(写真は、「千年鮭 きっかわ」の天井から吊るされた
「塩引き鮭」)
前回の「念珠ケ関」に続き、今回は「村上」の町中散策です。
我々の「奥の細道」バス旅行は、山形県の念珠ケ関を出た後、
更に、日本海の海岸沿いに、バスで1時間半の新潟県の
村上市を目指します。
新潟県の最北部に位置する人口6万の「村上市」は、日本海に
面し、江戸時代には村上藩の城下町として栄え、雰囲気のある
武家屋敷などが残っています。
早速、バスを下りて、村上市内を散策します。
写真の「黒塀小路」(くろべいこうじ)は、村上の町人町の
象徴でもあった黒塀です。
上の写真は、村上市内のメインストリートにある「千年鮭
きっかわ」です。
村上は、千年を越える鮭の街で、古くから独自の鮭食文化が
発展しました。
村上の市街地の端を流れる三面川(みおもてがわ)は、今でも、
鮭が遡上しています。
鮭は、江戸時代には、藩の重要な財源にもなっていたそうです。
「千年鮭 きっかわ」のお店の人の説明によると、粗塩を引き、
1週間、塩蔵した塩引き鮭を、1年間の時間をかけて、
天井から吊るしながら発酵させ、味を成熟させて造り上げます。
写真は、その「きっかわ」の中の天井から吊るされた
「塩引き鮭」です。
塩引き鮭が、写真の奥の部屋まで、約1,000本も下がっている
光景には、ホントに驚きました!
塩引き鮭のお土産・「鮭の酒びたし」(1,188円)を
買いました。
塩引き鮭は、思ったより塩っぽくありませんでした。
帰宅してから、「鮭の酒びたし」を肴に日本酒を飲みましたが、
酒の肴にピッタリです!
村上に行ったら必ず寄りたいスポットです。
先日、BS日テレ「三宅裕司のふるさと探訪・村上市の旅」で、
三宅が「千年鮭 きっかわ」を訪れるシーンがありました。
その番組の中で、「きっかわ」のご主人が、塩引き鮭を
食べられる近所の料理店「井筒屋」について、
「芭蕉は、旅籠「井筒屋」で2泊もしたのに、奥の細道には、
村上の記述が1行も無く、おまけに芭蕉は夏バテで、
一句も詠まなかった。」と怒っていました。
我々は、「千年鮭 きっかわ」の近くの「井筒屋」へ向かいます。
写真は、旅籠・久佐衛門跡に建つ「井筒屋」で、芭蕉と曾良が
2泊しました。
現在、井筒屋は、各種の鮭料理が食べられる料理店兼宿屋に
なっています。
鮭の心臓、頬なども食べられる下の写真の鮭料理のフルコースが
人気らしいです。
(井筒屋のチラシから)
当時、村上は、榊原氏の城下町で、曾良が、村上藩の筆頭家老
である榊原帯刀(さかきばら たてわき)の父に仕えていた
という特別の縁があり、帯刀の家老屋敷(現在の市役所)に
挨拶に行っています。
曾良は、旅の当初から、村上藩の筆頭家老の榊原氏の墓参を
目的の一つにしていたと推測されます。
それは、村上到着の翌日が、2年前に亡くなった曾良の主君の
三男の榊原良兼の月命日で、どうも、月命日に会わせて村上を
訪れたらしいからです。
この様に、村上に2泊したのは、曾良のためで、芭蕉は村上では
出る幕がなかった様です。
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前回の「村上の町中散策」に続き、今回は「村上の寺社巡り」です。
村上の町中にある「浄念寺」へ向かいます。
「浄念寺」は、1667年に藩主となった「榊原氏」の菩提寺でした。
1689年、「曽良」が長島藩(三重県)時代の主君だった、村上藩の筆頭家老・
榊原氏の墓参のために「浄念寺」を参拝しています。
榊原氏の後には、1716年に「間部詮房」(まなべ あきふさ)が藩主となりますが、
4年後の1720年に病死しました。
「間部詮房」は、6代将軍家宣のときに側用人(そばようにん)となり、7代将軍家継
のときは家継を補佐して政治の実権を握り権勢を欲しいままにしましたが、
8代将軍吉宗になり失脚、ここ村上へ左遷されました。
間部家では、浄念寺を菩提寺として詮房を葬りました。
1818年、間部詮房の百回忌に合わせて、土蔵造りとしては日本で一番大きい
上の写真の「本堂」が再建されました。(国の重要文化財)
村上の町中にある「浄念寺」を出て、郊外の「石船(いわふね)神社」へ向かいます。
石船神社は、岩船港を望む高台にあり、1,300年以上の歴史がある村上地域の
総鎮守です。
代々、村上藩主の保護が厚く、港町岩船の産土神として、土地の人々の信仰を
集めてきました。
境内には、2基の芭蕉句碑があります。
”文月や 六日も常の 夜には似ず”
(七夕というものは、その前日の六日の夜でさえ、なんとなくワクワクして
特別な夜に感じるよ。)
”花咲きて 七日鶴見る 麓(ふもと)かな”
(桜の花が咲いて散るまでは七日だという。
また鶴も降りた場所に七日間留まるという。
この江戸の鈴木清風(芭蕉の門人)の屋敷に来てみると花と鶴とが
見られてなんと素晴らしいことか。)
村上市の「石船神社」を出て、隣の胎内市(たいないし)の「乙宝寺」(おっぽうじ)
へ向かいます。
聖武天皇は、仏教による鎮護国家の理念で、全国に国分寺・国分尼寺を建立
しましたが、同じく、北陸一帯の安穏を願って建立されたのが「乙宝寺」
(おっぽうじ)です。
1620年、村上城主により建立された上の写真の「三重塔」は、美しい純和様の
建築で、国の重要文化財です。
また、乙宝寺の宝物殿には、何と!、お釈迦様の左目が納められているそうです。
後白河天皇から、この左目を納める金塔を賜ったので、これまでの「乙寺」という
名称から「乙宝寺」に改称したそうです。
ちなみに、お釈迦様の右の目は、何と!、唐土(中国)の寺に納められている
とのこと。
乙宝寺は、別名を「猿供養寺」といいますが、平安時代後期の「今昔物語集」
には、”乙宝寺の猿の伝説”が出て来ます。
それによると、その昔、乙宝寺の裏山に住み着き、お経を聴きに寺の本堂に
やって来る夫婦の猿がいました。
あるとき、2匹の猿は、木の皮を持ってきて、身ぶり手ぶりで写経をせがんだので、
住職はそれに応じます。
その後、猿の夫婦は、冬になると姿を見せなくなりました。
心配した住職が、裏山に探しに行くと、2匹の猿は、雪の中で抱き合う様に
死んでいました。
そして、その手には、木の皮の写経が握りしめられていました・・・
住職は、「猿塚」(猿の墓)を築き、その写経を寺宝としました。
上の写真が、乙宝寺の「猿塚」です。
この伝説には続きがあります。
2匹の猿が死んでから数十年後のある日、写経をしたいという夫婦が乙宝寺を
訪ねて来ました。
ところが、写経は途中で進まなくなり、夫婦は住職に、「私達は、お経を聴きに来た
猿の生まれ変わりです」と打ち明けました。
猿の夫婦が写経の途中で死んでしまったために、木の皮に写経されなかった
残りのお経を住職が唱えると、人間となった猿は、全ての写経を無事に終えた
そうです。
乙宝寺には、このときの木皮に書かれた写経が残されているそうです。
乙宝寺には、参道の両脇をはじめ、境内のあちこちに桜の木があります。
”うらやまし 浮世の北の 山桜”(芭蕉)
(あなたの住んでいる金沢は静かな場所でうらやましい。私は今江戸にあって
よろず浮世の問題に悩まされています。
金沢の門人の句空に贈った句で、「浮世の北」は北国金沢の意。)
我々の奥の細道・バス旅行は、「村上」を出て、「新発田城」に立ち寄ってから、
新潟駅から新幹線で東京に戻りました。
(新発田城については、(2018/7 新発田城)を見てね。)
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