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『フロントライン』['25] | |||||
監督 関根光才 | |||||
DMATの対策本部指揮官の結城(小栗旬)が「人道的正義」という言葉を根拠として使ったのは、ルールに拘る検疫官に対してだったように思うが、心にズンと響いてきた。人間が社会生活を営むようになるに従い、その社会の維持のために複雑なルールと共に様々な立場の権限と責任を設けるようになる。それはそれで必要なことだからこそ、ルールや立場の役割に基づいて人は行動するようになるわけだが、それらのルールや役割を超えた普遍的な視座を、そのことによって見失う人が余りにも多いということを日頃痛感していたからだろう。 ほんの五年前に実際に起こった強烈な事案を基に、実にさまざまなことを触発してくれる大した作品だったように思う。感染症専門医の六合承太郎(吹越満)のモデルになった岩田健太郎教授によるユーチューブ動画は、僕も当時、実際に観た覚えがあるだけに余計に生々しかった。切り取った事象の事実性が全体事象の真実を阻害することは、ままあることで、わずか2時間で現場を確認して読み取った事実よりも、その何十倍何百倍もの時間を掛けて重ねた取材によって構築したフィクションのほうが、事象の真実を捉え得るものだということは、長年数多の映画や小説に触れてきた者の率直な思いだが、それにしても、本作において造形されていたフロントラインで使命感を持って頑張る人々の人物像の素晴らしさは、出色のものだった気がする。 医療従事者も豪華客船のクルーも役人もメディアの記者も、クローズアップされていたフロントラインの住人に怠惰で無責任な者は一人もいなかったように思う。対して、顔の見えない生活者や傍観者、貧弱な想像力のなかで賢しらぶった放言をする者、その従事する業務の影響力の大きさに比して、まるで普遍的視座を失い、目先の勘定しか出来なくなっている者らとの対照が利いていた。そして、フロントラインにいる人たちが何から気力を得ているのかを明確に浮き彫りにしていたところに強い感銘を受けた。それは同時に、何に気力を奪われていくかをも示している。 DMAT(Disaster Medical Assistance Team)の現場指揮官の仙頭(窪塚洋介)と本部指揮官の結城が築き上げている信頼関係、厚生労働省の官僚である立松(松坂桃李)と結城が現場で触発し合うことによって引き出し重ねていくパートナーシップのかっこよさと頼もしさに痺れた。さすがは『かくしごと』の監督の手になる作品だと思った。 すると、高校の新聞部の先輩が「これはいい映画です。ぜひ、観てください。私は医療職ではないですが、近くにいる人間として、感じます。感染症対応は大変です。世間のみなさま、どうか、変な風評、差別はやめていただきたい。第二の加害者とならないようにお願いします。感染症対応で多忙を極める戦場の戦力が減ってしまいます。」とのコメントを寄せてくれた。きちんとした批判の提示は、とても大事なことだが、悪口や見下し、不平不満という形でしか反応できない人が余りにも多過ぎると僕も思っている。そういう表出は恥ずかしい事、堪えるべき事であった価値観が失われてクレーマー社会化し、更には寄って集って叩いて騒ぐインプレ稼ぎが横行するようになってしまった。俗に言う“失われた三十年”のなかでも最も罪深い喪失は、そこにあるように感じている。その意味からも、当節、非常に意義深い作品だったように思う。“人道的正義”、とても大切で力のある言葉だ。 | |||||
by ヤマ '25. 6.29. TOHOシネマズ3 | |||||
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