十三峠の長くて厳しい山道がようやく終りました!!
中山道の左手に、「中山道 大湫(おおくて)宿」と「宗昌禅寺」の石碑があります。
もう「大湫宿」に入ったのです!
大湫の”湫(久手)”は、沼地や湿地を表す言葉で、峠に挟まれた低い土地で水が溜まり易い場所を指すそうです。
「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次さん喜多さんが、「大湫宿」の旅籠に泊まったときの様子が描かれています。
喜多さんは、この旅籠の女中に心を惹かれてしまします。
旅籠の若女将から、この女中は、夜に畑を荒らす猪の番をするために、今夜は見張り小屋にいると聞かされます。
宿の皆が寝静まったころ、喜多さんは、この小屋へ夜這いに行きますが、既に他の男が夜這いに来ていて、当てが外れます。
更に悪いことに、自分の部屋に戻る途中で、猪の罠の落とし穴に落ちてしまい、猪と間違われて大騒ぎになります。
”大わらひ なれや力を落とし穴 あてのはづれし あごのかけがね”
(喜多さんが夜這いの当てが”外れた”と、夜這い失敗を見て大笑いした弥次さんの顎が”外れた”、をかけています。)
(猪の罠から救出される喜多さん)
ちなみに、江戸時代には、この宿場町の周辺は猪が多い場所として有名だったそうです。
「大湫宿」に入り、坂を下ると、左手奥に写真の宗昌禅寺があります。
更に坂を下って左折すると、右手の小高い場所に小学校があり、この小学校が大湫宿本陣跡です。
浅田次郎の小説『一路』では、一路の一行が大湫宿の本陣に宿泊した夜の様子を以下の様に書いています。
”道中の二宿目となる、大湫宿の本陣である。
(小姓がお殿様へ)「お枕元にて朝まで軍記を語れとの、御供頭様よりの
お指図にござりますれば、なにとぞお聞き続け下されませ。」
またしても「古式に則った仕儀」とやらか。お殿様は溜息をつきながら
起き上がった。
(お殿様が御供頭添役へ)「夜っぴての物語はたまらぬ。余はなにゆえ、
一晩じゅう軍記を聞き続けねばならぬのじゃ。」
「参勤道中は行軍にて、ゆえに旅宿を本陣と称しまする。陣中にあらば、
御大将は眠ってはなりませぬ。」
いやはや!、11夜の道中を眠らずに過ごせとは、昔のお殿様は大変だったんですねえ〜!
この小学校の前に、皇女和宮が降嫁の際に、大湫宿本陣に宿泊されたことを記念する歌碑が建っています。
”遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりける”
”思いきや 雲井のたもと ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは”
(校庭入口にある皇女和宮の陶製人形)
皇女和宮歌碑の向い側に、お休み処があったので、ここで一休みして、五平餅(120円)とアイスコーヒー(150円)を注文します。
朝、JR恵那駅をスタートしてから、休みなしに峠道を歩き続けること5時間、ようやく、ここで最初の休息です!
お休み処のおばさん2人に話しかけます。
”中山道の十三峠踏破も、この大湫宿に旅館があると、ここで1泊出来て、比較的楽な行程になるんですけどねえ。”
”私達もそう思っているんだけど、この大湫の誰も旅館をやってくれないんですよ。”
本陣跡の先には、現在は子孫の方が住まわれているという脇本陣跡(非公開)がありますが、門構えは当時のままだそうです。
脇本陣跡の先に上の写真の「神明神社」があり、江戸時代に”大湫宿に過ぎたるもの二つあり”として有名だったご神木の「大杉」があります。
樹齢1,300年の驚くほど巨大で立派な杉です!
この付近の町並みの民家は、江戸時代の雰囲気を残しています。
宿場町を少し歩くと、小高い場所に、江戸時代に言われた”大湫宿に過ぎたるもの二つあり”のもう一つの「観音堂」(1847年再建)があります。
この観音堂の先に高札場跡があり、この辺りで大湫宿は終りです。
この先、中山道は緩やかな下り坂になります。