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甲州街道を歩く ( 06 : 日野 ) 2020.11.1




(土方歳三 : 新選組のふるさと歴史館の入場券)


日野宿(ひのじゅく)は、見所が多いので2回に分けて、今回は「新選組と日野宿」に絞り、次回に「日野宿を散策」します。



上の写真のJR日野駅で下車して、先ず、日野のメインストリートの中程にある下の写真の「日野宿交流館」へ向かい、新選組の
史跡散策コースのパンフレットを貰って、見学の道順や見所の説明を受けます。 


ここ多摩地域は、新選組の中心人物を多く輩出しました。

局長の「近藤勇」は調布市野水、副長の「土方歳三」は日野市石田、そして、六番隊組長の「井上源三郎」とその甥の「井上泰助」は
日野市本町の出身です。

そして、日野宿の名主の「佐藤彦五郎」は、ここに天然理心流の道場を開いて新選組を支えました。

この道場は、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、井上源三郎らの後の新選組の面々の出会いの場となりました。



「司馬遼太郎」の「新選組血風録」では、この道場での関係を以下の様に描いています。

「近藤にとっても土方にしても、沖田は実の弟の様な気がする。

 現実、どちらも末弟の生まれで、弟というものをもたなかったから、そういう実感でいた。

 この年、沖田総司21歳、近藤勇31歳、土方歳三33歳である。

 これに井上元三郎を含めて、4人が、天然理心流宗家の近藤周斎の相弟子であった。

 この4人は、三多摩気質のいわば朋党根性が強く、ちょっと同時代の、他の武士の仲間にはみられない「友情」があった。」

 

 



日野宿のほぼ中心にある写真の「日野宿本陣」に入ります。

(月曜休館:写真撮影可:新選組のふるさと歴史館との共通券300円)



上の写真は、「土方歳三」が昼寝をしていたという「玄関の間」です。

日野宿本陣の主の「佐藤彦五郎」は、歳三の姉「のぶ」の夫で、歳三は、実家よりも、こちらの本陣の方が居心地がよかったらしく頻繁に訪れていたそうです。

姉夫婦をとても慕っていたという歳三にとっての安らぎの間だったのでしょう。



「司馬遼太郎」の「燃えよ剣」では、ここで昼寝をする土方歳三を以下の様に描いています。

「私(土方歳三)は、姉よりも姉の婿の佐藤彦五郎というほうに懐いていて、石田村の生家にいるときよりも、ここ日野宿の佐藤家にいるほうが多かった。

 この人(佐藤彦五郎)は日野一帯の名主でね。お父さんの代から我々の天然理心流の保護者だった。

 この人の義兄も、剣は免許の腕です。」


 
上の写真は、佐藤家が「市村鉄之助」を匿っていた「控えの間」です。



「司馬遼太郎」の「燃えよ剣」では、歳三は、死を覚悟した函館での最後の出陣の際、まだ少年だった歳三の小姓の「市村鉄之助」を呼び遺言を託します。

「歳三は、日野宿の名主の佐藤彦五郎に、これまでの戦闘の経緯を詳しく伝えよと言い、1枚の写真を託した。

 鉄之助は、泣いて残留を請い、腹を切るとまで言って、あくまで拒んだ。

 すると歳三は、怒って、従わなければ即刻討ち果たすぞ、と言って、この遺言を伝える任務を受けさせた。」

この「市村鉄之助」に託した1枚の写真が、現在、唯一残る土方歳三の写真です。

 

 



日野宿本陣の裏手に、写真の「佐藤彦五郎 新選組資料館」があります。



土方歳三の義兄の佐藤彦五郎の子孫が営む資料館です。

(開館:第1・第3日曜の 11:00〜16:00 のみ : 500円 : 館内撮影禁止)

土方歳三の形見の品などは全て、この義兄の彦五郎に送られていました。

従って、展示品には、土方歳三の愛刀、土方歳三の死を覚悟した手紙、近藤勇が彦五郎に贈った短銃などがあります。



(資料館のパンフレットから)

1868年、鳥羽・伏見の戦いで、新選組は敗れて江戸に戻りますが、攻めてくる官軍を迎え撃つために、新選組が新たに「甲陽鎮撫隊」を組織すると、
佐藤彦五郎も、農民を中心とした「春日隊」を組織してこれに加わりました。

しかし甲陽鎮撫隊は、甲州・勝沼の戦いに敗れて、彦五郎は空しく帰郷しました。

日野宿は、その後、官軍によって徹底的な捜索を受けたため、佐藤彦五郎は、歳三の遺品を持ち帰った「市村鉄之助」を日野宿本陣の控えの間に匿い続けます。

 



上の写真は、日野宿本陣の近くの「八坂神社」です。


 
この神社には、上の解説写真にある様に、1858年に、近藤勇や沖田総司らにより奉納された剣術額が保管されています。

 



日野のメインストリートの街道から少し脇の小道を入ったところに、上の写真の「井上元三郎 資料館」があります。

(開館:第1・第3日曜の 12:00〜16:00 のみ : 500円 : 館内撮影禁止)

先客の入館者は、2組の若い女性のグループでした。

井上源三郎は、新撰組の六番隊組長で、この資料館は、源三郎の生家の土蔵を利用して、井上家の子孫が開館したのだそうです。

井上家は、代々、八王子千人同心を務めた家柄なので、八王子千人同心に関する資料も展示されています。

(八王子千人同心については、次の八王子宿でご紹介します。)

また、土方歳三の書状や遺品、沖田家関連の書簡なども展示されています。

   

(資料館のパンフレットから)

    

(資料館のパンフレットから)

 

 



上の写真は、JR日野駅の前の「宝泉寺」です。



境内には、新選組六番隊長の井上源三郎の墓があります。



上の写真は、宝泉寺の先にある「大昌寺」です。



佐藤彦五郎と妻ののぶ(土方歳三の姉)が眠る佐藤家の墓があります。

 

最後に「日野市・新選組のふるさと歴史館」を訪ねます。




JR日野駅からはちょっと遠く、かなりの急こう配の上り坂を、15〜20分も歩くので覚悟が必要です・・・  

(月曜休館  : ロビーの撮影コーナー以外は撮影禁止 : 日野宿本陣との共通券300円)



新選組のふるさと歴史館は、甲州街道と日野宿、新選組、戊辰戦争などをテーマにしています。

新選組の誠印の羽織袴のコスプレコーナーもありますが、残念ながらコロナ禍のために中止でした。 

展示は、新選組の誕生から終焉までを、天然理心流と新選組、新選組と戊辰戦争、幕藩体制の動揺と日野宿などのテーマ毎に、
歴史の流れの中で理解出来る様に工夫されています。

 




(写真は、新選組の土方歳三がよく昼寝をしていたという「日野宿本陣」)

 

日野宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠20の比較的大きな宿場で、「東の地蔵」から「西の地蔵」の短い距離の間に、上宿、中宿、下宿の
3宿がありました。

日野宿には、飯盛女(めしもりおんな)等の風俗営業がなかったため、ほとんどの旅人は、次の八王子宿か前の府中宿に宿泊した
らしいのですが、それでも、幕府役人や寺社参詣者などで大変賑わったそうです。

 

前回は、「新選組と日野宿」をご紹介しましたが、今回は、甲州街道歩きに戻って、前々回のゴールの日野宿の「東の地蔵」から
スタートします。



街道の左手は、日野宿の入口の「東の地蔵」(東口:江戸口)で、ここから右折して「日野宿」に入ります。



右折してすぐの左手角には、下の写真の1884年建立の「高幡不動道標」があります。



この道標には、「左 江戸   東 神奈川   西 八王子」と刻まれているらしいのですが風化していてよく読み取れません・・・

この角を左折して江戸へ向かう道は、川崎街道と呼ばれ、この先、高幡不動尊を経由して、東海道の川崎宿まで通じていました。



写真は下佐藤家が名主を勤める「日野宿本陣」で、隣の上佐藤家と交代で本陣を営んでいました。

(月曜休館:写真撮影可:新選組のふるさと歴史館との共通券300円)

(日野本陣の新選組に関する部屋については、前回の「新選組と日野宿」を見てね。)



日野宿本陣の脇には、上の写真の明治天皇記念碑があり、明治天皇日野御小休所趾及建物附御膳水と刻まれています。

日野宿本陣の中に入ると、ガイドの方が、建物の構造や新選組との関係などの質問に対して丁寧に答えてくれます。



上の写真の土間から上がる正面の広間(18畳)は、「主屋」で、名主の仕事部屋です。



上の写真は、逆に、正面の広間(18畳)から土間を見たものです。



上の写真は、「玄関の間」で、広い縁側を式台と言い、身分の高い人は、ここから上がって中に入りました。



中廊下を経て南側に行くと、上の写真の「上段の間」があります。



上の写真は、茶の間と仏間です。



上の写真は、6畳の部屋が連なる「控えの間」です。



部屋の鴨居には、蝙蝠(コウモリ)の釘隠しがあります。



更に、玄関の床には、ひょうたんが彫られていて遊び心を感じさせます。

 



下佐藤家の「日野宿本陣」を出ると、隣は上佐藤家本陣跡で、写真の門が残っています。





日野宿本陣の道路を挟んで斜め向かいが、問屋場と高札場の跡ですが、現在は、その跡地を利用した日野図書館になっています。



この辺りが中宿で日野宿の中心地でした。



(渡辺家の蔵)



(有山家の蔵)



日野市役所入口交差点の右手のガソリンスタンドの脇に上の写真の「石造金子橋擬宝珠親柱」があります。

多摩川から引き入れた用水が宿並を横切っていた名残です。



写真は、日野宿の出口付近にある「日野八坂神社」です。

日野八坂神社の道路向かい側に、奥へ入る細い路地が在りますが、この細い路地が、旧甲州街道の道筋で、その路地を少し進むと、
下の写真の「上宿の辻公園」があります。



この公園から、旧甲州街道は「鍵の手」に曲がって、JR日野駅前まで延びていました。



正面は、JR日野駅の高架ホームです。





JR日野駅の左手の坂を線路に沿って上って行くと、右手の線路沿いの階段上に、「飯綱(いずな)大権現」が鎮座しています。 







ここが、日野宿の西の出口の「西の地蔵(京口)」です。 

飯綱権現は、武家の信仰が篤く戦勝の守護神で、天狗の姿で白狐に乗った姿で現れたそうです。

飯綱大権現の横の下の写真の地蔵堂の地下には、1713年造立の「坂下地蔵」と呼ばれる銅像の地蔵菩薩坐像が安置されているそうです。





お堂の前には、「石造りの地蔵様」が並んでいます。



坂を下りて、JR日野駅に戻り、JR中央本線ガードをくぐって左折し、線路沿いの「大坂上通り」の上り坂を進みます。



まもなく、上の写真の正面の中央自動車道の高架をくぐった辺りで、坂を上り切りました。 

坂を上り切ったところが、現甲州街道(都道256号)との合流点です。



現甲州街道の道幅は広くなり、右側は、広大な敷地の「日野自動車」の本社工場で、主にトラックやバスを生産しています。



歩いても歩いても、日野自動車の工場の生垣が、延々と続きます・・・







ようやく日野自動車の工場を過ぎると、日野市から八王子市に入ります。