香流橋の馬頭観音
猪子石の「香流橋」の南東に、二体並んで安置されている。
香流橋は、天明6年(1786)に初めて架けられて以来、「土橋」と呼ばれてきた。
木造の橋に土を載せた橋で、川に直角に架けられていた為、勢いよく橋を渡ろうとした大八車は、ななめの道を曲がりきれず、水田に転落する事故が多発した。
昭和29年に脚部が鉄筋コンクリート製になり、昭和44年に片側2車線の現在の橋になった。
「土橋」の呼称は、今でも地元の人の間で使われている。
上左写真の左側の新しい馬頭観音が、「身替(みがわり)観音」である。裏に「平成十年三月」と彫られている。
上左写真の右側の、土橋の歴史と年代が重なる馬頭観音は、3度行方不明となった。
大正14年7月8日の大洪水で、土砂とともに流されたが、道路や川の復旧工事が始まった3日後に、土砂の中から発見された。
2度目は、昭和8年の豪雨で、周りの3本の杉の木とともに流された。田畑の復旧工事で、比較的早く発見された。
3度目は、昭和20年3月24日の空襲の時で、土橋付近に落下した爆弾によって馬頭観音も吹き飛ばされた。この時は、いくら探しても発見できず、その為昭和22年に身替観音が安置された。
昭和44年3月、区画整理事業のパイプ打ち込み作業中に、3度目の発見がなされ、かくて二体並んで祀られることになった。
土橋の馬頭観音は、猪子石の村境でもあった。戦中、出征兵士は、ここまで見送られた。
馬頭観音は、もともとは馬が牧草を食い尽くすように、人間の煩悩を消し去って欲しいという信仰からきている。
それがいつのまにか馬の守護神として崇められ、交通安全のために街道に、あるいは馬が急死した路傍などに設置されたりするようになった。
月心寺の馬頭観音
月心寺墓地入口西にある馬頭観音は、山口街道から持ってきたもので、横に「馬持一同安全」と彫られている。
『猪高村物語』に、
「以前引山の街道沿いにありました。あるとき激しい雷雨があり、引山で落雷のために馬が死にました。そこでこの石像を立てたのだそうです」と、その由来が書かれている。
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