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20:追分




(写真は「分去れ」:左が中山道、右が善光寺へ向う北国街道)

沓掛宿と追分宿の間にある仮宿(間の宿)を抜けると、中山道は、交通量の多い国道に合流します。

暫く歩くと、国道の両側に、下の写真の「追分の一里塚跡」があり、この辺りは、もうこれから向かう追分宿の外れみたいです。



追分宿は、軽井沢、沓掛と共に、浅間三宿の一つとして繁盛していました。

善光寺へ向う北国街道が、追分宿で中山道から分岐していたことから、”追分”宿と呼ばれたそうです。

追分の一里塚跡の先を、国道から分かれて、右手の旧道の細い道に入っていったところに、
追分宿郷土館がありました。
(400円)



旅籠を模して建てたという出桁(だしげた)造りの郷土館には、追分宿の茶屋の内部を復元して、当時使われていた品々が展示されています。
(撮影禁止)

また、”追分節・発祥の地”でもある追分宿の
「追分節」を、ここで聴くことが出来ます。





碓氷峠の 権現様は わしが為には 守り神♪

 ♪浅間山さん なぜ焼けしやんす 裾に三宿を 持ちながら♪

当時の追分節は、現在でいうとミリオンセラーにあたり、ここ追分宿の追分節が、江戸の町でも流行っていたそうです。



一に追分 二に軽井沢 三に坂本 ままならぬ♪

 ♪追分の枡形の茶屋で ほろりと泣いたが 忘らりよか♪

有名な「江差追分」や「越後追分」は、ここの追分節が、歌詞や節を変えて伝わったのだそうです。

この郷土館の隣に、小さくてみすぼらしい感じの「浅間(あさま)神社」があり、神社の前に、芭蕉の句碑が立っています。





”吹き飛す 石も浅間の 野分かな”

(浅間山からの強い風は、石も吹き飛ばす様な激しさだ。)

浅間神社を出て暫く歩くと、右手に堀辰雄文学記念館があり、その向いに、なかなか雰囲気のある
脇本陣「油屋」旅館があります。





油屋旅館の先に、下の写真の復元された高札場があります。



高札とは、法度、掟書を掲げた板札で、庶民の間に法令を徹底させるためのものです。
昭和58年の復元だそうです。





(蔦屋)




この辺りは、静かな家並みが続き、かって堀辰雄や立原道造らが住んでいたというだけあって文学の雰囲気が漂っています。

堀辰雄文学記念館の先にある泉洞寺には、下の写真の
堀辰雄の愛した半伽思惟像がありました。





更に進むと、中山道は、上の写真の様に、再び国道と合流しますが、その合流点の直前に、下の写真の
「枡形(ますがた)の茶屋」があります。



枡形というのは、宿場の防衛のために、見通しがきかない様に、道を直角に曲げ、石垣状の土手で囲ったものでしたが、この枡形の土手にあったのが茶屋「つがる屋」です。






追分宿は、北国街道と中山道の分岐点に位置する交通の要衝でした。




北国街道と中山道の分岐点にあるのが、写真の
「追分の分去れ(わかされ)」で、石灯籠や石仏などの江戸時代のままの7つの石造物が立っています。



上の写真の
左手が京都方面へ向かう中山道右手が越後方面の
善光寺へ向う北国街道
です。




「追分の分去れ(わかされ)」を過ぎると、中山道は、林と
畑の中を進み、延々と、単調な緩やかな下り坂が続きます。









碓氷峠越えで、かなりの高度を登った分、峠を越えたら、この様に、延々と坂を下ってゆくのでしょうね。



英泉の追分の浮世絵も、この寂しくて延々と続く下り坂の辺りで、描かれたらしいです。



浅間山が真近に迫っていて、その裾野が画面いっぱいに広がっています。



一番手前は、馬子が3個の荷物を積んだ馬を引いています。

その前を、刀を差した2人の武士が、人足に長持ちを担がせて、次の宿の小田井へ向かっています。

延々と続く下り坂の街道から、少し右手の小道を入ると、民家の中に下の写真の
「御代田(みよた)の一里塚」がありました。



ここの一里塚は、見事な枝垂れ桜ですが、桜の一里塚というのは非常に珍しいです。


下り坂の街道を、しなの鉄道・御代田駅まで来たところで日没です。





御代田駅からしなの鉄道で軽井沢駅まで戻り、駅前のビジネスホテル泊まります。

明日は、再び、御代田駅から歩き始めます。

追分宿から小田井宿までは、約5キロです。


19:沓掛へ

21:小田井へ

          
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