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甲州街道を歩く( 16:野田尻)(山梨県上野原市) 2020.11.24


    

(写真は、野田尻宿の町並み)


「野田尻宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠9軒でした。

ひとつ手前の「鶴川宿」と同様に、鶴川が水量が増して川留になると、大いに賑わいました。

安藤広重は、ここ野田尻宿に宿泊したときの様子を、「小松屋といへるにとまる。広いばかりにて、
きたなき事おびたゞし。」と酷評しています。

野田尻宿の町並みは、残念ながら、明治19年の大火で、跡形もなく燃え尽きてしまいました。 



野田尻宿に入ると、右手に「明治天皇御小休所址碑」がありますが、ここが「宮田本陣」跡です。



宮田本陣跡の道路向いに上の写真の「野田尻宿碑」がありました。



野田尻宿碑の後ろの家は、「旅籠・大黒屋」跡です。



上の写真の「犬嶋神社」は、野田尻宿の鎮守です。

以下は野田尻の町並みです。

























野田尻宿を出ると、緩やかな上り坂になります。 











緩やかな上り坂の左手に、上の写真の「お玉ヶ井碑」が建っています。

伝説によると、昔、野田尻宿の旅籠の美しい女中の「お玉」が、長峰の池に住む「竜神」と恋仲になりました。

しかし、お玉は、旅籠の主人に注意されたために、姿を消してしまいます。

すると、旅籠の前に置いてあった手桶から水が湧き出し、お玉は「竜神」と結ばれて竜になりました。

これは、お玉は念願の竜神との恋が叶ったので、水不足に悩んでいた野田尻宿の人々のために、
ここ「お玉ヶ井」に水を湧き出させたのだそうです。



緩やかな上り坂の正面は「西光寺」です。



「西光寺」は、824年創建の臨済宗で、この辺りの臨済宗の本山です。



西光寺の前のY字路を、右手の上り坂に入ります。 





その上り坂を先に進み、道標「旧甲州街道 大月・甲府方面」に従って、左手の「北久保橋」で中央高速を跨ぎます。 









北久保橋を渡り終わると、土の道になりました。









土の道を進んで行くと、県道30号に出たので、ここを、「犬目・鳥沢方面 旧甲州街道」の木製の道標に従って
右折します。 








 
県道30号を更に進んで行くと、右手の擁壁の先に「荻野一里塚跡」の解説板がありました。



この荻野一里塚は、江戸日本橋から20里目(80キロ)です。

 





野田尻宿を出て、県道30号沿いに、どんどん進んで行くと、やがて荻野の集落に入りました。











荻野の集落を抜けると、県道30号は、中央高速沿いになりました。







やがて、この中央高速を「矢坪橋」で渡ります。





「矢坪橋」を渡ると、上の写真の「大乗妙典 (だいじょうみょうてん) 日本廻国(かいこく)供養塔」(1813年建立)
がありました。

「大乗妙典 日本廻国 供養塔」とは、江戸時代に、全国六十六ケ国を巡礼し、一国一ケ所の霊場に、法華経を
一部ずつ納め終えた行者が、その納経達成を記念して建てた塔です。



「矢坪橋」の先の「矢坪坂」を上って行き、上の写真の右手のスロープの「矢坪旧道」に入ります。 



その矢坪旧道の入口に、写真の「矢坪坂の古戦場跡」の説明板がありました。

説明板によると、1530年、相模国の北条氏の軍勢が、この「矢坪坂」を上って、甲斐国に攻め込んで来ました。

これに対し、甲斐国の武田家の家臣の小山田氏の軍勢が、「矢坪坂」の上で待ち構え、戦闘となりました。

激戦の末、武田側の小山田氏が破れ、「矢坪坂」から撤退しました。

その後、この矢坪坂付近からは、当時の激戦の際の弓矢が多数掘り出されたそうです。



 矢坪坂を上り切ると、甲州街道は細い山道になり、甲州街道の難所「座頭ころがし」を目指します。









長閑で快適な矢坪旧道を進みます。





突然、「熊出没」の看板が!

えぇ〜っ!イノシシの次は熊ですか・・・



中山道踏破のときは、山奥の街道沿いに、クマ避けに鳴らす様に鐘が設置され、熊を捕獲するための罠や檻が置かれており、
生々しい感じでホントに怖かったです。

(中山道のクマ避けの鐘と熊捕獲の檻については、「中山道を歩く・奈良井」と「中山道を歩く・細久手」を見てね。)    

  



でもこの辺りは、写真の様な、立派な造りの民家が点在しているので、もし熊に遭遇したら、この辺りの民家に逃げ込む
ことに決めて先へ進みます。 



やがて、右手に上の写真の「武甕槌(たけみかづち)神社」の鳥居がありました。

武甕槌神社は、軍神を祀るところから軍勢神社とも呼ばれるそうです。





武甕槌神社を過ぎ、雑木林を抜けると、上の写真の青面金剛像が彫られた庚申塔がありました。



やがて、矢坪旧道は、県道30号沿いの崖の中腹の獣道の様な山道になりました・・・







山道の途中に、上の写真の「矢坪金毘羅神社参道」の標石がありました。

























更に進んで行くと、かっては甲州街道の難所だった「座頭転がし」の標識があります。





この辺りは、深い谷を挟んだヘアピンカーブの山道で、狭く曲りくねり、崖側の頭上からは、石が転がり落ちてくる危険がありました。

その昔、先導者の鈴音を頼りに進んできた座頭(目の不自由な人)達が、屈曲している山道を、先に回り切ってしまった先導者の
鈴音の方に進み、谷底に転落死したそうです。

(中山道の「座頭転がし」については、「中山道を歩く・碓氷峠」を見てね。)     



現在は、座頭が谷底に転がり落ちたという崖の側には、写真の様に緑色の金網が張られていて安全です。















「座頭転がし」を無事に抜けると、これまで歩いて来た矢坪旧道の西口にあたる蛇木新田の舗装路に出ました。




 
この辺りは、もう次の「犬目宿」の東側になります。


野田尻宿から犬目宿までは約 4キロです。

 

 



 

 



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