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甲州街道を歩く ( 05:府中 ) 2020.10.13




(写真は、府中宿の高札場(写真左)と、本陣だった中久本店(写真右))

 

「府中」の地名は、大化の改新後の律令時代に、武蔵国の国府が置かれ、この地方の中心地
だったことに由来します。

府中宿は、甲州街道と鎌倉街道とが交差する交通の要所であり、生糸を扱う商家が軒を連ねて
いました。

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒、問屋3軒と大いに賑わっていました。

 

 



「府中宿」がある「府中市」に入りました。



少し歩くと、上の写真の「観音院」があり、その参道口には、下の写真の様に、庚申塔、地蔵尊、
馬頭観音などが並んでいます。





西武多摩川線の線路を渡ります。



更に歩くと、街道の左側に、新田義貞が鎌倉を攻め落とした際の陣中の守仏を祀る上の写真の「染屋不動尊」が
ありました。



染屋不動尊の道路向こうの祠の中には、上の写真の「観世音菩薩像」が安置されています。


「旧甲州街道」は「甲州街道」の南側を並行して走っていますが、その旧甲州街道の更に南側を、旧甲州街道よりも古い「しながわ道」
(江戸時代初期の旧甲州街道)が並行して走っています。



府中宿の「一里塚跡」は、「旧甲州街道」よりも古い「しながわ道」沿いにあるということなので、「旧甲州街道」を
左折して、この「しながわ道」(品川街道)に出ます。



「しながわ道」を歩いていると、確かに、左手に写真の「常久の一里塚跡」がありました!



案内板によると、「日本橋から7里目(28キロ)の甲州古道の一里塚で、塚木は松と杉だった。この「しながわ道」は、
かっては東海道の品川に通じていた。」とあります。



「しながわ道」沿いの「常久の一里塚跡」を見たので、満足して、京王線東府中駅の脇で、「しながわ道」から
「旧甲州街道」に戻ります。



旧甲州街道の左側に、写真の「国府八幡宮」への長〜い参道がありました。





国府八幡宮は、一国一社の八幡宮として、武蔵国の八幡宮として創建されました。



参道の先の鬱蒼とした森の奥に上の写真の社殿がありました。



旧甲州街道に戻って進むと、写真の府中サウスビルの脇に「明治天皇行在所跡」の解説碑がありました。



それによると、ここ明治天皇行在所跡には、かって、田中三四郎家が務める「柏屋本陣」があったそうです。



その先には、上の写真の「ケヤキ並木」があり、下の写真の「ケヤキ並木馬場寄進碑」と「源義家の像」が
建っています。





説明版によると、1062年、「八幡太郎」の名で知られる源義家が、父の源頼義と共に、奥州の安倍一族を平定し
(前九年の役)、戦勝のお礼にケヤキの苗木1,000本を寄進した、とあります。

また、ケヤキ並木両側の歩道部分は、かっては馬場だったそうです。

 



「ケヤキ並木」の道路向こうは、1900年も前に創建されたという武蔵国の鎮守の「大国魂(おおくにたま)神社」です。


    
大国魂神社は、江戸時代には、将軍家から武蔵国では最大の朱印地を与えられていたそうです。

大国魂神社では、現在も、毎年5月に伝統の「くらやみ祭」が行われ、80万人もの見物客で賑わっています。

「くらやみ祭」の名前の由来は、尊い神様が人の目に触れない様に、御輿(みこし)を真夜中に担ぐためだそうです。

「司馬遼太郎」の名作「燃えよ剣」も、「くらやみ祭」の描写で幕を開け、祭りへと繰り出す若き「新選組副長・土方歳三」
の姿が描かれています。



”新選組局長近藤勇(いさみ)が、副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)とふたりっきりの場面では、「トシよ」と呼んだ、
という。

 勇は上石原、歳三は石田村の出で、どちらも甲州街道ぞいの在所で、三里と離れていない。

 今夜は、府中の六社明神(大国魂神社)の「くらやみ祭」であった。

 この夜の参詣人は、府中周辺ばかりでなく三多摩の村々はおろか、遠く江戸からも泊りがけでやってくるのだが、
一郷(いちごう)の灯が消されて浄闇(じょうあん)の天地になると、男も女も古代人にかえって、手あたり次第に
通じ合うのだ。”

この「燃えよ剣」に描かれている様に、江戸時代には、闇の中で、若い男女が一期一会の出会いを求める風習があり、
歳三もそのために「くらやみ祭」に出掛けたのでした。

 



大国魂神社を出て、更に進むと、かって「札の辻」と呼ばれた、旧甲州街道と鎌倉街道との交差点で、その角には、
写真の巨大な「高札場」があります。





高札場は、横幅4.6メートル、高さ5メートルで、当時の姿をとどめる高札場は、都内では、東大和市の蔵敷高札場と
ここの2か所のみだそうです。



高札場の道路向かいは、1860年創業の上の写真の「酒屋・中久本店」があり、その隣地が「問屋場」でした。


 

府中宿の中心の巨大なの高札場の少し先に、下の写真の「高安寺」(こうあんじ)があります。











山門には、上の写真の仁王像と下の写真の「奪衣婆(だつえば)」像がありました。



「奪衣婆」は「閻魔大王の妻」で、三途の川で、盗人の両手の指を折り、死者の衣類を剥ぎ取る
恐ろしい老婆です。

山門に奪衣婆の像があるのは初めて見ました。

奪衣婆の表情が怖っ〜・・・!

(新宿の正受院の奪衣婆像については、「甲州街道を歩く:新宿-2」を見てね。)

高安寺は、武蔵国の国司であった「藤原秀郷」の館跡に建立されましたが、その後、荒れ寺となって
いました。

足利尊氏が、全国に安国寺を建立した際に、修復して再建されました。 

境内の墓地の奥には、写真の「秀郷神社」があり、その横に「弁慶 硯(すずり)の井」があります。



兄の源頼朝の怒りに触れ、源義経は、鎌倉入りを許されませんでした。

そこで、弁慶が、ここの井戸の水を汲んで硯(すずり)の水として、源義経の赦免の祈願のために
大般若経を書写した、とあります。



そのとき硯の水を汲み取った井戸が「弁慶 硯の水井」なのですが、弁慶硯の井の碑の周辺を探し回っても、
肝心の井戸は見つかりませんでした・・・

 


高安寺から街道に戻り、「弁慶坂」を左に見ながら、「弁慶橋」跡を通って、京王線の踏切を越えて行きます。

「弁慶坂」と「弁慶橋跡」は、上記の「高安寺」に伝わる「弁慶」の伝説に由来するものです。







暫く歩くと、街道沿いに、写真の様な長〜い塀があり、その家には、立派な銅葺き屋根付きの「内藤家の
冠木門」がありました。





内藤家は、かつて、旧本宿村の名主を務めた地元の名家で、敷地は三千坪もあったそうです。



間もなく、甲州街道(国道20号)に合流しますが、その先の本宿交番の脇に、下の写真の1792年建立の
「秋葉常夜灯」がありました。

説明板によると、度重なる火災に苦しんだ地元民が、秋葉神社で「火伏せ」の祈祷を行い、この常夜灯を

設けたそうです。





少し歩くと、写真の「武蔵府中 熊野神社」があり、境内の奥へ進むと、写真の復元した古墳がありました。





説明版によると、平成15年に発掘が開始され、三段築成の上円方墳であることが確認された、とあります。



最近の発掘なんだ〜。



熊野神社を過ぎると、すぐに、JR南武線の跨線橋である西府橋を渡り、国立市の谷保(やほ)に入ります。



街道沿いの右側に、谷保の名主であり医者の家柄だった「本田家の薬医門」がありました。

薬医門とは、前方に2本、後方に2本の計4本の柱で、門の屋根を支える構造の門のことです。

門の脇に木戸をつけ、扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたそうです。



本田家は幕府の馬医者も勤めていたので、この薬医門は、乗馬のままくぐれる造りになっています。

本田家は、新選組の土方歳三の実家と親戚関係にあり、歳三は、書の手習いのために、毎月この家に
通っていたそうです。



本田家の薬医門の先には、江戸時代には、毎夕、交代で灯を灯していたという、上の写真の
1863年建立の「秋葉山常夜燈」がありました。


少し歩いて、谷保天満宮前の交差点に来ましたが、交差点の右側はJR南武線の谷保(やほ)駅で、
左側が下の写真の「谷保(やぼ)天満宮」です。





参道を歩き、階段を下ると「谷保天満宮」の本殿がありました。 


この天満宮は、東日本最古の天満宮で、千年以上の歴史を持ち、亀戸天神、湯島天神と共に、
関東三大天神の一つです。



拝殿前には、天神様のお使いの牛の石像があります。

菅原道真が大宰府に流罪になると、道真の三男の道武は、ここ谷保の地に配流されました。

道真の死後、道武は、父の木像を彫り、これをここに祀ったのがこの天満宮の始まりです。

しかし、この道真の木像の出来が悪く、野暮ったい感じだったことから、「野暮(谷保)天」の語源に
なってしまったそうです。

へ〜っ!、そうなんだ、”野暮ったい”という言葉は、この谷保(やぼ)天満宮から来ているんだ!


暫く歩いて行くと、左手に下の写真の「南養寺」が見えて来ました。





南養寺の参道口には、上の写真の石像と、下の写真の「上谷保村 常夜灯」(1794年建立)がありました。



常夜灯には、秋葉大権現、寛政六甲寅年四月上谷保村、天満宮、榛名大権現、と彫られています。

大正時代までは、村人が、当番で、毎夕、灯りを点していたそうです。



少し進むと、矢川橋があり、橋の手前に写真の「五智如来像」がありました。



説明版によると、五智如来とは、仏教の5つの智(大円鏡、妙観察、平等性、成所作、法界体性)を
備えた仏像のことだそうです。



更に、暫く歩いて行くと、上の写真の「元青柳村 常夜灯」(1799年建立)がありました。

説明版によると、 江戸時代には、村を火難から守るために、火伏の神を祀った「秋葉神社」の常夜灯を、
各村の油屋の近辺に建てたので「秋葉燈」とも呼ばれていた、とあります。

常夜灯には、榛名大権現、正一位稲荷大明神、寛政十一年九月施主村中、と彫られています。

昭和初期頃までは、村の人々が、毎晩当番で、ローソクを一本ずつ点していた、とあります。

また、暫く歩いて行くと、下の写真の五又路に出ました。

左折が甲州街道(国道20号)、左斜めが新奥多摩街道、右端が立川通り、そして新奥多摩街道と
立川通りとの間の斜めに入る狭い道、と道が4つに分かれるのですが、旧甲州街道の表示が無いので、
どの道を行けばよいのか?

う〜ん、参ったなあ〜・・・

携帯を取り出して、インターネットで調べます。



どうも、上の写真の右端の赤い色のガソリンスタンドの左脇から入る「新奥多摩街道と立川通りとの間の斜めに
入る狭い道」で、奥多摩街道と表示があるのが旧甲州街道みたいです。

五又路を右から2つ目のこの道路に入ります。



この道を少し歩くと、旧甲州街道の標識が見つかりました。

この標識に従って、三叉路を左折します。



何となく旧街道らしい雰囲気です。





更に、旧甲州街道の標識に従って、新奥多摩街道を横断して、下水処理場の横を通って行くと、下の写真の
「日野渡し跡碑」がありました。








説明版によると、この辺りは、大正15年までは橋が無く、船渡し(日野の渡し)だったそうです。



少し歩くと、正面に多摩川の堤防が見えてきました。

この多摩川の土手に上って、「立日橋」を目指して歩いて行きます。

「立日橋」は、立川市と日野市に架かる橋なので、両市の頭文字を取って「立日(たっぴ)橋」とネーミングされた
そうです。

う〜ん、安易なネーミングだな〜・・・



橋の上を走っているのは、多摩モノレールです。







立日橋を渡り終わると、日野渡し跡碑の対岸の辺りの土手に、写真の「日野渡船場跡」の説明版がありました。





ここから、日野市に入ります。



右手に広大なスポーツ公園の森を見ながら歩いて行くと、左手に「東の地蔵」が見えて来ました。



この「東の地蔵」が、次の日野宿の入口の「東口(江戸口)」です。