中津川宿到着の翌朝、中津川駅前のビジネスホテルを出て、すぐ近くの中津川宿の入口である高札場へ向います。
そう、昨日のゴールである中津川宿・高札場が、本日のスタート地点です。
「夜明け前」の中で、馬籠宿の庄屋の半蔵は、中津川の市街地を見下ろす「新茶屋」の丘の上で語ります。
”「あの山の向こうが中津川だよ。
美濃は良い国だねえ。」
と言ってみせた。
何かにつけて、彼は、美濃尾張の方の空を恋しく思った。”
私も、長い長い木曽路の山道から、ようやく平地の中津川に出てきたという実感が湧いて来てホッとしています。
中津川宿の入口の高札場の脇には、下の写真の常夜灯、庚申塔、二十三夜塔がありました。
中津川の高札場をスタートして、市街地の歩道の無い中山道を少し歩くと、新町の交差点で、右に行くとJR中津川駅です。
中山道は直進して、新町のメインストリートと重なる道を進みます。
下の写真は、中津川の名物「栗きんとん」の老舗「すや」ですが、季節外れのせいか閉店しています。
当てが外れた私は、いったんJR中津川駅前に戻り、お土産に、お目当ての中津川の名物「栗きんとん」を買いました。
江戸時代から変わらぬ製法の「中津川名物:栗きんとん」は、皆さんご存知の「おせち料理の栗きんとん」とは違います。
説明書によれば、蒸した栗を割って、手作業で丁寧に実を掻き出します。
その実を潰し、少量の砂糖を加えながら煮て、茶巾渋りにします。
写真の表面の模様は、その茶巾渋りの跡です。
栗の香りがふわっと口の中に広がり、粒々感を残した濃厚な栗の味を感じました。
JR中津川駅前から、「栗きんとん」の老舗「すや」の前まで戻り、街道歩きを続けます。
街道沿いの分かり難い路地の奥に、下の写真の「桂小五郎隠れ家跡」(料亭「やけ山」)がありました。
1862年、桂小五郎は、京へ向う長州藩主・毛利慶親に、尊王倒幕を決意させるため、ここ「料亭やけ山」に隠れて待ちました。
そして、所謂「中津川会談」の結果、長州藩は尊王倒幕桂へと方針転換します。
更に、新町のメインストリートと重なる中山道を進みます。
下の写真は、街道沿いにある、かっては東美濃随一の豪商と言われた「間(はざま)家」の屋敷跡の一部に残る「間家の蔵」(大正6年)です。
島崎藤村「夜明け前」では、間家の丸八が、角十として登場します。
(間家の蔵の庭の織部灯篭)
中山道は、この先で四つ目川に架かる四つ目川橋を渡りますが、その先に中津川脇本陣跡があます。
上段の間が復元されています。
そして、脇本陣の跡地には、中津川市の「中山道歴史資料館」(320円)が建っていました。
資料館には、中津川宿の旧家から発見されたという、中津川会談の記録、赤報隊の辞世の句、対馬藩主作成の偽報告書などの貴重な資料が展示されています。
(中津川会談の記録)
(赤報隊の辞世の句)
(対馬藩主作成の偽報告書)
歴史資料館の向かい側に本陣跡があり、その横に、下の写真の明治天皇行在所の碑があります。
更に、道路を挟んで、下の写真の庄屋屋敷(曽我家)と庭が残っています。
更に街道沿いに進むと、中津川宿の枡形で、道路は左折しますが、この辺りには古い町並みが残り、卯建(うだつ)が上がる造り酒屋などの立派な家々が続きます。
枡形を抜けると、右手に常夜灯があります。
その常夜灯の先で、中津川に架かる「中津川橋」を渡ると、中津川宿は終わりです。
広重の浮世絵「中津川」は、この中津川に架かる「中津川橋」と、その田んぼの先の中津川宿を描いています。
中津川の堤防に枝垂れ柳を配し、遠景は長く連なる木曽の山々です。
橋の手前は仏法の修行者、橋の上は天秤を担ぐ農夫、橋の先はこちらへ向かう長持を担ぐ2人の人足です。
そして、珍しく、広重は、浮世絵「中津川」をもう1枚描いています。それが、下の「雨の中津川」です。
雨の降る中山道を、雨合羽を着た3人の武士が歩いています。
街道沿いの左手には池、後方には立場茶屋の集落、そして遠景は恵那山です。
中津川宿を抜けると、やがて、中山道は、緩やかな上り坂になりますが、街道の突当りに、下の写真の津島神社参道の碑と馬頭観音、南無阿弥陀仏などの石碑があります。
更に進んでゆき、駒場の集落に入ると、写真の「駒場村の高札場跡」がありました。
中山道は、その先で、正面に続く階段を上って小高い丘の上に出ます。
丘の上で、中山道は左折しますが、直進すると「苗木道」です。
「苗木道」とは、江渡時代には、ここから「苗木城」へ行く道があったからです。
(苗木城については、「45-1:中津川:苗木城」を見てね。)
「苗木道」の道標の前に、写真の珍しい「双頭一身道祖神」で、頭は男女2つですが肩から足元にかけて一体となっています。
この双頭一身道祖神の隣は、下の写真の「上宿の一里塚」です。
一里塚を過ぎると、中山道は緩やかな上り下りが続きますが、やがて左手に下の写真の「小石塚の立場跡」の碑が見えます。
ここが、中津川宿と大井宿の間の立場(たてば)で茶屋などがあったのでしょう。
「小石塚」は、「恋し塚」とも書くそうです。
これは、昔、お城のお姫様に恋い慕われた若者がいましたが、若者は叶わぬ恋と出家し、この地で亡くなりました。
お姫様は後を追ってこの地に来て、「恋しい人の塚」と哀しんだので、「小石塚(恋し塚)」の地名となったのだそうです。
中山道は、その先で下り坂になり、突き当たりです!
え〜っ!
中山道は、ここで行き止まりなの?・・・
突き当りの場所に行ってみると、「歴史の道 中山道」の案内板があり、その案内看板の裏に石段がありました。
この周辺は、上の写真の案内地図の様に、国道や旧道バイパス等が複雑に絡み合い訳が分かりません。
とにかく、訳が分からないまま、石段を下りて、中山道の矢印の通りに進んで行きます。
中津川インター入口バス停を左手に見て、線路沿いに歩いてゆくと、道路が広くなり、写真の「六地蔵」がありました。
石碑は1基しかないのに何で”六”地蔵なの?
近寄ってみると、石灯籠の側面に、六つのお地蔵様が彫られていました。
なるほど、そういうことか!
今朝、中津川宿の高札場をスタートして、この辺りでお昼時となり、お腹が空いてきました。
お店も何も無い、この辺りの街道沿いには珍しく、たまたま、グッドタイミングで、「天ぷら”かわせみ”」の食堂の看板が見えました!
お昼時のせいか、この辺りにお店が何もないせいか、食堂の中は、満員の盛況です。
早速、天ぷら定食(850円)とビールを注文します。
暑かったので、ビールが美味い!
かわせみを出て、右手に坂本神社八幡宮の石碑を見ながら進むと、その先に「千旦林の高札場跡」の碑がありました。
中山道は、この先で、左手の農道の様な小道へと入っていき、のどかな田園風景が続きます。
更に歩いてゆくと、緩やかな上り坂になり、右手に下の写真の「三ツ家の一里塚」跡の碑がありました。
一里塚を過ぎて、「坂本立場跡」碑を右に見ながら、中山道の矢印に従って坂本橋を渡り、更に進むと、「茄子川(なすびがわ)の高札場跡」の碑がありました。
そして、高札場跡の先に「尾州白木改番所跡」の碑がありました。
これは、これまでに、既に何か所かあった木曽の白木を持ち出さない様に監視していた改番所です。
白木改番所跡を過ぎると、古い家並みに入り、すぐ左手に下の写真の「茄子川御小休所・篠原家」がありました。
篠原家の当主は、代々、茄子川村の庄屋を務めたそうです。
中津川宿と大井宿との間の距離が長いため、その中間に、この小休所が置かれ、和宮、明治天皇も小休したそうです。
また、ここは秋葉山道の入口でもあったので、街道の左右に常夜灯も残っています。
茄子川の集落を抜けて、再び田園風景の中を歩いゆくと、恵那市の標識があり、ここから恵那市に入ります。
恵那市に入ると、再び、広久手坂という上り坂となり、そして、その坂を下ると、瀬沢の集落に入り、常夜灯があります。
岡瀬沢の集落を抜けると、上りのかなりキツイ「甚平(じんべい)坂」という急坂があり、その上に「甚平」公園という休憩所がありました。
この休憩所で一休みします。
「甚平」公園の中に、下の写真の「犬塚・馬塚」の説明板がありました。
説明板によると、鎌倉時代の武将・根津甚平は、源頼朝の命により、化け物の鳥を追ってきましたが、この甚平坂で、乗っていた馬も、連れの犬も息が絶えてしまったそうです。
そうか、私も、この坂で息が絶えそうだったから、この伝説は実感です?・・・
広重の浮世絵「大井宿」は、この甚平坂の上の休憩所から描いたそうで、下の写真はそのモニュメントです。
雪の降りしきる中、黙々と甚平坂を上ってくる馬、馬子、馬上の旅人を描いています。
右側の手前の松の背後の大きな山が恵那山、左手の松の背後が木曽の山々で、中央の一番奥の山が御嶽山です。
根津神社を左手に見ながら、甚平公園の前の道を下りてゆくと、下の写真の「関戸の一里塚」碑があります。
一里塚の先で、県道に突当るので、左折して国道19号を陸橋で渡ると、「菅原神社」が見えてきます。
菅原神社の石段を下りてゆくと、馬頭観音と上宿(うわじゅく)の石仏群があり、その先の明知鉄道のガードをくぐると、もう大井宿です。
中津川宿から大井宿までは約10キロです。
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