街道の下り坂を進んで行くと、県道30号に合流します。
更に進むと、集落が見え始め、下の写真の無人の野菜売りもあります。
集落の中を進んで行くと、上の写真の「犬目宿碑」がありました。
この辺りが、犬目宿の西側で、西側の集落には、本陣や問屋などが置かれていました。
犬目宿は、本陣2、問屋1、旅籠15軒でした。
残念ながら、昭和45年の大火で、宿場町の6割が焼失してしまいました。
それでも、出格子造りの雰囲気のある建物が点在します。
宿場町の中程に、写真の「犬目平助 生家」の解説板があります。
1836年の「天保の飢饉」に際して、ここ犬目村の「兵助(へいすけ)」と、下和田村(大月市)の武七が、共に「甲州一揆」を起こしました、
このときの「兵助」は40歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、当時、一揆の首謀者は死罪でした。
家族に類が及ぶのを恐れた兵助が、妻へ宛てた「離縁状」が、この生家に残されているそうです。
この甲州一揆は鎮圧され、武七以下13人の首謀者は投獄、処刑されました。
しかし、兵助は各地を流浪の末、上総国(千葉県)の木更津に身を隠し、晩年、こっそりと犬目村に戻りました。
そして、役人の目を逃れて隠れ住み、明治2年、71歳で故郷のここ犬目宿で、ひっそりと亡くなりました。
犬目兵助生家の先の右手に上の写真の「明治天皇御小休所址碑」があります。
ここが、上条家が勤めた「笹屋本陣」跡です。
本陣跡の道路向うが上の写真の「問屋場大津屋跡」です。
犬目宿の西の外れには、犬目兵助の菩提寺である写真の「宝勝寺」があります。
県道30号を更に進むと、上の写真左側の1803年建立の「白馬に跨る不動尊像」がありました。
その先に、下の写真の赤い鳥居があり、この鳥居は「白瀧山 白馬不動尊の参道口」で、山中には不動院と白滝があるそうです。
737年、疱瘡(天然痘)が大流行したので、時の天皇が神の啓示を仰ぐと、犬目の白鳥不動尊を祈願せよとのお告げがありました。
天皇の命により、名僧・行基が、白滝に打たれ祈願すると、諸国の疱瘡が治まったといいます。
県道30号を更に進むと、右側の擁壁に設けられた上の写真のスロープが現れます。
ここが「君恋坂旧道」の東口です。
君恋坂旧道を進んで行きます。
君恋坂旧道を抜けると、下の写真の様に県道30号に合流しました。
県道30号を更に進んで行くと、1798年建立の上の写真の「白滝山不動明王塔」がありました。
多分、先ほどの「白馬に跨る不動尊像」、赤い鳥居の「白瀧山 白馬不動尊の参道口」などと関係する一連の石碑なのでしょう。