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66:武佐





(写真は、斬首された法然上人の弟子の住蓮坊の首を洗った池。)

「泡子延命地蔵」から水田地帯を2キロほど歩いて「武佐宿」に入りました。

「武佐」とこの近くの「近江八幡」は、地域的には一体で、武佐は旅人で、近江八幡は商人で賑わっていたそうです。



武佐宿に入ると、先ず宿の氏神様である「武佐神社」があり、その脇に「高札場」跡の案内板がありました。



武佐神社の先にある下の写真の冠木門は、武佐宿の「脇本陣跡」で、現在は、武佐町会館になっています。




武佐町会館の先には、元旅籠屋だった「中村旅館」と「旧八幡警察署・武佐分署」があります。




中村旅館の向い側が、上の写真の「本陣跡」で、その先の十字路の角に、下の写真の「いせ みな口 ひの 八日市 道」と刻まれた道標が残っています。



この十字路は、「八風(はっぷう)街道」と中山道との追分で、八風街道は、八日市から東海道の水口(みなくち)を経て、鈴鹿の八風峠を越え、伊勢へ向っていました。



その道標の先に、上の写真の「愛宕山の常夜灯」と、武佐小学校の卒業生が作った下の写真の「松平周防守陣屋跡」の様案内板がありました。



以下は、武佐宿の町並みです。











少し歩いて行くと、中山道が右に急カーブするところの左側に、近江鉄道・武佐駅があり、その前にも、武佐小学校の卒業生が作った「高札場跡」の様案内板がありました。



ここが武佐宿の外れです。



武佐駅の脇の踏み切りを渡り、少し歩くと西宿村の集落に入ります。



集落に入ると、直ぐ右手奥に「若宮神社」がありました。





その若宮神社の横に、中山道に面した広々とした公園がありました。


この広々とした公園が、「伊庭貞剛(いば さだたけ)邸」の広大な敷地跡でした。



「伊庭貞剛」は、ここ近江八幡市西宿村の生まれで、「住友財閥」に入社し、「別子銅山」を立て直して「住友中興の祖」と仰がれました。



ここ武佐宿や一つ前の高宮宿の周辺は、近江商人が最も多く、現在の日本を支える大手商社の「伊藤忠商事」と「丸紅」の創始者、「住友商事」の中興の祖を排出している訳ですから、ホントに凄い土地柄です!!



西宿村の大きな家々を見ながら歩いていくと、中山道は国道8号に合流、ダンプの風圧に耐えながら歩いて行きます。







やがて六枚橋の信号で左折して、国道8号から離れ、静かな住宅地に入ります。



少し歩くと、「六枚橋」バス停の先の右手に小さな公園がありました。



その小さな公園の脇に、下の写真の「住蓮坊」(じゅうれんぼう)首洗い池」がありました。



「住蓮坊」は、浄土宗の開祖「法然上人」の弟子でした。

当時、「法然上人」の念仏人気が爆発的に高まり、宮廷の女官の中にも信者になる者があらわれました。

そして、後鳥羽上皇が寵愛した二人の女官も、住蓮坊に帰依して尼になってしまいました。

それに怒った後鳥羽上皇は、「法然上人」を隠岐に流罪にし、弟子の「住蓮坊」をここで斬首しました。


そして、住蓮坊の首を洗ったのがこの池です。

怖っ〜・・・



首洗い池を出て、更に中山道を進むと、再び国道8号に合流しました。



国道8号暫く歩いて行くと、Y字路の右角に、八幡神社と高札場跡がありました。





中山道は、このY字路の右手の雰囲気のある集落の中へと入って行きます。







その集落が途切れると、水田地帯になり、横関川(日野川)の堤防へ向かいます。





堤防のうえには、上の写真の広重「木曽海道69次之内 武佐」の案内板が立っていました。

ここが「横関川 渡し場」跡だということですが、竹藪が生い茂っていて川が見えません・・・



広重は、ここの舟乗り場からの対岸の眺めを描いたそうです。

横関川は、通常は舟渡しでしたが、水量が少ないときは、この浮世絵の様に、2艘の舟の上に板を渡していました。

舟の橋の中ほど右手は、葛籠(つづら)とゴザを背負った腰の曲がった老人で、その後は風呂敷包みを背負った旅人です。



対岸からこちらに渡ってくるのは巡礼の夫婦で、夫婦の向こうには天秤棒を担いだ子供が描かれています。




この広重の案内板から、迂回して対岸の中山道に向かうために、左側の土手を歩いて行きます。



そして、横関川に掛かる横関橋を渡ります。





橋を渡り終えると、直ぐ右に折れて、対岸の土手を歩いて行きます。





土手の道には、中山道の表示がない分岐点が何か所かあり、その都度、迷いながら疑心暗鬼で進みます。

かなり歩いたところで、西横関の信号に出て、国道8号に合流しました。

ホッ・・・、やれやれ・・・



西横関の交差点の角には、「是よりいせ道 みなくち道」の道標がありました。


西横関の信号から、ダンプの風圧に耐えながら、国道8号を、守山宿方面へ向かいます。





ダンプの風圧に耐えながら、国道8号を守山宿方面へ進み、善光寺川を渡ります。



やがて、間の宿(あいのしゅく)の「鏡」に入り、国道8号は上り坂になります。





国道8号沿いには、江戸時代の屋号や、「本陣跡」、「義経宿泊の館跡」などの説明板が続きます。





「義経宿泊の館跡」の説明板によると、義経は、お供の金売り吉次と、ここに宿泊しました。


その夜、野盗が押し入りますが、義経はこれを退治したそうです。



国道8号は上り坂が続きますが、やがて左手に「鏡の里 道の駅」がありました。



お昼過ぎでお腹が空いたので、ここで、写真の「義経御膳」(1,800円)を食べます。

この料理が何故、”義経”御膳なのかよく分かりませんでしたが、食事を終わって外へ出ると、国道8号沿いの道の駅の斜め向かいに、下の写真の「義経元服の池」がありました。





説明板によると、源義経は、東下りの途中、ここ鏡の宿で元服の儀を行いましたが、その時に使ったのがこの池の水だったそうです。

義経元服の池から、国道8号を少し戻ると、「鏡神社」がありました。



参道の石段を上った所に、鏡神社の神殿がありました。(国重要文化財)





参道の途中に、上の写真の様に、松の切り株に屋根を付けたものがありましたが、これが「源義経 烏帽子掛けの松」でした。

元服の池で元服した牛若丸(義経)は、この松に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し、 源九郎義経と名乗りを上げて、源氏の再興を祈願したそうです。



鏡神社の先で、中山道は直ぐに左側の細い道に入ります。



道なりに進むと、”おのりやす”と書かれたコミュニティバスの停留所がありました。

中山道の面影が残る静かな道は、直ぐに国道8号に合流します。



その合流地点に「蛙(かわず)鳴かずの池」があります。



平家一門は壇ノ浦の合戦で破れ、総大将の平宗盛は源義経に捕えられます。

その後、平宗盛父子は、ここ篠原の池で斬首され、首だけが京都に運ばれました。

平宗盛父子が、余りにも哀れで、この池の蛙が鳴かなくなったので、「蛙鳴かずの池」と呼ばれる様になったそうです。


可哀想・・・



単調な国道8号を、ダンプの風圧に耐えながら、更に進むと、左側に土手があり、土手の向こう側には「西池」という大きな池がありました。



更にどんどん歩いて行くと、中山道は、国道8号から右手の静かな道に入ります。





直ぐ右手に、石碑とその両脇に常夜灯がある小公園があったので、ここで一休みします。



小公園を出て、新家棟川(しんやのむねがわ)を渡って、道なりに進みます。





やがて、右手に下の写真の「子安地蔵」がありました。





子安地蔵の先の左手には、下の写真の「桜生(さくらばさま)史跡公園」(甲山古墳)の丘があります。



暫くの間、中山道を道なりに歩いて行きます。











間もなく、新幹線のガードをくぐります。





新幹線のガードの先が十字路になっているので、これを左折し暫く直進すると、右手に野州小学校がありました。



小学校の脇に写真の「中山道 外和木の標(そとわぎのしるべ)」の説明板がありました。



これによると、ここ小篠原字外和木は、朝鮮人街道と中山道の分岐点だったそうです。

更に中山道を道なりに歩いて行くと、交差点の左角に、下の写真の「背くらべ地蔵」がありました。



説明板によると、

当時は乳児がよく死んだので、子を持つ親たちが、「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、後は良く育つ」と背くらべをさせたので、「背くらべ地蔵」と呼ばれる様になったそうです。


右の小さな地蔵が「背くらべ地蔵」で、左は阿弥陀如です。



中山道を更に進むと、左手に唯心寺があり、 枡形の様に曲がった右手に蓮照寺がありました。





この先で東海道線のガードをくぐり、やがて野洲川に近づくと、 右手にお堂があり、その道路向かい側に、地蔵尊がたくさん積まれています。





正面は野洲川に掛かる野洲川橋です。



橋の上からは、近江富士と呼ばれる下の写真の「三上山」が見えます。



「野洲川」は、水量が少ない時は徒歩渡りでしたが、水量が多い時は舟渡しだったそうです。



橋を渡り終えると、いよいよ守山宿に入ります。


武佐宿から守山宿までは、長丁場で16キロもありました。




65:愛知川へ
67:守山へ

                   
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