( 写真は、親不知の断崖絶壁 )
「親不知・子不知」(おやしらず・こしらず)は、古くから、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を
阻む”越後路の最大の難所”として知られてきました。
かつて、旅人は、この断崖の下にある海岸線に沿って進まねばならず、波間を見計らって
狭い砂浜を駆け抜け、大波が来ると洞窟などに逃げ込みましたが、途中で波に飲まれる者も
少なくなかったそうです。
危険な波打ち際を駆け抜ける際には、”自分を守るのが精いっぱいで、親は子を忘れ、
子は親を顧みる暇がなかった”ことから、”親知らず・子知らず”と呼ばれるようになりました。
そして、江戸時代の参勤交代では、加賀藩主は、親不知・子不知を往来することが必要に
なりました。
その際は、500人くらいの”波除人夫”が近隣から集められ、この人夫達が人垣をつくって
波濤を防ぎ、加賀藩主を通したそうです!
波除人夫が可哀想〜!
我々のバス旅行は、曲くねった国道8号線の岩石避けシエルターの中を「親不知」に
向かって走って行きます。
この国道と並行して、高速道路が、写真の様に海の上を走っています。
親不知の断崖絶壁の端に建つ「親不知観光ホテル」の下の市営駐車場で下車します。
この駐車場の脇にある展望台に、写真の「親不知の地形の模型」と説明版がありました。
写真の上部の白い横線が遊歩道(旧国道)で、写真の下の青い部分が海を表していますが、
この海沿いの砂浜が、かっての北陸街道でした。
「地形の模型」には、写真の様に、砂浜の@からJのスポットについて解説してあります。
上の写真を例にとると、D大懐 E小懐 F大穴 G子穴 H長走り、と天然の避難所に
名前が付いています。
旅人は、荒波が来たら、ここに逃げ込んでいました。
説明版によると、この穴に逃げ込んだものの、荒波が続き、1週間も出られなかった旅人も
いたそうですから、驚きです!
この親不知を通行する旅人は、まさに命がけだった訳で、その旅の様子が浮かんできます。
芭蕉も、きっとこの危険な浜辺を歩いたのでしょうね。
この地形の模型がある展望台から先は、コミュニティロードと名付けられた”親不知見学”
のための遊歩道( 旧国道8号線)になっています。
風雨の中、この遊歩道を歩いて行きます。
下を覗くと、恐ろしい断崖絶壁です!
上の写真は、「如砥如矢=とのごとく やのごとし」と刻まれた遊歩道沿いの岩です。
明治16年、この旧国道8号線の開通を記念して、”砥石のように滑らかで、矢のように
速く通れる”という意味で刻まれたのだそうです。
観光ホテルの前から親不知海岸へ下りて行く遊歩道があったので、砂浜まで下りて、
昔の旅人が歩いていた海岸線を歩いてみたかったのですが、風雨が強くなってきたので
断念しました・・・
ここからコミュニティロードを引き返し、バスに戻って、北陸街道の次の宿場町の「市振
(いちぶり)」を目指します。
芭蕉は、約15キロも続く親不知子不知の海岸線を抜け、やっとの思いで市振宿に到着
しました。
越後路については1行も書かなかった芭蕉ですが、ここ市振から「奥の細道」の本文の
記述が再び始まります。
芭蕉は、ここ市振の旅籠「桔梗屋」で、伊勢へ参詣に向かう2人の遊女と隣り合わせの部屋
になります。
翌朝、芭蕉と曽良が宿を出ようとすると、遊女らは、「女2人の心細い道中ですから、
見え隠れでもいいから、お二人について行きたい。」と、涙を落とします。
どうも芭蕉を僧侶だと勘違いしている様ですが、芭蕉は2人の頼みを冷たく断ります。
断りはしたものの、「あわれさ、しばらく やまざりけらし」と、薄幸な遊女の身の上に同情し、
彼女らの行く末を案じました。
”一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩と月”
(同じ一軒の宿屋に遊女と泊り合わせたが、折からの秋の庭には萩の花が咲いており、
それを月が照らしている。)
我々のバス旅行は、「市振(いちぶり)」の宿場町の入口でバスを下車します。
宿場町の入り口には、写真の「海道の松」跡があります。
「市振小学校」の校庭の一角に写真の「市振関所跡」の石碑がありました。
説明板によると、江戸時代、この関所は、海陸の通行を監視しており、入り鉄砲と出女に
厳しかったそうです。
上の写真は、芭蕉が泊まった「桔梗屋」跡です。
上の写真は、「弘法の井戸」です。
この宿場町の茶屋に、弘法大師が来て、「水がほししい」と言ったところ、茶屋の婆さんは、
1キロも遠く離れた赤崎の冷たい清水を汲んできてくれました。
弘法大師は、これを憐れんで、足元の土を杖で三度突き、この井戸を作ったそうです。
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