電車で行く「薩摩街道」 (その7:”田原坂の戦い”)
電車で行く「薩摩街道」 (その7:”田原坂の戦い”)
(上の写真は、田原坂の戦い)
電車で行く「薩摩街道」は、前回の「八代宿」に続いて 、今回は「田原坂」です。
明治維新になると、失業した武士達の新政府に対する不満から、佐賀の乱(首謀者:江藤新平)、福岡の秋月の乱(宮崎車之助)、山口の萩の乱(前原一誠)、
熊本の神風連の乱(太田黒伴雄)などの不平士族の乱が全国各地で起きました。
その一連の戦いの最後の戦いが、明治10年に起きた「西南戦争」です。
西郷隆盛率いる旧薩摩藩士が熊本城を目指し、”国内最大で最後の内戦”になりました。
「西南戦争」の戦場は、鹿児島、熊本、宮崎、大分と広範にわたりました。
政府軍6万に対し、薩摩軍は3万、そして戦死者は両軍合わせて1万4千にものぼる激しい戦いでした。
戦死者1万4千のうちの1/4が「西南戦争最大の激戦地・田原坂」でした。
では、「西南戦争」最大の激戦地「田原坂」を散策する前に、先ず、田原坂にある下の写真の「西南戦争資料館」に入って、その展示資料を見ながら、
当時の激戦の様子を振り返ってみましょう。
平成27年に新装オープンした「西南戦争資料館」には、実際に使われた銃や弾、古文書等が展示され、西南戦争の時代背景や裏話など、分かりやすく展示してあります。
また、映像・音・振動・ジオラマで戦いの様子をリアルに再現した「体感展示」では、陣地の中にいる様な凄い迫力の臨場感が味わえます。(写真撮影可:300円)
下の4枚の写真が、放映中の「体感展示」です。
明治10年、西南戦争における緒戦「熊本城での戦い」が始まり、薩摩軍は、熊本城を包囲し、総攻撃をかけます。
これに対して、官軍側は、熊本城へ援軍を送ろうとします。
薩摩軍は、熊本城周辺に兵士3千だけを残し、残りの部隊は、官軍の援軍を迎え打つために北上します。
これに対し、援軍側は、唯一、大きな大砲が通れる「田原坂」を目指してへ南下します。
両軍は、田原坂で衝突、田原坂は激戦地となりました。
田原坂は、熊本市の北部の植木町にある標高差60メートル、距離1.5キロの緩やかな坂道です。
実は、この田原坂は、加藤清正が築いた熊本城の北の守りの拠点でした。
田原坂は、簡単に進めない様に、坂の先の見通しが利かず、丘陵を蛇行しながら進む様に、清正が手を加えた坂でした。
西南戦争では、先込め銃(エンフィールド銃)、元込め銃(スナイドル銃)、連発銃(スペンサー騎銃)、火縄銃など、さまざまな性能の小銃が使用されました。
(西南戦争に使用された新旧の小銃)
(政府軍の装備)
(薩摩軍の装備)
(薩摩軍兵士と政府軍兵士)
(政府軍の兵士の写真)
当時では近代的な武器だった大砲や小銃などを使用した戦いとなりましたが、この田原坂で発砲された弾丸は、政府軍側だけで、何と!、”1日に60万発”にも達したそうです!
撃ち合った弾同士が空中で激突するほどの激しさで、その激突した弾を「かちあい弾(たま)」といいますが、田原坂からは、互いに激突して変形したかちあい弾が、今でも出土するそうです。
この田原坂での戦いによって、西南戦争の実質的な勝敗が決定し、以降、薩摩軍の敗走が始まります。
(田原坂の戦いを描いた絵)
地元の人が父から生前に聞いた話として、
「我が家が政府軍の本部となり、大山巌、山形有朋などの将校が床几に腰かけて作戦を練っていた。
家族は納屋に住まわされた。
大山巌は、毎日、戦闘の指揮に出ていた。
砲術長は、手を振り下ろして、我が家の庭で大砲の撃ての合図をしていた。
大砲は、夜間に薩摩軍に分捕られるのを恐れ、毎晩、七本の本営に運んでいた。」
(西南戦争資料館に展示されていた「西南戦争裏話」から抜粋
)
次回は、「西南戦争」で最大の激戦地である「田原坂」を散策します。
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電車で行く「薩摩街道」 (その8:田原坂 散策)
(写真は、田原坂の戦いで活躍した薩摩軍の美少年の像)
電車で行く「薩摩街道」は、前回の「田原坂の戦い」に続いて 、今回は「田原坂」周辺を散策します。
熊本駅からJR鹿児島本線に乗って、5駅20分の田原坂駅で下車します。
田原坂駅から線路沿いの道を30分くらい歩くと、下の写真の「田原坂」の入口に着きました。
ここが田原坂のスタート地点で、長さ1.5キロ、標高差60メートルの田原坂を上っていきます。
熊本城に籠城する政府軍を救援するために、唯一大砲が通れる田原坂を通ろうとする政府軍と、それを阻止しようとする薩摩軍との戦いで、
壮絶な死闘が、この地で17日も繰り広げられました。
官軍は、ここで薩摩軍の激しい抵抗に遭い、田原坂の最後の300メートルにある「一の坂」、「二の坂」、「三の坂」を抜けるための苦戦が続きます。
(一の坂)
(二の坂)
上の写真は、二の坂にある「谷村計介戦死の碑」ですが、谷村は、熊本城の守備で功績をあげましたが、ここで25歳で戦死したそうです。
(三の坂)
西南戦争は、日本初の本格的な近代戦となりましたが、同時に、日本刀が実戦で活躍した最後の戦いでもありました。
連日冷たい雨が降り続く中、濡れると使用できなくなる旧式の銃を使用していた薩摩軍は、日本刀による接近戦に切り替えます。
薩摩軍は、士族で構成されていたため、日本刀の剣術に優れた軍隊でした。
一方、官軍は、徴兵されてから初めて銃剣等の訓練を受けた農民出身の兵士が多く、刀での接近戦は苦手でした。
薩摩軍の兵士が、甲高い奇声を発して斬り込むと、その恐ろしさに政府軍の兵士は散り散りになって逃げたといわれます。
そこで政府軍は、士族が多い警視隊の中から特に剣術に秀でた者を集めて「警視抜刀隊」を結成します。
(警視抜刀隊:西南戦争資料館)
警視抜刀隊の志願者には、戊辰戦争で薩摩藩に滅ぼされた旧会津藩士会が多くいました。
旧会津藩士は、「戊辰の復讐!」と叫んで薩摩軍に斬り込んだそうです。
しかしながら、実は、官軍側の大半は旧薩摩藩士でした。
西南戦争は、「明治政府」対「薩摩」の戦いとされてますが、実態は「薩摩」対「薩摩」の戦いでした。
実際に、戦場でも、親子同士、兄弟同士で戦う姿が見られたそうです。
官軍側の総司令官・川村純義、警視隊の司令長官・川路利良、川路の後任・大山巌、熊本鎮台守備軍の参謀長・樺山資紀など、皆、旧薩摩藩士でした。
戦いが長引く中、天候は官軍側に味方しました。
雨が降り続き、薩摩軍側の旧式の銃は不発になります。
また近代式の軍服の官軍に比べ、薩摩軍側は、木綿の服にわらじの靴で、体力を消耗する戦いを強いられます。
ついに官軍側が、一の坂・二の坂・三の坂を越えて勝利を収めます。
「一の坂」、「二の坂」、「三の坂」を抜けると、「田原坂公園」があります。
田原坂公園は、激戦地の跡に造られた公園です。
公園の中に、前回ご紹介した上の写真の「田原坂西南戦争資料館」があります。
資料館の入口では、西南戦争140周年の記念品として、下記の銃弾を売っていました。(1,000円)
写真左側が官軍の「元込め銃(スナイドル銃)」、右側が薩摩軍の「先込め銃(エンフィールド銃)」です。
記念品のこの銃弾は、当時の鋳型を使用して、新たに鋳造した銃弾だそうです。
資料館の前のデッキからは、戦場全体を見渡せます。
資料館の隣には、両軍の無数の弾痕が白壁に残る「弾痕の家」(復元)があります。
公園の中心には、写真の「西南役戦没者慰霊之碑」が建っています。
この碑には、西南戦争で戦死した官軍6,923名、薩摩軍7,186名の”ラストサムライ達”の氏名が刻まれています。
また、公園内の上の写真は、「田原坂崇烈碑」で、”もし薩摩軍が田原坂で勝利し北上していたら、各地の不平士族がこれに呼応して立ち上がり、測り知れない禍があっただろう”と、
官軍の立場から、官軍勝利の意味が刻まれています。
更に、公園内には、写真の「美少年像」もあります。
雨は〜降る降る〜、
人馬は濡れる〜、
越すに越されぬ田原坂〜
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱〜、
馬上ゆたかに 美少年〜
この有名な歌が示すように、田原坂の戦いは、まさに泥沼の中での戦いでした。
黒い瞳で白面の23歳の薩摩軍の銅像の美少年「高田露(あきら)」は、太刀を振るい、政府軍に切り込みます。
これに勢いを得た薩摩軍は、緒戦に勝利しました。
実際には、西南戦争には、僅か15才くらいで参加した者も少なくなく、これらの幼い少年達の多くが田原坂で散りました・・・
私事で恐縮ですが、私の熊本での中学時代の同学年に「美少年」というあだ名の男の子がいました。
どう見ても、美少年には程遠い風貌なので(失礼)、ずっと不思議に思っていました。
あとで知ったのですが、彼は、熊本の”清酒・美少年”の跡取り息子だということでした。
田原坂公園を出て、写真の「七本の薩摩軍墓地」へ向かいます。
ここには、田原坂で戦死した薩摩軍と熊本隊の兵士311名が眠っています。
地元の人が祖母から聞いた話として、
「我が家は茅葺きの大きな家だったので、薩摩軍が73人泊まっていた。
薩摩軍は、柿木台場の戦闘に毎日出て行くのだが、5人欠け、10人欠けて、最後は3人だけになった。
戦闘の銃声が止んだので、高くなっている畑に上がってみると、柿木台場の方から官軍の鬨の声(ときのこえ)が流れて来た。」
(西南戦争資料館に展示された「西南戦争裏話」から)
薩摩軍墓地を出て、近くの写真の「七本の官軍墓地」へ向かいます。
地元の人が祖母から聞いた話として、
「畑作業に行くと、弾丸が私の首と背中の近くをビューンと通ったので、驚いて転げた。
戦闘が終わると、隣家の庭に、政府軍の死体が置いてあった。
その後、死体が運ばれるときに、死体の懐中のお金はそのままだったので、係官から「田原坂の人は正直だ」と言われた。」
(西南戦争資料館に展示された「西南戦争裏話」から)
地元の人が祖父と父から聞いた話として、
「田原坂で敗れた薩摩軍は、続々と敗走、多くは手負いで、うめき声をたてて死ぬ者もあった。
政府軍は、この後を追って迫り、また山の上から砲撃した。
祖父に背負われていた父は当時3才だったが、父が赤い着物を着ていたので、近衛兵と間違われて集中砲撃を受け怖かった。」
(西南戦争資料館に展示された「西南戦争裏話」から)
官軍墓地を出て、田原坂駅へ坂道を下りて行きます。
田原坂駅からJR鹿児島本線で熊本駅へ戻りました。
熊本宿へ
⇔
山鹿宿へ