(写真は、戊辰戦争の際に有名になった傷薬の薬屋の古い看板)
佐久山宿(さくやまじゅく)は、戸数121、人口473人で、うち本陣1、脇本陣1、
旅籠27でした。
佐久山は、1187年、源平合戦の際に弓で活躍した那須与一の兄の那須次郎が、この地に佐久山城を築城して、佐久山氏を名乗ったのが始まりです。
しかし、同族の福原資孝(すけたか)が佐久山氏を攻め、佐久山城は落城、
佐久山氏は追われました。
その後、1702年、福原資倍(すけます)が佐久山城を修復、以後、福原氏が、
旗本として明治維新までこの地を支配しました。
佐久山宿の入口の佐久山前坂交差点の脇の長い坂道を下り、佐久山宿の中心の通りに入って行きます。
佐久山宿に入って直ぐ左手の民家の立派な門の脇に「運用膏」と書かれた
古い看板があります。
運用膏は、戊辰戦争の際、官軍が傷薬として用いて効き目が絶大だったため、
その後九州などからも注文があった有名な薬屋らしいですが、現在は
営業している気配はありません。
上の写真は、安政2年(1855)創業の「小島屋」菓子店です。
新旧の家が混じった家並みですが、かっての宿場町の面影はほとんどなく、街道沿いには、空き地が目立ちます。
上の写真の郵便局の隣の駐車場が、かっての井上勘左衛門「本陣跡」らしい
のですが、説明板すらありません・・・
郵便局の手前には、上の写真の「村上英俊翁 生誕之地」の石碑があります。
村上英俊は、ここ佐久山の出身で、日本で初めてのフランス語の辞典を刊行するなど、幕末期から明治期にかけて活躍した学者だそうです。
また、郵便局の隣の駐車場の横の空き地には、上の写真の「豊道春海翁 生誕之地」の大きな石碑が建てられています。
豊道春海は、ここ佐久山の出身で、明治から昭和の日本を代表する書家だ
そうです。
この石碑のすぐ先の右側に、上の写真の「大田原市消防団」の倉庫があり、
その隣は、壁に那須与一が描かれた公衆便所です。
ここ佐久山は大田原市ですが、至る所に「那須与一」関連の立て看板などが
あり、大田原市は「那須与一」で地域興しを図ろうとしているみたいです。
消防団の倉庫の前には、「旧奥州道中 佐久山宿 下町」の石柱が建っています。
消防団の建物の前の道標を右折すると、写真の「不動明王を祀った大日堂」が
あります。
大日堂の裏には、樹齢800年の「佐久山の欅(けやき)」がありました。
大日堂から街道に戻り、左手のガソリンスタンドを左折して、佐久山小学校へ
向かいます。
この小学校の裏山が「佐久山城址」でした。
佐久山城址は、現在は「御殿山公園」として整備されていました。
土塁などの一部が残っているらしいので、公園内をウロウロしましたが、
その遺構へ行く道順の案内板が見当たりませんでした。
城址から小学校の前に戻り、小学校の手前の石段を上って行くと、写真の
「薬師堂」がありました。
上の写真の天井の竜の絵は、日光東照宮の鳴き竜を描いた絵師によるもの
という説がありますが、真偽のほどは不明です。
佐久山宿の見物を終えて、郵便局の前のバス停へ戻ります。
次のバスまで2時間半あり、次は16:51の最終便です。
バスまでの2時間半をどうやって過ごすか?
「安心して下さい。ちゃんと調べてますよ!」
この前の喜連川宿で学習しましたから!
佐久山宿の入口に、日帰りの温泉があることを調査済みです。
佐久山宿の中心通りから、長い坂道を、佐久山宿の入口まで戻ります。
佐久山宿の入口の交差点を右折した直ぐ先が、「佐久山温泉 きみのゆ」
という日帰り温泉施設です。
直ぐ横は、魚鶴という温泉ホテルで、きみのゆとは同族経営みたいな感じです。
入湯料620円を払って、バスの時間までの2時間を過ごしました。
源泉かけ流しのアルカリ性単純温泉で、少しヌルッとする程度の優しいお湯です。
大浴場、ジェット浴槽、座湯、サウナの他に、岩造りの露天風呂もあります。
食堂の料理は、安くてメニューも多く、味もまあまあで、常連客らしき人達で
ほぼ満員です。
館内の売店には、地元の野菜や果物も販売されていました。
「佐久山温泉 きみのゆ」を出て、16:51の最終バスに乗り、大田原市役所前で
乗り換えて、JR西那須野駅へ向かいます。
JR西那須野駅から東北本線に乗り、宇都宮駅で上野東京ラインに乗り換えて、
横浜に帰りました。
今回は、佐久山宿行きの始発バスに間に合う様に、東京駅から新幹線を
利用します。
早朝に、JR横浜駅から上野東京ラインで東京駅へ行き、東京駅から東北新幹線で那須塩原駅へ向かいます。
那須塩原駅前からバスに乗り、大田原市体育館前で、佐久山行きの始発バスに乗り換えて、前回ゴールの佐久山郵便局前に到着しました。
横浜(6:58) →(7:28)東京(7:44)→新幹線やまびこ→(8:58)那須塩原
那須塩原駅前(9:15) →大田原市営バス →(9:38)大田原市体育館前(9:40)
→大田原市営バス →(10:00)佐久山郵便局前
前回ゴールの佐久山郵便局前をスタートすると、直ぐに佐久山宿を抜け、街道は右にカーブしながら坂を下ります。
坂の途中の「正浄寺」には、芭蕉の句碑がありました。
「花の陰 謡(うたい)に似たる 旅寝哉(たびねかな)」
(吉野の花に行き暮れて、こうして旅寝をしていると、なにやら謡曲の
主人公になったような気分になる。)
この句は芭蕉が吉野で詠んだものですが、この様に、芭蕉の句碑は、全てが
そこで読まれた句という訳ではなくて、後世に、その地域の芭蕉ファンが
好きな句を選んで建てたのも多い様です。
暫く街道を進み、「箒川(ほうきがわ)」に架かる「岩井橋」を渡ります。
岩井橋の直ぐに先の上り坂の左手に、上の写真の馬頭観音らしき石碑群が
ありました。
そのあとは、ほぼ直線の道がずっと続きます。
やがて、吉沢地区に入り、谷田川を渡る小さな橋を渡ります。
川の左手の小さな中島に、聖徳太子の碑が立っていますが、この周辺が、
県天然記念物「「イトヨ(糸魚)」の生息地らしいです。
小川を覗いてみると、澄み切った清流に水草が揺らいでいます。
残念ながらイトヨは見えませんでしたが、いかにもイトヨの生息地という感じの
湧き水です。
上の写真は、大田原市のホームページに掲載されていた「イトヨ(糸魚)」の
写真です。
旧道は延々続きますが、更に進むと、右手が開けてきて、遠くには山並みが
見えます。
やがて「めがみばし」と書かれた橋を渡り、「親園」(ちかぞの)という集落に
入っていきます。
少し進むと、左手に上の写真の「湯殿神社」があり、その鳥居の手前に
「鞘堂」があって、中には下の写真の「浦蘆(ほろ)」石碑が納められています。
「浦蘆」(ホロ)とは「蜃気楼」のことだそうです。
1812年、ここ那須野に、兵士の隊列が行進する「蜃気楼」が現れました。
この蜃気楼を、旅の僧が目撃して記録、のちに、その記録した光景をこの石碑に刻みました。
当時、ここ親園地区は、代官・山口鉄五郎の支配下にありましたが、
鉄五郎は、新田開発等の農村振興に努め、領民から非常に慕われていました。
この「浦蘆(ほろ)」石碑には、その山口代官の善政を讃える文言が加えられて
いるそうです。
村人は、奥州街道を旅する人にも、広く山口代官の善政を知ってもらおうと、
街道筋にこの石碑を建てたのだそうです。
でも、どの様にして、この蜃気楼の発生と、鉄五郎の善政が結びつくの
でしょうか?
インターネットで調べてみると、どうも、中国の書「中庸」の中にある
”政治は蒲慮(蜃気楼)のようなもの”の一文と、鉄五郎の善政を結び付けた
様ですが、漢詩の素養がない私には、この結びつきがよく理解出来ません・・・
浦蘆碑の斜め向かいに、代々名主を務めた立派な門構えの「国井宅」が
あります。
門の脇の見事な赤マツには、「与一の里の名木・国井宅の赤マツ」の説明板が
あり、樹齢約200年とあります。
その国井宅の門の左手の内側の「祠」の中に、「町初(まちはじめ)碑」が
あります。
この石碑は、ここ「八木沢宿」が開かれたのを記念して立てられた碑で、
表に「此町初寛永四年(1627年)卯(ひのえ)」、裏に「国井与左衛門」と
彫られています。
なお、ここ親園(ちかぞの)にあった「八木沢宿」は「間の宿」(注)でした。
(注)「間の宿」(あいのしゅく): 宿場と宿場との中間に設けられた休憩の
ための宿場で、宿泊は禁じられていました。
旧奥州街道は、町初碑の先からは、大田原宿の入口まで約3キロの直線道路
です。
やがて、街道は、百村川(もむらがわ)の川べりの道になるので、快適な
ウォーキングです。
その後、百村川の川べりから離れて、左にカーブすると、大田原の市街地に
入って行きます。
やがて、「佐久山街道」の道標も見えてきて、そこから1キロくらい進むと、
下の写真の神明町交差点です。
この交差点を右折すると、もう大田原宿です。
佐久山宿から大田原宿までは、約7キロです。
未だ昼過ぎですが、1日5キロの歩行制限を2キロ超えてしまいましたし、
足に少し痛みが出て来たので、本日は早々と街道歩きを切り上げて、
今晩の宿のJR西那須野駅前のビジネスホテルにチェックインして、
バスタブで足を温めます。
もう既に、大田原の市街地に入ったので、この辺りからのJR西那須野駅行きの
バス便は頻繁にあります。
|
|