広重の浮世絵は、細久手宿の東の高い所から宿場の入口を望んでいます。
左端の坂を上って来る菅笠の一人旅の男は、荷物を肩の前後に振り分けています。
その右の笠を被って刀を担いだ侍は、刀に水筒をぶら下げています。
その右の3人の男女は村人で、紙の原料となる楮(こうぞ)畑の楮を刈り取りに行くところです。
細久手宿に入ると、「高札場跡」の標柱が立っています。
高札場跡の近くの街道より一段と高い場所に写真の「庚申堂」があり、境内には石仏が散在しています。
庚申堂から先は、街道沿いに民家が点在し、左手は公民館です。
この公民館の向かい側が、今夜の宿で、”尾州家定本陣”だったという「大黒屋」です。
(2食付:9,720円)
限界集落の感じすらするこの細久手宿で、ただ一軒だけ、旅館として、昔の古い建物のまま営業しています。
(細久手宿大火のため1859年に再建)
大黒屋のご主人は、第16代目当主で、ちょい悪オヤジ風のダンディな男前のオジサンです。
夕食時には、横浜のYさんと隣の席になり、街道歩きの情報交換などの話題で、二人で盛り上がりました。
夕食のあとで、カクシャクとした第15代目女将の酒井房子さん(御年91歳)に、大黒屋の歴史について解説して頂きました。
その話によると、
ここの領主である尾張の殿様の細久手宿への宿泊の際は、本陣での他の大名との同宿を嫌い、当時問屋だったこの大黒屋を、尾張藩専用の宿に指定したのだそうです。
大黒屋は、明治になって、いったん旅籠を廃業しましたが、昭和に入ると、この地で亜炭の採掘が活発になり、多くの人が集まって来たので、昭和26年に、料理旅館として再開したそうです。
亜炭ブームが去った現在は、中山道と東海自然歩道の街道歩きの人が多くなり、こちらを相手に旅館業を営んでいるとのこと。
そう言えば、大黒屋に着いたときに、ご主人から、玄関を入って直ぐの食堂の間に行くときは、段差があるのでつまずかない様に、と注意を受けました。
そうか!、あの段差が上段の間との段差だったんだ!
宿の部屋で一段落して、万歩計を見ると、何と!4万歩を超えています!
膝への負担を全く感じないで山道の4万歩を歩けたのは、写真の「MBT
シューズ」のお蔭です!
(新宿高島屋:34,900円)
「MBT」は、「Masai Barefoot Technology」(アフリカのマサイ族の素足のテクノロジー)の略です。
スイス人の開発者が、アフリカのマサイ族が美しい姿勢と背中や関節のトラブルとは無縁なのに着目して、この靴を研究開発しました。
長い間活動していなかった関節の周辺の小さな筋肉を鍛えて目覚めさせるのを目的に開発されたそうです。
写真の様に、普通の靴とは逆に靴の真ん中の部分が高くなっています。
もともと人間の筋骨格は、柔らかで不均一な自然の地面を歩く様に作られていますが、実際には、現代人の我々は硬くて平らな舗装道路を歩いています。
そこでこの靴は、舗装道路の上を自然の不安定さで歩く様に設計されたそうです。
頭が高い位置に保持され、一定の高さで滑らかに移動する様に設計されているため、頭の上に本を載せたまま自然に歩行出来る様になるそうです。
そもそもこの靴は、前傾姿勢では歩けませんので、お陰で私も歩く姿勢が良くなったと思います。
他にも、通勤用、女性用、サンダル風など、色々なバージョンが売り出されていますので、興味のある方は、新宿高島屋へどうぞ!
遅い朝食を済ませて、細久手宿の本陣「大黒屋」を出て、次の御嵩宿へ向かいます。
本日も、横浜のYさんと、御嵩宿まで、抜きつ抜かれつの道中となりました。
小さな宿場町の右手には、本陣跡碑だけがありました。
細久手宿を抜けると、中山道は広い舗装道路になりますが、右手の土手の上には、「九万九千日観音」とも呼ばれる写真の「細久手の穴観音」があります。
これは、縁日に拝むと、九万九千回分のご利益があると信じられていたからだそうです。
右手に「津島社」の小さな祠を見ながら進みます。
やがて、中山道は上り坂の山道になって、林の中を抜けると集落に出ます。
直ぐに、左からくる広い道に合流し、平岩橋を渡ると、再び急な上り坂になります。
カーブを描きながら急な坂を上ってゆくと、「左 中仙道西の坂」の石碑がありました。
その脇道の坂を上りきった所に、写真の「秋葉坂の三尊石屈」がありました。
ここから先は、「鴨乃巣辻の道祖神」や「右 鎌倉街道」石標などを見ながら、中山道は上り下りを繰り返して進んでゆきます。
途中には、例によって「クマ出没注意」の看板がありますが、すっかり慣れっこになってしまい、もう驚きません。
でも、その先に・・・ ん? 何・・・?
「注意 この”箱ワナ”に近づかないで下さい。」
わっ〜!
熊出没の看板だけではなくて、ついに、中山道の脇にまで、熊を捕獲するのための「箱罠」が!
緊張感が走ります・・・
恐る恐る「箱罠」の脇を歩いてゆくと、やがて、街道の両脇に「鴨乃巣(こうのす)の一里塚」が見えてきました。
地形の関係から左の塚と右の塚が16メートルズレているので有名なのだそうです。
一里塚に何か立て札が刺さっています?
近づいてみりと、何と!、
ご丁寧に、一里塚にまで「”この付近で”熊の目撃情報がありました」の立て札が刺してあります!
何だか、熊が近くにいる様な気がしてきました・・・
一里塚を過ぎると、山道は、長い下り坂になりますが、その途中の石垣の脇に、酒造業を営んでいた「山内嘉助屋敷」跡の石碑がありました。
やがて、中山道は、民家の庭先を抜け、曲がりくねった急な坂を下っていくと「津橋の集落」に出ました。
津橋の集落から、再び、急な上り坂の山道になり「御殿場」方面へ、延々と上っていきます。
山道の「諸の木(もろのき)坂」を上りきると「物見峠」で、写真の「馬の水のみ場」がありました。
説明板によれば、五軒の茶屋と馬の水のみ場があったそうです。
右手の階段を上ると、皇女和宮が降嫁の際に休憩されたという「御殿場」見晴台です。
「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、細久手宿〜御嵩宿で、弥次さん喜多さんが遭遇した”生き仏と死に仏の取り換え騒ぎ”について、次の様に書いています。
弥次さん喜多さんの前を、供の男を一人召し連れた勅願所の和尚が、問屋の人足に担つがせた乗り物に乗って行きます。
人足の中の一人は、坊主権太という呼び名で、坊主頭に鉢巻姿で、黒い衣を着た、変わった格好の人足です。
坊主権太は、勅願所(ちょくがんじょ)という御絵符(天皇家が祈願する格式の高い寺院の印)を挿した箱を担いで、人足の親方と話しながら、二人で乗り物の後を歩いています。
弥次さん:”坊さんの雲助は珍しい。”
坊主権太”:俺は御嵩の暴れ坊主で、昨晩も、通夜で飲み過ぎた。
酒を毎晩飲みたくて、坊主の仕事の片手間に、この様な駕籠の人足もやっている。”
二人がこの様な話しをしていると、その後ろから、”南阿弥陀ァ〜”と念仏を唱える葬式の列が、この乗り物に追いつき、並びます。
葬式の列の先頭は、念仏講の頭分です。
念仏講の頭分:”やあ〜!、坊主権太ではないか。
俺は、念仏の音頭取りは苦手だから交代してくれ。”
頼まれた坊主権太が、叩き鉦を受け取り、念仏講の頭分が、代わって御絵符の箱を担ぎます。
坊主権太:”南阿弥陀ァ〜”
すると、葬式の棺桶を担ぐ人足が、勅願所の和尚の乗り物を担ぐ人足に頼みます。
葬式の人足:”やあ〜、問屋の人足じゃあないか。えらく重たい仏様なので、代わってくれないか。”
そこで、葬式の棺桶の人足達と、勅願所の和尚の乗り物の人足達が交代します。
ところが、葬式の人足達は、皆、頭に三角の白い布をつけていて、うっかり、そのまま、葬式のお寺に入ってしまいます。
勅願所の和尚は、危うく、葬式の仏様と間違われそうになります!!
葬式の人足達が、間違いに気付き、慌てて引き返そうとしたところで、寺に入って来た葬式の棺桶と衝突してしまい、死体も勅願所の和尚も、放り出されてしまいます。
そこで、弥次さんが一句。
”すでの事 死んだ仏と 間違いて あぶなく寺へ いきぼとけさま”
(すんでの事に、死んだ仏に間違えられて、危なく寺へ行って、生き仏にされるところだった。)
細久手宿の本陣・大黒屋を出て、物見峠・御殿場見晴台を越え、次の御嵩宿へ向かいます。
(栗がたくさん落ちています。)
皇女和宮が降嫁の際に休憩されたという「御殿場」見晴台から先は、下り道となり、途中に下の写真の「唄清水」があり、脇に句碑が立っています。
”馬子唄の 響きに浪たつ 清水かな”(五歩)
中山道は、やがてアスファルト道路に出ますが、この左手に写真の「一呑(ひとのみ)の清水」があります。
太田南畝も仁戌紀行で触れており、皇女和宮も飲まれたという名水です。
一呑の清水から、一度アスファルト道路に出ると、右手が、昔、十本の松並木があったという「十本木 立場跡」です。
中山道は、立場跡の先から、再び、脇道へ入って行くのですが、写真の様に、工事車両が、その脇道の道標の前に止まっていたため、道標を見落として、いったん行き過ぎてしまいました・・・
アスファルト道路の途中で、行き過たことに気付き引き返します。
その工事車両の後から、再び、脇道へ入り、上ってゆくと、その先は、「謡坂(うとうさか)」の石畳道になりました。
石畳道を上り切ると、下の写真の民家が、あり、その前に説明板がありました。
それによると、この民家が、広重の「御嵩:十本木の立場の夕暮れ」のモデルとなった木賃宿だそうです。
浮世絵の民家の障子には「きちん宿」と書かれています。
宿の前の左手の小川では、老婆が米を研いでおり、右手には、手拭を被った女が、桶に汲んだ水を天秤で運んでいます。
宿の中では、主が囲炉裏に薪をくべ、周囲を客達が囲んで談笑しています。
謡坂の石畳が終わり、再び、舗装道路に出て暫く歩くと、耳の病気にご利益があるという「耳神社」がありました。
説明板によると、耳の悪い人がお供えしてある錐(キリ)を一本かりて耳に当て、病気が全快したら、歳の数だけ錐を奉納するのだそうです。
耳神社を出て、舗装道路を直ぐに右折して、山道に入ると、「ハチ注意」の看板が!
やれやれ・・・、”熊”の次は”蜂”です・・・
そう言えば、最近、蜂の異常発生のTVニュースをよくやっていますが、どうすればいいんだっけ?
取り敢えず、身体を低くして、ゆっくりと進みます・・・
「ハチ注意」看板の先は、「牛の鼻欠け坂」という名の急な下り坂になりました。
説明板によると、あまりの急坂に、荷物を背負って歩く牛の鼻が、地面に擦れて欠けてしまったそうです。
浅田次郎の小説『一路』では、一路の一行の「牛の鼻欠け坂」での様子を以下の様に書いています。
”峠道は次第に勾配を増した。
別名を「牛の鼻欠け坂」と称する難所である。
ブチ(お殿様の愛馬の名前)は、まさしく鼻づらの舐めそうな
急坂を、健気に登り続けた。
やがて白い鬣(たてがみ)から湯気が立ち昇り始めた。
しかし、ブチは、けっして歩みを緩めようとはしなかった。”
この「牛の鼻欠け坂」の急坂を下り終わると、狭いアスファルト道の田園風景になりました。
ようやく、山間部を抜けて、平地に辿りついた感じです。
「和泉式部(いずみしきぶ)日記」で有名な「和泉式部」廟所の矢印に沿って進むと、民家の裏手に廟所がありました。
案内板によると、和泉式部は病いに倒れこの地で没したそうです。
廟所の横には、
”一人さへ 渡れば沈む 浮き橋に あとなる人は しばしとどまれ”
の句碑がありました。
横浜のYさんと、抜きつ抜かれつで、国道21号沿いに、更にどんどん歩いてゆきます。
やがて、左手に御嵩宿の道標があり、ここから脇道にはいると、もう御嵩宿です。
細久手宿から御嵩宿までは、約12キロです。 |
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