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50:伏見


伏見宿に入ると、直ぐに、左側に「御嵩町伏見公民館」の建物があり、その前に、「伏見宿 本陣の跡」の石碑と、「是より東 尾州領」の石碑があります。





伏見宿は、国道沿いにあり、そのせいか、宿場町の雰囲気を残すものは、ほとんど残っていません。



最初の交差点の右側に、下の写真の「
一本松公園」があり、街道歩きの人のための休憩所になっていました。



一休みして、水分を補給し、オニギリを食べます。



壁を見渡すと、伏見宿の見所が、説明文と絵で紹介してあります。



上の写真は 「木曽街道六十九次(続膝栗毛)」で、伏見宿の旅籠の主人の話です。

絵の説明文によると、弥次さん喜多さんは、加納宿の女将から伏見宿の主人宛てに預かったラブレターを、意地悪く主人ではなく女将に渡します。

それを読んだ女将が、主人と喧嘩をはじめ、主人の額に出来たタンコブを食いちぎってしまい、近所の人も集まる大騒ぎとなります!

しかし、最後は、医者がタンコブを上手く縫い合わせ、一件落着!

弥次さん喜多さんは、この様子を見て、大笑いしたそうです。





上の写真は、当時は珍しかった「ラクダ」で、伏見宿で、ラクダの飼い主が病気で倒れ寝込んでしまいましたが、その時、近在の人々2,000人が見物に来たそうです。



上の写真は、播隆上人についての説明で、日本アルプスの槍ヶ岳を初登頂した日本人として有名だそうです。

一本松公園を出ると、直ぐ左手に、下の写真の元旅籠屋「三吉屋」があります。





伏見宿を進むと、右手に、県立東濃実業高校がありますが、この辺りが宿場町の外れです。






広重の浮世絵「伏見」は、伏見宿の南西の外れの犬山街道の「伏見大杉」を描いたものではないか、と言われています。

右端には、3人の瞽女(ごぜ)を描いていますが、これは御嵩宿の願興寺が瞽女達に屋敷を与えて保護していたからだそうです。

大杉の前には、大名行列を離れた2人の中間が、のんびりと草履の紐を締めています。

巡礼の老夫婦などが、木陰で昼食を食べたり休息したりしています。

中山道は、単調な国道21号沿いになり、更に進んでゆくと、写真の「左 多治見 右 太田渡し」の道標が残っています。



道標には大正4年とありますので、これから向かう「太田渡し」は、大正時代にも未だ渡しがあったことになります。



右手に上恵土(かみえど)神社を見ながら、退屈な国道21号をどんどん歩いてゆくと、道路脇に写真の「一里塚の跡」の真新しい石碑がありましたが、周囲には一里塚の痕跡もありません・・・







やがて「加茂公設市場」という交叉点に出ると、中山道は車専用道になってしまったので、仕方なく、右手に公設市場を見ながら、車専用道の脇の緩やかな下りの歩道を進んでゆきます。







まもなくJRの踏み切りを越え、市街地の郊外らしき景色の中をどんどん歩いてゆきます。





更に「龍洞寺」の門前を過ぎ、右手の「富士浅間神社」を右に折れて行くと、江戸時代には「太田の渡し」があったという木曽川に掛かる「太田橋」が見えてきました!



















江戸時代には、「
太田の渡し」は、”中山道の3大難所”に数えられ、”木曽のかけはし、太田で渡し、碓氷峠がなくばよい」と唄われました。

対岸の太田宿の渡しが「太田の渡し」なので、こちら側の渡し場は「今渡(いまわたり)の渡し」と呼ぶそうです。

対岸の右側に、下の写真の”
日本ライン船下り”の乗船場のテントが見えます。



ドイツのライン川に似ていることから「日本ライン」と名付けられたそうですが、ライン下りは、ここから木曽川沿に変化の激しい13キロほどを下ります。

太田橋を渡り終わると、江戸時代の「太田の渡し」の跡を見るために、橋の左手の河川敷に下りてゆきます。








広重の浮世絵「太田」は、この場所から「太田の渡し」を描いています。

木曽川の中には、木曽山中で伐採された木材を運ぶ筏と、渡し舟が見えます。

船着場の左手には、巡礼の親子が対岸を眺めていて、右手の3人の旅人は渡し舟の到着を待っています。


「太田の渡し」の河川敷を上がり、木曽川の堤防沿いの旧中山道に戻って、更に歩いてゆきます。









伏見宿から太田宿までは、約8キロです。



49:御嵩へ

51:太田へ

               
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