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バスで行く「奥の細道」(その28)( 新潟 ) 2019.4.9




(写真は、弥彦山展望台からの日本海の眺め)

北陸路の山々の雪もようやく解けたので、我々の「バスで行く・奥の細道」ツアー
も、前回のゴールの新潟駅から再開しました。



「奥の細道」の記載には、「越後(新潟県)」については、「越後の地に歩行を
改て・・・此の間九日・・・事をしるさず。」とあるのみです。


つまり、芭蕉は、越後路で2句を詠んでいるものの、越後路を9日も歩いた
にも拘わらず、「奥の細道」には、越後路については1行も書かれていない
のです?!


芭蕉が越後路について1行も書かなかった理由については、体調不良や
悪天候など諸説があります。

しかし、我がツアーの同行の先生の解釈は、”越後の国には、芭蕉の門人が
一人もいなかったから”が理由だそうです。

つまり、奥の細道では、行く先々で門人たちが待ち構えて接待漬けの日々で、
また、旅費捻出のための句会も門人たちがセッティングしてくれました。

それなのに、越後国(新潟県)には門人は一人もおらず、ここでは芭蕉は
無名でした・・・

そのため、芭蕉は何もいい思いをせず、早く金沢へ行きたくて、越後路に
ついては1行も書かなかった、というものです。


と言う訳で、「越後路」については、私のブログは、「曽良随行日記」に従って、
芭蕉の足跡を追ってゆきます。




東京駅8:24発の新幹線・MAXときに乗って、10:28に、前回のゴールの新潟駅に着きました。





先ず、新潟の市街地にある「宗現寺」へ向かいます。







宗現寺の山門を潜ると、正面の本堂の右脇に、「芭蕉翁 蓑塚(みのつか)」と
刻まれた写真の石碑があります。



芭蕉が、ここで、古い蓑(みの)を脱ぎ捨てて、新しい蓑に変えたので、のちに
地元の俳人たちが、芭蕉の着替えた蓑を供養して建てたものです。

石碑の裏には、「文政十年(1827年)十月十二日」とあります。




宗現寺を出て、新潟の市街地の中心にある「萬代橋」を渡ります。

萬代橋は、昭和4年の建造で、下の写真の様に、六連のアーチがある重厚で
美しい橋で国重文です。


(夕方に新潟のホテルに帰るときに、車窓から萬代橋を横から撮ったもの。)

新潟の市街地を抜け、弥彦(やひこ)山・スカイラインに入って、「弥彦山」の
頂上にある展望台を目指します。

弥彦山は、スカイツリーと同じ高さの標高634メートルということで、話題に
なったことがあります。

弥彦山の展望レストランの前にある高さ100メートルの下の写真の「弥彦山
パノラマタワー」に乗ります。(650円)



弥彦山パノラマタワーは、360度回転しながら100メートルを上昇するという
珍しい方式の展望塔です。

360度回転しながら、弥彦山を見下ろして、日本海と越後平野を見渡す、
360度の大パノラマは圧巻です!





パノラマタワーの隣には、弥彦山の山頂へ向かう上の写真のロープウェイが
見えます。







パノラマタワーの窓からは、写真の様に、眼下に日本海が見渡せ、その先に
佐渡島が近くに見え、反対側には、新潟平野が広がります!








弥彦山の展望台から、弥彦山の麓にある「弥彦(やひこ)神社」へ向かいます。





「弥彦神社」は、弥彦山を神体山として祀る神社で、”越後の国の一の宮”として
平安時代の昔から人々の信仰を集めて来ました。

神社の本殿の背景には弥彦山が見えます。





曽良随行日記には、芭蕉一行は、弥彦に宿泊し、翌朝、弥彦神社に参詣した、
とあります。


我々のバスツアーは、弥彦の隣の寺泊へ向かいます。
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