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バスで行く「奥の細道」(その45)「姉川の古戦場」(滋賀県) 2019.10.10




(写真は、姉川の古戦場)


芭蕉と路通は、木之本宿を出ると、伊吹山を左側に仰ぎながら、北国脇往還を南下して
行きます。  


途中、姉川の古戦場に立ち寄り、小谷城のあった「小谷(おだに)山」を経て 関ケ原に
着きました。


関ケ原から、中山道を通り、垂井宿を経て、遂に、ゴールの大垣に入りました。



さあ、我々の「奥の細道」バス旅行も、ゴールの大垣まであと一息です!




バスは、芭蕉が宿泊したという「木之本宿」を出て、「姉川の古戦場」へ向かいました。



「姉川の戦い」では、織田信長・徳川家康の連合軍(2万8千)と、浅井長政・朝倉影健の連合軍
(1万8千)が激闘を繰り広げました。


先ず、信長が、朝倉氏追討の軍を起しますが、これに対して、朝倉氏の呼び掛けに呼応して、
浅井氏が援軍に向かいます。


この援軍に対抗するために、信長は、徳川家康に援軍を求めます。

姉川の戦いでは、初めのうちは、浅井・朝倉連合軍が優勢でしたが、途中から、徳川軍が
大いに奮戦して、結局は、織田・徳川連合軍の勝利に終りました。


この姉川の戦いの勝利によって、信長の畿内に於ける覇権がほぼ確定しました。

浅井、朝倉の両氏はこの敗戦により、次第に勢力を失い,最終的には、信長によって攻め滅ぼされてしまうことになります。



バスを降りると、駐車場の脇に、上の写真の「姉川戦没者」と刻まれた慰霊碑が建って
いました。





説明板によると、上の写真の姉川の野村橋の付近一帯が、激戦だった「姉川の古戦場」で、
この姉川一帯が血に染まったそうです。



説明板には、上の合戦絵図や、下の両軍の配置図などが書かれていました。




「姉川の戦い」は、信長の勝利に終わりましたが、この戦いだけで、直ぐに雌雄を決する
までには至らず、我々が次に訪れた「浅井長政の居城」がある「小谷城」の陥落は
その3年後でした。
 



上の姉川戦没者の供養塔の前に建つ石碑は、彦根藩士で芭蕉の門人だった
「木導」(もくどう)の句碑です。


 ”春風や 麦の中行く 水の音”

芭蕉は、この木導の句を「後代手本たるべし」と絶賛しました。

芭蕉は、この木導の句に、

”かげろういさむ 花の糸口”

という脇句(わきく)(注)を付けたそうです。

(注)脇句:連歌で、五・七・五の発句 (ほっく) の次に、七・七と付ける第2句のこと。

(春風にそよぐ麦畑に、水の流れる音が聞こえる長閑な農村風景に、かげろう(陽炎)が立ち、
桜が咲くのももう直ぐだ。


 ちなみに、この姉川の河原は、麦の名産地だったそうです。)

 

我々の「奥の細道」バス旅行は、姉川の古戦場を出て、ゴールの大垣へ向かいますが、
途中、下の写真の「小谷城戦国歴史資料館」(300円)に立ち寄りました。






小谷城戦国歴史資料館は、「小谷城跡」の敷地内にあり、「戦国大名・浅井氏と小谷城」を
テーマにした資料館です。


(写真撮影禁止)



この資料館の裏山が、「小谷城跡」で、浅井氏・三代が居城としていた、戦国時代屈指の
城郭です。




資料館では、「浅井長政」と「お市の方」、「茶々・初・江の三姉妹」が暮らし、兄の
「織田信長」によって攻め滅ぼされた悲話の資料を展示しています。





(小谷城戦国歴史資料館の入場券)



また、小谷城の模型や絵図、小谷城から出土した遺物などの資料も展示しています。