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バスで行く「奥の細道」(その38) 「弁慶の勧進帳」(安宅の関:石川県) 2019.6.11




( 写真は、「勧進帳」を読み上げる「弁慶像」)

前々回の「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」、前回の「実盛の兜」に続いて、今回は
「安宅の関」(あたかのせき)です。


「源義経」は、平家討伐に大功績をあげたにも関わらず、兄の「源頼朝」に追われる身と
なります。


頼朝の追手から逃げるために、「武蔵坊弁慶」らと共に、山伏の一行に姿を変えて、奥州へ
落ちのびて行きます。


その逃避行の道中の最大の難所が「安宅の関所」でした。

実は、「安宅の関所」は「箱根の関所」の様な”恒常的な関所”ではなくて、義経を捕らえるため
だけに”臨時に設けられた関所”だったそうです。

えぇ〜?、臨時の関所だったの!

知らなかったなあ〜!

現代風に言えば、指名手配犯の義経を逮捕するために緊急手配をして、逃走したと思われる
北陸方面に非常線を張り、臨時の検問所を各地に設けて、厳重な職務質問をした、ということ
なのでしょうね。

義経一行は、いきなり現れた想定外の関所に驚き、うろたえます!

安宅の関は、富樫泰家(とがし やすいえ)が関守を務めていました。

義経一行は、富樫に見とがめられ、詮議の問答が始まりました。

弁慶は、我々は、東大寺再建の寄付を募る山伏の一行だと説明します。

不審に思った富樫は、「東大寺の勧進の山伏の一行なら、勧進帳を持っているいるはず」と
迫ります。


すると、弁慶は、白紙の巻物を、あたかも本物の「勧進帳」(注)であるかの様に、朗々と
読み上げます!

 (注)勧進帳:寺院の建立などに要する資金の寄付募集の趣意を巻物などに記載したもので、
    民衆から寄付を集める際に、僧や山伏が読み聞かせます。

富樫は、弁慶のその朗々と読み上げる態度に、いったんは通行を許しますが、強力(ごうりき)に
変装した義経を、顔が義経に似ている、と見とがめます。

弁慶は、とっさの機転で、「お前のために疑われた。義経に似ているお前が憎い!」と、
金剛杖で義経を打ち据えます。


富樫は、義経の顔を見て本人だと確信しつつも、弁慶の忠義に心を打たれ、一行を通過させ
ます。

 

我々のバス旅行は、先ず、安宅海岸の「安宅の関」の前にある「安宅住吉神社」へ向かいます。





この神社は、巫女さんの説明によると、全国唯一の「難関校突破」の神社として有名なのだ
そうです。

義経一行が最難関の安宅の関を無事に突破したからだそうです。



(安宅住吉神社の難関校突破の受験のお守り)

明治初期に神社に奉納された絵には、安宅海岸を訪れた弁慶が、遊んでいる子供達に
「安宅の関」以外の抜け道を教えてもらおうとしている様子が描かれています。

(撮影禁止)


巫女さんの説明によると、弁慶が持っていた扇を子供達にあげようとしたところ、子供達9人に
対して、扇が8本しかなかったために、子供達に逃げられてしまったた、とあります。

仕方なく、義経一行は、「安宅の関」の強行突破を決意します。


社殿の前には、勧進帳を読み上げる「弁慶像」が建っています。

安宅の関を通過してから、義経一行は、お蔭で難関の関所を突破出来たと、「安宅住吉神社」に
感謝の祈りを捧げたそうです。


(安宅住吉神社のパンフレットから)

安宅住吉神社の前が「安宅海岸」で、目の前には日本海が広がっています。



日本海側に広がる静かな松林の中に、「安宅の関跡公園」があります。



公園内には、写真の「富樫、弁慶、義経の像」が立っています。



(富樫)



(弁慶)



(義経)

 

 

我々のバス旅行は、「安宅の関」を出て、北陸鉄道の野々市工大前駅の駅前にある
「富樫館跡」へ向かいます。


(金沢駅からだとバスで約20分)



富樫氏は、18代にわたって加賀国(石川県)の守護職を務めた名門です。



上の写真の「富樫館跡」の石碑の辺りが、かっては、加賀国(石川県)の中心地だったそうです。