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65:愛知川




(写真は、平将門の首を洗ったので水が濁って飲めなくなったという不飲川に掛かる「不飲橋」) )


宇曽川にかかる「歌詰橋」を渡ると愛知川(えちがわ)宿に入ります。



歌詰橋を渡り終えた場所に「歌詰橋」の由来が書かれた案内板がありました。



それによると、

東国で「平将門」の首を上げた藤原秀郷が、ここまでやって来たときに、目を見開いた将門の首が追いかけて来ました。

そこで、秀郷が将門の首に、”歌を一首!”と言うと、歌に詰まった将門の首は、この橋詰に落ちました。

以来、この橋は「歌詰橋」と呼ばれる様になりました。

う〜ん!、平将門は、歌に詰まるほど教養がなかった、という事なのでしょうかねえ?



橋を渡って暫く歩くと、「沓掛」(くつかけ)集落に入って行きます。



やがて、道が左右に分かれますが、中山道の矢印に従って右の道を進むと中宿に入ります。





そして「中山道 愛知川宿」入り口のゲートをくぐります。



ゲートの少し先に上の写真の「愛知川宿北入口」の石碑がありますので、多分、正式にはここから宿場が始まっていたのでしょう。

「愛知川宿」は、いわゆる”近江商人発祥の地”の一つで、江戸時代には近江商人達の行き来で賑わっていました。







しかし、現在は、僅かに蔵が残る程度で、宿場町の面影はほとんどありません。





更に進むと、「親鸞聖人御旧跡」を示す道標があり、その奥には、旅の途中で親鸞聖人が宿泊したという「宝満寺」があります。


親鸞聖人の道標の先に「本陣跡」と八幡神社があります。


八幡神社の常夜灯の脇に「高札場跡」の石碑があり、この辺りが愛知川宿の中心でした。




高札場跡の先には、上の写真の元旅籠の料亭「竹平楼」があり、その脇には「明治天皇御聖跡」の石碑が立っています。





竹平楼の先には、「不飲川」(のまずがわ)と呼ばれる小さな川が流れています。

「不飲川」の名前は、この川の上流で「平将門」の首を洗ったので、水が濁って飲めなくなった、という話に由来します。

怖っ〜・・・

不飲川を渡ると、直ぐその先に、「中山道 愛知川宿」のゲートがあり、「愛知川宿」は、もう、ここで終わりです。






「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次さん喜多さんは、愛知川宿と次の武佐宿の間にある「間の宿(あいのしゅく)」の「清水が鼻」まで来たところで夜になってしまいます。

仕方なく、むさ苦しい小さな木賃宿に泊まります。

亭主「お二人は、荷物がないうえに汚い身なりなので、お伊勢さんの”抜け参り”の「柄杓(ひしゃく)ふりの乞食」(注)だと思いましたよ。大変、失礼しました。」

(注)柄杓ふりの乞食:江戸時代には、一生に一度に限って、雇人や子供が、主人や
   親に無断で、伊勢神社参詣の旅に出る事を許される習慣がありました。

   これを”抜け参り”と言い、手に柄杓を持って、銭や米を入れて貰いながら、
   乞食の姿で旅を続けました。

馬鹿にされた弥次さんは、仕返しをしてやろうと、拾った石を紙に包んで金に見せかけ、小銭入れの財布の中に入れます。

弥次「おい、亭主、明日の朝までこの小銭入れを預かってくれ。」

亭主「ヤァヤァ、こんな大金を預かったら、心配で今夜は眠られないからダメだよ。」

弥次「いや、金を持って寝るのは不用心だから預かってくれ。」

亭主「それでは、この天井から釣った仏壇の中に入れておくので、明日、取り出して出掛けて下さい。」

その夜、木賃宿の夫婦は寝ながら話をしています。

亭主「夕食で、茗荷(みょうが)料理をたくさん食べさせたので、明日の朝は、多分、仏壇の金を置き忘れて出掛けるよ。」

女房「それでは、質に入れている着物を出してきますね。」

(注)茗荷料理:江戸時代には、茗荷を食べると忘れっぽくなると信じられていました。

翌朝、弥次さん喜多さんは、世話になった礼を言いながら宿を出て行きました。

女房「アレッ、仏壇の金をいつのまにか持って行ってしまいましたよ・・・」

亭主「金は持って行ったが、忘れて行った物があるぞ!」

女房「何を忘れて行ったんですか?」

亭主「宿賃を払うのを忘れて行った・・・」

弥次さんは、仕返しが成功して笑いが止まらず、街道を歩きながら一句、

”宿賃を 忘れて来しは 名物の 冥加至極(みょうがしごく)の しあわせしあわせ”

(ここの名物の茗荷のおかげで、宿賃を忘れて来たのは、神仏の冥加のおかげで幸せだ。

 冥加は神仏のお助けのことで、冥加と茗荷を掛けています。)






愛知川宿を出ると、中山道は国道8号線と合流、ダンプの風圧に耐えながら歩いて行きます。






やがて、 左手に祇園神社があり、その向こうは、一級河川「愛知川」(えちがわ)です。








広重の「木曽街道69次乃内 恵知川(えちがわ)」は、この「愛知川」に掛かる「無賃橋」を描いています。
浮世絵の右端には、「むちんばし、はし銭いらず」と書かれた木柱が立っています。

中央は、深編笠を被った白装束の2人の虚無僧と、赤い上着を着た女の牛飼いです。

そして、右手は、葛籠(つづら)を背負いその上に赤子を乗せた男です。





「愛知川」の橋を歩き渡り終えると、直ぐに左折して近江鉄道の踏切を渡り、常夜灯の先を右折して「五個荘」(ごかしょう)の町に入ります。



少し歩くと下の写真の道標があり、「右 京みち  左いせ ひの 八日市 みち」とあります。



左は、八日市・日野を通り、東海道の土山宿を経由して、伊勢へ参詣した道で、公卿に代わって代参を勤める人々が使用したので、「御代参(ごだいさん)街道」と呼ばれたそうです。



やがて、上の写真の”太神宮”と彫られた常夜灯の前で道は左右に分かれますが、ここを右折して進みます。





突当りを左折し、少し歩くと、五個荘町役場があり、その前には、下の写真の様に、松が1本だけポツンと残っています。





その松の先に、上の写真の中山道「分間延絵図(ぶんけんのべえず)」があり、ここ「五箇荘」の当時の町の様子が描かれていました。



その先は、幕末から続く”鋳物師”の「西澤家」で、玄関には、上の写真の様に、大きな梵鐘(ぼんしょう)が置かれています。



やがて水田地帯になり、その水田の脇に「左 いせ 右 京道」と刻まれた大きな常夜灯が立っています。



更に直進すると、 左手に「明治天皇北町屋御小休所」の石碑が建つ小公園があります。





明治天皇小休所の先には、江戸時代に、呉服繊維商として京都大阪で活躍した上の写真の「市田庄兵衛」の京町屋風商家の本宅がありました。



暫く歩くと国道8号に合流しますが、その合流点には下の写真の「てんびんの里」の大きなモニュメントがありました。



この辺りの「五箇荘」は、「てんびんの里」とも呼ばれ、財をなした近江商人の豪邸が並んで
いることで知られています。

近江商人は、天秤棒(てんびんぼう)を担いで、近江の産物を他国へ売り歩き、その他国の品を天秤棒で担いで帰り、上方で売りさばいたそうです。



中山道は、直ぐに国道8号から右折して細い道を進み、「清水鼻」の集落に入ります。

清水鼻は、当時は立場として賑わい、前回のブログでは、弥次さん喜多さんも、ここの木賃宿に泊まり、宿賃を踏み倒しました・・・

ここには、下の写真の「清水鼻の名水」があり、当時、旅人の喉を潤していましたが、今も綺麗な清水が流れ出ています。







清水鼻の名水から、更に進むと三叉路があるので、そこの左の道に入って行くと、やがて国道8号線に合流しました。





国道8号沿いに、新幹線と並行して暫く歩き、新幹線の高架をくぐると、左手に奥石(おいそ)神社の標識があるので、標識に従って8号線を左折します。





やがて、右手に奥石(おいそ)神社の参道があり、参道を進むと鳥居の先に、織田信長が寄進したという「奥石神社」の本殿(国重要文化財)がありました。









神社の周りは、「老蘇(おいそ)の森」で、昔は現在の数倍の広さがあったそうです。



老蘇の森の入口に、「中山道 陣屋小路」の石柱があったので、矢印に沿って進んでみると、下の写真の江戸時代の「根来陣屋」の跡がありました。



その説明板によると、

鉄砲で武装し傭兵集団として活躍した「根来衆」(ねごろしゅう)は、家康の家臣となりました。

数々の戦功を立てた根来衆は、1633年、ここに領地を拝領しました。

また、1698年、ここに陣屋が設置され代官所が置かれました。



根来陣屋から中山道へ戻り先に進むと、左手に上の写真の「杉原医院」があり、案内板によるとこの医院の裏手に「杉原氏庭園」(県指定文化財)があるそうです。



更に、中山道をどんどん直進して行くと、やがて、小さな川の横に、上の写真の「泡子延命地蔵御遺跡」がありました。

その説明板によると、
茶店の娘が、旅の僧に恋し、僧が飲み残したお茶を飲んだところ、身ごもり男の子を生みます。

三年後に、再びこの僧が現れ、僧が子に息を吹きかけると、子は泡となって消えてしまいました。

この話は、醒ヶ井宿の「西行水」にあった「泡子塚」と同じ内容で、ここでは少し違って伝わっている様です。




中山道は、ここから、水田地帯を2キロほど歩いて行くと武佐宿です。


愛知川宿から武佐宿までは、約11キロです。



64:高宮へ

66:武佐へ

                   
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