( 写真は、”むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす”の本物の「実盛の兜」)
既にご紹介した「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」に続いて、今回は、同じ「平家物語」で
描かれた「実盛の兜」です。
火牛の計で有名な「倶利伽羅峠の戦い」で平家の大軍を破った「木曽義仲」は、そのまま
敗走する平家軍を追撃して加賀国(石川県)に入ります。
そして、「篠原の戦い」(現在の石川県加賀市)で、再び平家軍と戦い、一気にこれを
打ち破ります。
その時、敗れた平家軍の本隊を逃がすべく、ただ一騎だけ、義仲の軍勢の前に立ちはだかった
平家の武将がいました。
義仲軍の「手塚光盛」が先ず名乗りを上げ、”名乗らせたまへ”と促しますが、その平家の
武将は自らを名乗ろうとしませんでした。
二人は、一騎打ちとなり、その平家の武将は、「手塚光盛」に首を討たれてしまいます。
何と!、この首を討った「手塚光盛」は、マンガ「鉄腕アトム」の作者「手塚治虫」の先祖
なのです!
驚き!!
「手塚治虫」の代表作「火の鳥」では、時を超え、「手塚治虫」自身が「手塚光盛」に
生まれ変わり登場しています。
知らなかったなあ〜!!
生前、手塚治虫は自分の祖先について語ることはほとんどありませんでしたが、心の中では、
強く意識していたんですね〜!
さて、話を戻して、「手塚光盛」は、「義仲」に、この不思議な武者を討ち取ったことを報告します。
「義仲」は、その首を見て、幼いころに自分の命を救ってくれた恩人の「斎藤実盛」では
なかろうか、と直感します。
しかし、もしこれがホントに実盛の首ならば、既に歳をとって白髪になっているはずだが、と
半信半疑です。
そこで、「実盛」とは親友だった「樋口兼光」を呼んで首実検を行わせます。
「樋口兼光」は、黒く染められた白髪頭を一目見て実盛と分かり、「あな、むざんやな! 」と
叫びます!
義仲が、その首を付近の池で洗わせたところ、みるみる白髪に変わりました。
戦場で老武者とあなどられるのを嫌った実盛は、髪を黒く染めて若々しく戦おうとしたのです。
かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙に
むせびました・・・
義仲は、近くの「多太神社」に、「実盛の兜」をそのまま奉納しました。
(漫画「火の鳥」の「乱世偏」から)
それから500年が経ち、芭蕉は、この「多太神社」を訪れ、「実盛の兜」を拝観します。
樋口兼光の「あな むざんやな」の故事を思い起こした芭蕉は、弔いの一句を詠みます。
”あなむざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす”
(この兜を見ていると、命を救った義仲を敵とすることになった実盛と、恩人を討たねば
ならなくなった義仲、二人の悲運をいたましく思わずにはいられない。兜の下でコオロギも
むせび泣いていることよ。)
この様に、芭蕉は、樋口兼光の「あな むざんやな」の故事を引用して句を詠んだのですが、
後に、字余りの”あな”の二文字を削除しています。
従って、この多太神社の境内にある芭蕉句碑は、後に訂正された「むざんやな・・・」ではなくて、
訂正前の「あなむざん・・・」で彫られています。
また、この芭蕉の句が、横溝正史の「獄門島」の3つの重要な俳句の一つとして用いられて
いるのはご存知の通りです。
我々のバス旅行も、「実盛の兜」が奉納されている「多太(ただ)神社」へ向かいます。
(実盛の像)
案内の方に、多太神社の宝物館の鍵を開けていただき、「実盛の兜」についての丁寧な説明を
聞きます。
説明のあとで、宝物館の奥の壁の遮光カーテンを開けて頂き、いよいよ本物の「実盛の兜」を
拝観します。
(本物のみ撮影禁止)
ドキドキします!
冒頭の兜の写真は、多太神社のパンフレットの「実盛の兜」です。
一度修復作業が施されているので、それ程古びていない感じです。
上の写真は、芭蕉が見た修復前の古びた兜を写生した古文書です。
従って、厳密に言えば、我々が見ている修復後の兜は、芭蕉が見た兜とは少し異なる、
ということになります。
上の写真は、展示されているレプリカの「実盛の兜」で、下の写真は、ここで購入した兜の
絵ハガキですがブログ掲載OKだそうです。
中央には八幡大菩薩の文字が浮き彫りにされています。
その後、展示物のひとつひとつを丁寧に解説して頂きました。
我々のバス旅行は、多太神社を出て、「篠原古戦場跡」にある「実盛塚」へ向かいます。
「実盛塚」は、実盛を供養するために亡骸を葬ったところです。
「篠原古戦場跡」の「実盛塚」の近くに「首洗池」があります。
「首洗池」は、「篠原の合戦」で討ち取られた「実盛」の首を洗った池です。
池の辺りに、写真の像がありました。
実盛の首を抱いて涙する「木曽義仲」、実盛を討ち取った手塚治虫の先祖の「手塚光盛」、
そして「あな、むざんやな! 」と絶句する「樋口兼光」の3人の像です。
実盛は、当初、源義朝に仕えていましたが、平治の乱で義朝が失脚した後は、自らの所領の
関係で、平宗盛に仕えています。
当初、義仲の父の源義賢が源義朝に殺された時、実盛は、主君の義朝から、2歳の義仲を
殺すようにと命じられますが、命令に背いてこっそりと木曽の中原兼遠に預けました。
つまり、幼少の義仲が殺されずにすんだのは、実盛の温情によるものでした。
実盛と名乗りさえすれば命は助かったのでしょうが、かつて助けた義仲の情にすがることなく、
名乗らずに武士としての誇りを全うしました。