今年は、梅雨の異常気象・長雨がようやく終わったと思ったら、今度は、猛暑が続いて、中山道歩きがなかなか再開出来ないでいました。
更にこの頃、私は、五十肩の痛みにも悩まされていました。
このところ、ようやくその猛暑もおさまり、私の五十肩の痛みも小康状態となったので、中山道の一人歩き旅を再開することにしました。
横浜を6時頃に出発、東京駅で長野新幹線に乗換えて佐久平まで行きます。
佐久平からバス10分の距離にある、前回のゴール地点の塩名田宿へ向かいます。
JR横浜(6:15)→(東海道線)→東京(6:52)→(長野新幹線)
→(8:21)佐久平(8:52)→(9:02)塩名田
写真は、佐久平駅から塩名田宿へ向かうバスの中ですが、乗客は私一人でした。
田舎はマイカー化で、バス会社の経営は大変なんですね・・・
前回の終了地点である塩名田宿バス停に着きました。
江戸時代の信州では、塩は貴重品だったため、その塩が運ばれるルートを特別に「塩の道」と呼び、そのルート沿いに、塩尻、塩名田などの地名が残っているのだそうです。
塩名田宿は、下の写真の様な江戸時代の雰囲気を残す古い町並みの家々が点在します。
下の写真は、塩名田宿本陣ですが、かなり雰囲気があります。
宿場町を西へ進むと、すぐに千曲川に突き当たります。
千曲川の”舟つなぎ石”を見ようと、宿場町の外れの川岸に下ります。
川岸には、写真の様な3階建の家が点在し、こちらも雰囲気があります。
3階建の家の周辺は、近隣の皆さんが老若男女、総出で、秋祭りの準備の真っ最中でした。
塩名田宿は、宿はずれに、千曲川が流れていたので、増水すると川留めで宿場が潤ったそうです。
これは、増水すると、渡し舟の料金が非常に高くなり、宿場に逗留する方が安くついたためだそうです。
千曲川の川岸を右に下りると、舟つなぎ石の説明板がありました。
説明板によると、江戸時代には、千曲川は橋を架けても大雨で流されてしまうので、江戸時代には、舟を並べて”舟の橋”を作って川を渡っていました。
そして、その舟橋が流されない様に、この「舟つなぎ石」に穴を開けてロープで止めていたそうです。
写真の赤丸印が「舟つなぎ石」です。
(写真の舟つなぎ石の上部に開いている穴が舟をつなぐための穴です。)
舟つなぎ石を下に眺めながら、千曲川に架かる中津橋を渡ります。
上の写真の位置が、 広重の浮世絵が描かれた場所だそうです。
(赤丸印は「舟つなぎ石」)
遠景は浅間山、そして渡し場付近は、現在は、写真右の建物の川魚料理店になっています。
広重の浮世絵は、ゆったりと流れる千曲川の渡船場風景を描いています。
川岸に舟がつながれていて、3人の船頭が、茶屋で休んでいる仲間と合流しようと、話ししながら歩いています。
フンドシ姿では、冷たい川風が見ししみる様で、ゴザ等で寒さを凌いでいます。
茶屋では3人の船頭が火の周りにうずくまっています。
茶屋の隣には、宿場を代表する大ケヤキを配しています。
(大ケヤキは、現在、根だけになっています。)
千曲川を渡ると、対岸は、御馬寄(みまよせ)の集落で、江戸時代には、千曲川一帯の米の集散地として栄えたそうです。
暫く歩くと、田んぼの中に、御馬寄の大日如来像があり、その隣に芭蕉句碑がありました。
”涼しさや 直ぐに 野松の枝の形(なり)”
(まるで自然のままの見事な枝ぶりの松の姿を見ていると、
いかにも涼しさが伝わってきそうだなあ。)
街道が国道に合流すると、直ぐに下の写真の「御馬寄の一里塚」跡がありました。
浅間山を、ずっと右手に見ながら、秋晴れの下、快適なウォーキングが続きます!
街道の両側には、稲刈り風景が展開して、子供のころの懐かしい日本の原風景が蘇ります。
御馬寄の集落から緩やかな坂を上ると、やがて道は、田園風景の緩やかな下り坂になり、八幡宿に着きました。
塩名田宿から八幡宿までは距離が短く、約3キロです。 |
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