(自分の往生する日を予告して棺桶を買い、当日、村人が見守る中、予告通りに往生した
「妙円」尼僧の地蔵)
「上高井戸宿」は、前の宿場の「下高井戸宿」と半月交代で勤める「合宿(あいじゅく)」でした。
上高井戸宿は、本陣1軒、問屋1軒、旅籠2軒でした。
甲州街道沿いに、「上高井戸宿」の本陣があったという上高井戸1丁目まで来ましたが、本陣跡の
標識すらありません・・・
環八通りを横断し、上の写真のペットショップを左折して、「甲州街道(国道20号)」と分れ、「旧甲州街道」に
入っていきます。
旧甲州街道の右手に、上の写真の「井之頭 弁財天道 道標」がありました。
道標には、井の頭公園の池にある弁財天まで、"是ヨリ一里半”と刻まれています。
その道標の先の左手に、1648年創建の写真の曹洞禅宗「長泉寺」がありました。
この長泉寺には、上高井戸宿の本陣を務めた武蔵屋の墓があるとのことでしたが、寺の脇の墓地には表示がなく、
どの墓か分かりませんでした。
上の写真の様に、墓地の横を京王線が走っています。
長泉寺の先の左手に、烏山用水に架橋されていたという大橋の親柱(下の写真の左端の橋の親柱)の「武州千歳村
大橋場の跡」碑がありました。
大橋場跡碑の脇に、1771年に、地頭名主を勤めた下山家が造立した「下山地蔵」(上の写真の赤い羽織を着た地蔵)が
ありました。
下の写真は、大橋場跡の斜め向かいにあった「せたがや百景標石」です。
百景標石には、「旧甲州街道の道筋 : 昔の街道筋を偲ばせるものは残っていないが、この道筋が街道だったことを
忘れるわけにはいきません。」と書かれています。
確かに、ここ旧甲州街道には、街道固有の道のカーブがあり、道筋だけは江戸時代から変わっていないことを感じさせます。
仙川に架かる大川橋を渡ると、旧甲州街道は、仙川三差路で、排ガスの甲州街道(国道20号)に再び合流しました。
合流してすぐの京王線千川駅の前の右手に、写真の「昌翁寺(しょうおうじ)」がありました。
昌翁寺は、仙川領主の飯高貞政(いいたか さだまさ)が建立し、菩提寺としました。
貞政は、もともとは今川義元の家臣でしたが、徳川家康に仕え、戦功により旗本となり、ここ下仙川村の領地を
与えられました。
昌翁寺の門前には、庚申塔が2基と、廻国塔が並んでいます。
廻国とは、全国66ヶ国の著名な寺社に、法華経などのお経を一部ずつ納めながら巡礼することです。
昌翁寺を出て、京王線のつつじヶ丘駅前辺りまで歩いてくると、街道沿いに上の写真の調布市天然記念物「金子のイチョウ」が
ありましたが、私有地なので入って見ることが出来ませんでした・・・
金子の銀杏の先の右手に細長い参道が見え、その参道のかなり先に、朱色の「金龍寺」の山門が見えました。
金龍寺は、1206年創建の古刹で、三代将軍家光が鷹狩の際に休息した寺です。
境内には、上の写真の様に、高札場が復元されていました。
また、上の写真の源頼朝の祈願による閻魔十大王をはじめ、下の写真の「青面金剛像」(しょうめんこんごうぞう)などが
あちこちに置かれています。
青面金剛は、腕が6本で、各々の手には剣などを持ち、足元には三猿が刻まれています。
金龍寺を出て更に進むと、街道沿いに写真の「地蔵菩薩立像(妙円地蔵)」が建っていました。
「妙円」は、俗名を「熊」といい、武蔵国多摩郡境村の六右衛門の長女として生まれました。
熊は、若くして、ここ金子村(調布市西つつじヶ丘)に嫁ぎましたが、恵まれない境遇のうえに失明してしまい、
出家して「妙円」と名のりました。
以後、村びとのために路傍で念仏を唱え、集まった浄財で、この地蔵菩薩像を作りました。
それからは甲州街道のこの地蔵の傍らで、念仏三昧の日々を送り、村びとに頼まれては加持祈祷(かじきとう)をしました。
1816年、妙円は村人に「来年の10月28日に念仏往生をとげる」と告げ、棺桶を自ら買い整え、村中を廻って、
世話になった人々にお礼を言い、村人が見守る中、予告した日に念仏を唱えながら往生を遂げました。
妙円の墓は、調布市の深大寺にあるそうです。
失明後に妙円がたどった運命は、「南総里見八犬伝」の作者として有名な滝沢馬琴の「玄同放言」に詳しく紹介され、
これにより、妙円は江戸で有名人になりました。
このお地蔵様の写真をよく見ると、頭部が新しいのが微かに分ります。
これは、長い間頭部を欠損していたこのお地蔵様が、昭和62年に地元の有志により修復されたためです。
やがて、「野川」に架かる「馬橋」を渡ると、次の「布田五ケ宿」に入ります。