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『八月の声を運ぶ男』['26]
監督 柴田岳志

 熱線被曝時の記憶を語れる人々が殆どいなくなりつつある状況を狙ったかのように我が国における核保有を持ち込みであれ、共有であれ、公然化しようと画策する政治家が臆面もなく公言するようになった現在なればこそ、ひときわ意義深い作品だと思った。

 折しも僕自身の半世紀前の日記や残してある手紙や詩を紐解いて嘗ての出来事への回想を重ねていたりしたところだったから、余計に響いてきたようなところがあるかもしれない。記憶と記録の齟齬、記録に残されている言葉そのものは紛れもない事実だが、そこに綴られている事柄や心境がその言葉通りの客観的事実だったかの保証は必ずしもされてはいないというのが、人の残す日記や手記、手紙、証言の有り体であるという気がする。そのことは、例えば、人が自分のことを友人知人の話として語ったりするのと同様に、見聞したことを自分の話として語ったり、あるいは、ドキュメンタリー映画でカメラを向けられた人が無意識にしてしまう演技と同じようなものがマイクを向けられた証言に起こるように、当然ながら起きても何らおかしくはない出来事だ。

 そのうえで最も大事なことは、それが言葉通りの事実かということよりも、そこに真実が宿っているかどうかのほうだという気がする。本作の作り手にはそのような意識が強くあり、そのことに共感を覚えた。身寄りなき孤独な九野和平(阿部サダヲ)における最も切実なる真実は、自分の声に真摯に耳を傾けてくれる他者の存在だったのだろう。元テレビ局員のジャーナリストである辻原保(本木雅弘)に語った彼の話のどこまでが騙りでどこまでが事実かは、十歳で熱線被曝をして二十七年が経ち、医療施設を転々とした後に社会復帰して就労を果たしながらも、症状悪化により生活保護に頼る他なくなって今に至っている九野がずっと苦悩を抱えてきた人生のなか、もはや当人でさえ、おそらくは判別できなくなっているに違いない気がした。

 こういったことに対して、嘘か真か、黒か白かといった単純な区分けしか発想できないような貧弱な人間観、想像力しか持ち合わせない人々が本作を観て如何ほどのものを読み取れるのか心許ない限りではあるが、その端緒にはなり得る表現が真摯なる形で本作には込められている気がした。そのうえでの九野と辻原の配役は見事であり、二人の役者もよく応えていたように思う。

 成人した九野が戦後間もない態の医療施設で、被災者の“声なき声”というか“顔なき声”を懸命に聴き取っている姿は、実際にはあり得ない図ながら、観ていて込み上げてくるものがあった。かの図は、九野のなかにあるものなのか、辻原のなかに生じたものなのか、はたまた作り手のなかに湧いたものとして提示されていたのか、いずれとも映ってくる設えに唸らされた。“寄り添う”という言葉は、かようなスタンスにこそ相応しいものだと思った。

 ついでのようにして目を惹いたのが、辻原のテレビ局時代の元同僚(田中哲司)がコンサル業の旨味について語り、辻原を共同経営に誘う場面だった。戦後二十七年ということだったから1972年のことだ。1982年に大前研一の著した『ストラテジック・マインド 変革期の企業戦略新潮文庫>の和訳が僕の書棚にもあるが、マッキンゼーやボストン コンサルティング グループ(BCG)などの「戦略コンサル」が脚光を浴びた1990年代よりも二十年先駆けていた。今世紀になってICTの進化とともに憧れの職業として人気が急上昇しながらも、今やAIの出現によって業界自体が脅かされ始めているように感じられる時代認識というものを作り手が持っているに違いないという気がしたからだ。対置されているのが、辻原のようなジャーナリストが取り組んでいた、アナログの極みのような足を運んで面と向かって録音作業を重ねる営みで、元同僚のように稼げることなど決してない仕事だったように思う。どちらの仕事に、より価値と意義があるのかは、明白のような気がした。
by ヤマ

'26. 8.26. TOHOシネマズ6



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