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多摩川を歩く (その28) (等々力渓谷:東京側)  2022.9.16




(写真は、等々力渓谷の散策路)


 

前回は、多摩川台公園の崖を下り多摩堤通り出て、河川敷を歩きました。

「多摩川」と「矢沢川」との合流点まで河川敷を歩いたところで、多摩川と分かれて「矢沢川」を遡り、「等々力渓谷」の入口までやって来ました。 

今回は、その「等々力渓谷」を散策します。


 

「等々力渓谷」は、武蔵野台地の南端を矢沢川が侵食して出来た、全長1キロの東京23区にある”唯一の渓谷”です。

等々力渓谷の至るところで湧き出る水は、「東京の名湧水57選」に選ばれています。

ここは、都会の喧騒から切り離された、鳥のさえずりや渓流の音が静かに聞こえる素敵な空間です!

 



多摩川と別れて、谷川橋を渡り、谷沢川を遡りながら、「等々力渓谷」の散策路を歩んで行きます。





等々力渓谷に沿って少し歩くと直ぐに、「日本庭園・書院」のかぶき門があります。

かぶき門をくぐると、竹林が美しい日本庭園です。











奥に進むと、書院があり、ここでは日本庭園を眺めながら休憩出来ます。



説明版によると、書院の建物は昭和36年建築で、庭園は昭和48年作庭と比較的新しいものでした。

等々力渓谷に戻り、散策路を歩んで行きます。









散策路を進むと、写真の「不動の滝」があります。 











不動の滝の右手の急な石段を登って行くと、突き当たりが平安時代末期に開かれた「等々力不動尊」です。 





この不動尊は、正式名称は、滝轟山明王院(りゅうごうさん みょうおういん)といい、大日如来の使者である御不動様を祀っています。





写真の「等々力不動尊の本堂」は、江戸時代末期の建築です。



写真の「見晴らし舞台」は、等々力不動尊の横にある木製の舞台で、ここから渓谷内を一望出来ます。





等々力不動尊の急階段を下りて不動の滝へ戻り、少し進むと、写真の「稚児太子堂」がありました。 







太子堂から、散策路を更に進んでいくと、右手に、奥行きが13メートルもある「等々力渓谷3号横穴」があります。



説明版によると、等々力渓谷では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基も発見されています。

中でも、昭和48年に発見されたこの「3号横穴」は、典型的な横穴墓の形態を留めています。

被葬者たちの副葬品が豊富なことから、等々力周辺を治めていた有力者であると推定されるそうです。












遊歩道の先に、写真の「環状8号線(環8)の陸橋」が見えて来ました。



環8の陸橋の下に、上の写真のイタリアンの「オットー(OTTO)」の看板がありました。 



看板に従って、急な階段を息を切らせながら上がっていくと、その「オットー(OTTO)」がありました。  





上の写真左側の緑色の鉄骨が環8の陸橋です。



ここで、写真のピザ(1,250円)を注文して、眼下の等々力渓谷を眺めながら食事をします。



店内はほぼ満席で、大勢の女性客が、グループでテーブルを囲んでお喋りしながら食事していました。

店内を見回すと、男性客は私だけで、しかも、一人でテーブルを独占してしまっているので、そそくさと食事を済ませて出ました・・・













散策路を更に進むと、等々力渓谷の終点にある赤色の「ゴルフ橋」が見えて来ました。

ゴルフ橋は、昭和の初めまで、渓谷の先にはゴルフ場があり、そこへ行く際にこの橋が使われていたことに由来しています。



散策路の終点のゴルフ橋から、多摩川まで歩いて来た散策路を引き返します。



等々力渓谷を流れる矢沢川が、多摩川と合流する上の写真の玉川排水樋管まで戻って来ました。


ps.


ここ東京側の世田谷区の「等々力渓谷」と、多摩川の対岸の川崎市の「等々力緑地」とは、江戸時代は同じ「等々力村」でした。

つまり、「等々力村」は、江戸時代には一つの村でした。

しかし、多摩川の氾濫により、村の中央を流れる様に流路が変わり、村が分断されました。



(テレビ東京「モヤモヤさまぁ〜ず2」から)



(テレビ東京「モヤモヤさまぁ〜ず2」から)