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『赤毛』['69]
『大誘拐 RAINBOW KIDS』['91]
監督 岡本喜八

 ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか、で始まり終える『赤毛』については、そのタイトルにすら然したる認識もないまま過ごしてきていたが、前作肉弾['68]で演じていた、一升瓶の酒をラッパ飲みしている生き残り兵のシニカルさを彷彿させる、用心棒稼業に零落した元旗本の一ノ瀬半蔵(高橋悦史)が看破していたように葵が菊に変わるだけで何ら「御一新」ではなかろうはずの“血で血を洗う権力闘争”とは異なる非暴力闘争を描いて圧巻の作品だった。

 折しも非暴力という「武器」を謳ったジーン・シャープの独裁体制から民主主義へ』についてのテキストを読んだばかりだったので、赤報隊隊長の相楽総三(田村高廣)の赤毛を借りて、まさに非暴力という武器で農民の借金や女郎の苦界からの解放を果たした官軍先兵の源権三郎こと新田の権三(三船敏郎)を活写して七人の侍['54]の菊千代を想起させ凌駕する人物造形を果たしていたことに、恐れ入った。

 赤報隊のことすらろくに知らないから、権三のモデルになった人物が実在したのか否かは知らないけれども、毀誉褒貶ある赤報隊同様に諸説ある謎めいた「ええじゃないか」が実在したものであることは確かだ。その「ええじゃないか」を権三が討たれた後に扇動し始める女郎のお春(乙羽信子)が踊りながら歌っていた最後のには紙を貼れ、破れたらまた貼れ、ええじゃないかが、ひょんな行き掛りから自分に付いてきて片腕となった元掏摸稼業の錦切れ集めの三次(寺田農)の知らせを受けて覚悟を決めた権三に権よ、生きてりゃまたできる、何べんでもできるだよと説いていた母(望月優子)の言葉に重なってきた。

 コメントを寄せてくれた映友によれば、この作品、一度ビデオ化が見送られたのだそうだ。朝日新聞阪神支局の小尻記者が殺害された襲撃事件の犯人が「赤報隊」を名乗っていたためで、その後、1991年にリリースされた際には嬉しさもひとしおだったとのこと。ええじゃないかの乱舞であれ、権三の赤毛を利用した折衝で解放した人々を束ねた示威行動であれ、非暴力闘争の粋を描いていた本作と言語道断のテロ殺人とは真逆のものなのに、赤報隊で一括りしてしまう浅はかさが実に嘆かわしい。

 浅慮短慮という点では、女郎に堕ちた負い目から権三の言葉を素直に信じられずに、二足の草鞋を履く駒ヶ根ノ虎三(花沢徳衛)の口車に乗って権三を窮地に追いやりながら、自分には疑念をついぞ向けない権三の純心に打たれ、叶うわけもない権三の助命嘆願を試みて殺されたトミ(岩下志麻)が、母の言葉に考え直し、生き延びて捲土重来を期そうとしていた権三を結果的に巻き添えにしていたことが印象深い。赤報隊を従えていた“白毛”の荒垣弥一郎(神山繁)の“年貢半減を唆しながら反古にして相楽に罪を着せる二枚舌”のタチの悪さは、秘書や会計責任者に責を負わせて恬として恥じない当世の政治屋たちにも通じるもので、恥も外聞もなく右顧左眄し、強きに媚びて弱気を挫く代官神尾(伊藤雄之助)よりも悪質なのだが、トミの無自覚な罪深さもまた看過できないことのような気がした。合評会では、そういった文脈のなかでトミをどう観たのか、メンバーの意見を伺ってみたいと思った。


 憂歌団の出直しブルースで始まった『大誘拐 RAINBOW KIDS』は、公開時分にあたご劇場で観て以来の再見だが、『赤毛』と続けて観ると二十二年の開きのある両作において徹底した非暴力主義が謳われていることに改めて感心した。肉弾』の「あいつ」の精神が貫かれているように感じる。

 むろん誘拐・監禁そのものが暴力だから、非暴力と言っても狭義の暴力なのだが、“虹の童子”三人組【雷太郎:健次(風間トオル)、風太郎:正義(内田勝康)、雨太郎:平太(西川弘志)】を手玉に取って、もはや監禁どころか軟禁とさえ言えそうにない主導権を握り、結果的にはまんまと多額の相続税の脱税に成功したとも言える紀州の山林王たる柳川とし子(北林谷栄)の人物造形が圧巻だった。あまつさえその飄々たるスケール感のもたらす薫陶によって若者三人組を改心させる天晴れ刀自ぶりだった。

 破格の人物を造形し破天荒な物語のなかで描いているのは『赤毛』と同じで、斜に構えたというよりも肩の力を抜いたユーモラスな観察者的眼差しが作り手の個性として息づいている感じが、岡本喜八作品を僕が好む理由だと改めて気づいたような気がしている。赤毛の権三にしても、とし子刀自にしても、人を食ったようなオトボケぶりが愉快だ。

 大誘拐などという暴力行為によって攻め込まれた際に最も有効な対処法は、防衛力などという暴力で対抗することではなく、攻め込まれたように見せながら、相手の隙や落ち度を突いて主導権を奪い返すことだとつくづく思う。とし子刀自の採った戦略において重要な部分を占めていたのが「公開」であることが、中見教授の説いていたジーン・シャープの戦略論と通じていて興味深い。刀自を恩人だとして捜査に当たる和歌山県警本部長の井狩大五郎(緒形拳)がよく、彼が公開放送で犯人たちに求めた第一に共通の土俵を作りなさい。話し合いはそれから。次に安全かつ快適な保護を行ない、健在であることの証拠を示すこと。というのは、国際紛争においても尊重されるべき今なお普遍的な要点だと思った。そして、北林谷栄と五分に渡り合えるのは他にはいなさそうな樹木希林の演じる元女中頭たる中村くらのオトボケ感が可笑しかった。

 奇しくも数日前に、本作の舞台となった龍神村とともに合併して田辺市に組み込まれた本宮町にある湯の峰温泉に龍神バスに乗って行ってきたばかりだから、三十五年前の奥熊野や南紀の風情を興味深く観ることもできた。すると映友から「本作の樹木希林が着ているのがセーラー服にモンペというのが意味深ですね。彼女が演じたくーちゃんはきっと、戦争中は「軍国少女」だったのでしょう。何十年経ってもその姿のままでいるというのは、彼女なりに何か思うところがあるからなんでしょうね。」とのコメントが寄せられた。セーラー服にモンペとは気づいていなかったので確かめると、最初に登場した奈良県紀宮村での割烹着の下、言われてみれば、それらしき袖襟だった。元軍国少女には意表を突かれたが、なるほど喜八作品らしい気もする。誰のアイデアだったのだろう。岡本監督よりも樹木希林のような気がした。彼女からの提案を監督が面白がって採用したのではなかろうか。


 合評会では、四人全員が両作とも観応えありと高評価。僕がかねてより岡本喜八作品を好んでいる理由が初めて解ったような気がすると教えてくれた女性メンバーは『赤毛』を激賞していた。けっこう当たり外れが大きいように思う喜八コメディタッチも、今回の両作では全員に受けており、岡本作品のなかでも『大誘拐』は群を抜いているという意見もあった。総じて皆が“喜八的反体制”と“コミカルさ”を高く買っているようだったが、今回のカップリングによって僕にとりわけ響いてきたのは、非暴力主義の部分だった。

 トミについて訊ねてみると、敢えて松竹から招聘して、いわゆる喜八組からは異色の配役であるからには企図するところがあったのだろうとしながらも、確たる意見がなかったなか、弱く哀しい悲劇のヒロインとして申し分なかったという率直な意見があった。そこで、そのように観るのが最も標準的なのだろうが、トミの無自覚な罪深さは、権力者側における荒垣弥一郎の二枚舌と卑怯な付け回しにも匹敵する、被支配者側におけるタチの悪さのように感じたと言うと、それはトミに対して厳し過ぎると抗弁された。

 併せて、半蔵にしろ権三にしろ女を追って命を落とす姿をダンディズムとして支持していたことには意表を突かれた。そういうのは独り善がりなマッチョイズムとして普段は否定しがちなのに、本作では逆に映ってきているようで興味深い。喜八マジックとでも言うべきかと感心した。トミを演じた岩下志麻以上に支持を集めていたのが、お春を演じた乙羽信子で、さすが宝塚出身だけのことはあると「ええじゃないか」と踊り始める場面が絶賛されていた。

 どちらの作品をより支持するかとの問い掛けに対しては、三対一で『赤毛』に軍配が挙がったが、公開時から高く評価された『大誘拐』に比して芳しくなかったらしき『赤毛』を断然、としたのは一名で、二名はどちらを採るかと言われれば、との僅差での選択だった。他方で、『大誘拐』のほうを選んだ一名のほうも断然、としていたのが面白い。
by ヤマ

'25. 7. 7. DVD観賞
'25. 7. 8. DVD観賞



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