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日本:2011年3月11日(金)午後2時46分 
東北地方太平洋沖地震発生

この震災は後に 東日本大震災 と名付けられました 

この震災で亡くなられた約2万人のかたがたの
 御冥福を心よりお祈りいたします

                       マグニチュード9.0 宮城県栗原市震度7     

東京(本郷、上野)被災記録

なぜ宮城県栗原市震度7と上に記録したかを、以下少々おはなしさせてください。

この地が、前橋市出身の岩崎兄妹と、
さいたま出身の駒崎が、出会った地だからです。
昭和18年ごろ、太平洋戦争のさなかのことです。
現在の栗原市は当時栗原郡、出会ったのは鴬沢町南郷荒町細倉です

美しい栗駒山を望む鴬沢町の三菱細倉鉱山は、古来より鉛亜鉛の産出地で、
当時軍需産業として、重要な役割を果たしておりました。
鉱脈が見つけられたこと、古来から盛んに採掘が繰り返されてきたこと、

「がれきの破片の寄せ集まったような日本列島」(寺田寅彦随筆より)、という見方をもってすれば
まさに、列島の瓦礫のふちがきらりと光る顔を出し、
千年以上も光るそれを追い求め、タヌキ掘りを繰り返してきた地だと思います。
山の神に祈るとはいえ、
無謀にも活断層に切り込んで、採掘を続けてきた地ゆえ
震度7は、山の神の報復かと思うのです。

いっぽう、宮城三陸沖の大津波は、
海の神のしわざでしょうか?
いや、海の中の、大きなガレキの、
つまりは、山の神のしわざではないのでしょうか。
山の神の大暴れに、海が押し上げられ、掻き回され、
悲鳴をあげて逃げ惑ったのだと、
栗原生まれの私は、そう感じているのです。  了


2011年3月11日東京都文京区の勤務先で震度5強の地震に遭い、帰宅難民となった際の記録です。
写真はすべて携帯電話によるものです。なお、主なる被写体である勤務先Y氏には御諒解を得て発行 
しております。        


大地震発生

2011年3月11日(金)午後2時46分
震度:東京都区内震度5

東京(本郷、上野)被災/帰宅難民の記録
   
C:\Users\MISA\Desktop\110311_1452~01.jpg
(110311 14:52本郷3丁目)

これは大きいぞ!!

大きい横ゆれと、

どどどどという激しい縦ゆれが 長い!

先日のクライストチャーチ大地震 ビル倒壊映像が頭をよぎる

「ドアをあけて!」とY氏

そのままオフィスを出て、

非常階段からビルの外へ、

2階ではオフィスドアを開ける形で女性がふたり

うずくまるようにしていた

声をかけたが「大丈夫です」と笑顔で返してきた

本郷通りの歩道

百円ショップの棚から商品が少し落ちていた

  

                     

なぜ?11日

 (20110311 14:53本郷3丁目本郷通歩道にて)

 

2011年から職場は金曜日が定休日に

Y氏は本来なら自宅で趣味の謡でもさらっていたはず

多忙な参加者の都合の付く日は

3月11日 この日しかなかった

予約の取りづらい銀座T会館も この日はなぜか空いていた 

息子一家がスイスから帰国する日なのに と調整役のKはすでに嘆いていた…

こうして3月11日金曜日 朝9時半会場到着

9時55分全員集合 会議は予定時間前に始まった

終了は ぴったり正午 のはずが3分程超過

会館の会場係がロビーで腰かけて待機していた

みな なぜか焦り急いでいた

 

〈その後のY氏の足取り〉

銀座松屋デパートで理事長らと蕎麦ランチ と会議のまとめ

神田明神横の天野屋で 納豆購入(ホワイトデーのお返しに)

午後2時30分 本郷三丁目のオフィスに戻る

Y氏は すでに戻っていたKに名品納豆を渡し

休みのNの納豆は 冷蔵庫に入れておくよう頼んだ

地震まであと15分…    


本郷通り太い鉄パイプ頼りになるか?

C:\Users\MISA\Desktop\110311_1453~01.jpg

(20110311 14:53本郷3丁目)

 

本郷通をまたぐ形の二列鉄パイプ

標識用かダクトか不明

ビルが倒れこんで来ても支えてくれるかも

その本能的期待からか

このあたりにひとが寄る

ビル倒壊を恐れて

大勢の人が外に飛び出してきたが

はたして外の方が安全なのか

ビルの外壁や窓ガラスが落ちてきて当たって大けが

ということもおおいに考えられる

ここでKが ガスの元栓を切り忘れた と言い出し

Y氏の反対を退け 建物の中に入って行った

忘れっぽくなったのか 地震がおさまったのか 

普段通りにエレベーターに乗って

オフィスに戻り

ガスの元栓を閉めて

Kは 普通にエレベーターで戻ってきた

ものの話としては これが命取り ということになるのだが…


百円ショップの素早い対応

C:\Users\MISA\Desktop\110311_1453~02.jpg

20110311 14:53 本郷3丁目 )

すかさず復旧した

百円ショップ

ラジオありますか

と聞いたが

すかさず 

ありません と答えた

丁度一年前 財政難のため

すぐ近くのビルから こちらに越してきた

 その際 職場のテレビは

Y氏が 道を流していた引き取り業者を連れて来て

二千円とリモコンをつけて 持って行ってもらった

それ以来

オフィスで危機情報を知るには パソコンか携帯電話しかなくなった

大地震の翌週 

Y氏は

ソニーの携帯ラジオを家から持って来て

大音量で

地震情報を流し続けた

 


危うし! K氏

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20110311 14:56 協会オフィス内部)

揺れがおさまりオフィスに戻ると

K氏の席周辺が

こんなふうに…

深川製つぼも

シャガールChagallも ぎりぎりだがキリチQuilitiも

誇れる?資産?はみな無事だった

観音開きの書庫とびら

書類を詰め込みすぎた机の引き出し

などが開いていた

K氏が 「ちょうど南北に揺れたから」 と解説

机上のティーカップが 書類に押されて倒れていた

フォーションなら格好がつくが

机に飲ませたのは  日東紅茶DAY&DAY

 

<震度6岩手県滝沢村の推理作家Оの話>

座敷の「本棚は倒れなかった」

 ただ「真ん中の方へ歩いて」行っていた!

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揺れ続く… 早めの帰宅へ…

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(20110311 15:17本郷通り中央分離帯)

地震発生から約30分経過

これだけの人がこの位置にいるのは この道始まって以来だろう

1922年9月1日午前11時59分 関東大震災があった

みどりの看板りそな銀行の向こうを後楽園方向に通る本郷大横町通りには 

当時の商店街の人々が このように飛び出してきたのだろう 

2011年3月11日15時過ぎ また大きな揺れがきた 震源地が南下し寄ってきている

 

本郷通りの中央分離帯は このあたりグリーンで余裕があるが 入り込めない

Y氏が立っているのは壱岐坂方向上り線車道

ときおり猛スピードで走る乗用車あり こういうのが危ない

こんなときに 車に引かれたら どうしてくれる

〈本郷消防通りのさとう歯科医師の話〉

一階はたいしてゆれなかったが

上階の自宅は結構揺れたもよう

消防通り中央部分に

やはり 人が大勢出ていた

本郷消防署の救急車だって 消防通りをすいすい行けなかった


揺れが続く 恐怖と不安

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本郷の地場産業は、東京大学と医薬関係

このあたりも

医院や薬局が多い

仕事中で白衣を着た人たちが

そのまま外に出てきている

日本信販ニコスの外あたりには

揃いの防災服 リュックに縦長ヘルメット

これもみな白揃えなので 

大きなシロアリ軍団

 

Y氏はフォーマルな会議主催のため

サラリーマンの冬の正装

日頃 顔の艶がよいY氏も

さすがに蒼白

というより

土気色 

右奥御婦人が ムンクの叫び感をもたらしている

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湯島天神下 切通しの途中

C:\Users\MISA\Desktop\110311_1540~01.jpg

20110311 15:40 湯島天神下 )

はからずして 同県民のY氏とKは

 帰りの支度をして

              本郷交差点から御徒町駅に向かって 連れ立って歩き始める

地震発生から 一時間近くが経過

JR地下鉄すべて交通機関は止まっているようだが

路線バスはなぜかまだ運行していた

なんでもいいから動いているものに

乗ってしまったほうがいい

乗り継げば 埼玉県まで行けるのでは と無茶なことをKが主張 

ルイヴィトンのバッグ 貰ったばかりの天野屋の手提袋をしっかり持っている

御徒町駅まで15分

歩いて様子を見た方が無難 と

慣れた通勤路をさっさと歩く 健脚のY氏

時々家族へ連絡を送るが 不通


湯島天神下にお坊さんの集団

吉と出るか凶と出るか

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20110311 15:41 湯島天神下切通し)

学問の神で有名な湯島天神の下で

お坊さんが名刺交換したり談笑したりしているように見えるが、

これはありえない情景

ここは寺院ではなく 神社の下

いったいどういうことでここに大勢こられたのか不詳だが

入学試験や卒業式のシーズンでもある

3月11日

池の端のセンターあたりで 行事でもあったのか

こんなときにお坊さんに取材するのは不謹慎

やはり帰りの足を心配しているだろう

修行の身とはいえ 剃髪に薄いきもので 寒くはないのか

 

切通し というのは 多分 活断層ということではないか

江戸城の鬼門方角であるここに 守りの装置ができている

切通しの上にそびえる 湯島天神

 開通の目途がまったく立たないC:\Users\MISA\Desktop\110311_1552~01.jpg

  

20110311 15:50 JR御徒町駅)

広小路から御徒町駅の高架がみえた

とたんにY氏が

やっぱり電車通ってないな といった

ホームが2階だから 地下鉄よりわかりやすい

すでに御徒町駅は 入場できなかった

構内のテレビに 大勢が見入っていた

初めてこの地震を 地図の上で見た

テロップでは 東日本すべての路線が停止していた

午後4時少し前

普通 会社は 終業時間が6時頃だ

3時半に帰宅を許可した会社でも

結果的には社員は 徒歩で帰る以外 帰宅はできなかった

何時間もかけて徒歩で帰ったNやHのような人もいたが

自分の決断で 明るいうちに動き始められた 恵まれた人たちだ

明日は土曜日 仕事をしながら開通を待とう と

結局小さなオフィスに お客を含め11人が泊まった という女性経営者

ストップをかけられた駅近くの顧客の家に泊めてもらったという女性外交員

駅横大手デパートのロビーで 
ダンボールを敷いて夜明かしした女性専門職                   
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         問題は まったく見透しが立たない ということ…

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20110311 15:52   御徒町駅)

このまま上野駅に行ってみましょう

上野のほうが

電車の選択肢が多い

ということで

線路高架手前のアメヤ横丁に入る

震源地東北方面への路線が中心の上野駅に すでに選択肢はなかったが 

まだそれはわかっていない

居並ぶ店は 営業とクローズトが半々くらい

どちらも店主らしき人たちが店と通路に体を泳がせている

右往左往ということか

一箇所人だかりがしている

全員男性

右手のパチンコ屋が 突然 

「四時開店」の派手なアナウンスとともに

ドアをオープンした

待ち構えていた男性たちがどっと入り口にむかった

一石三鳥をねらっているのか つまり

1.電車開通まで暇つぶし 2.すわるところ確保 3.ギャンブルでもうける

 

Yさん ここで さようなら 

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20110311 16:04 上野駅到着)

上野駅の前は人でいっぱいだった

構内も人でいっぱいだった

電車は一本も動いていなかった

ここでトイレに行っておこうと 大広場改札口の駅員に聞くと

改札の中に入っていいという

切符無しでそのまま中に入ると

トイレは改札のそとにあるといわれた

みどりの窓口左の通路を入ると 延々と人が並んでいた

男性側が20人ぐらい

女性側はその5倍は並んでいた

ここでKは Y氏に向かって

もしお互い見つからなくなったら

互いに探さないで 各自家に向かって帰りましょう 

とりあえず ここで さようなら

その後Kは 人ごみの多いところで 同様のセリフを 1~2度言った

後々Y氏は Kがこの冷たい言い方を 4~5回は言ったと主張した
         

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上野公園 西郷像へ上る階段

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20110311 16:35)

結局 はぐれもせず 迷子にもならず

構内の食品売場で

もう閉じるという大扉をすり抜けて

たけのこご飯の小さなパックを 2個手に入れた

外に出ると 階段に大勢の人たちが 思案顔でたむろしていた

冷たい石段に腰掛けている人たちもいた

階段上のレストランも クローズトの標識を目の前で出した

自動販売機で Y氏はミネラルウオーターの大きいボトルを

Kは暖かいロイヤルミルクティーの小さいボトルを購入

結果的に Y氏の大きいボトルが当たりだった

このあと あたりすべての自販機の飲み物が売り切れ 

翌日まで補給無しとなった

犬を連れた西郷隆盛の あまりにも有名なその像の 横にあるベンチに腰掛け

Y氏もKも黙りこくって 人の流れを見ていた 

気の毒に 修学旅行らしき学生の集団

戦略は高いところで 上野駅公園口へ移動

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20110311 17:36 東京文化会館ロビー避難所)

そのうち 風が冷たく吹き ベンチでは耐え難い寒さとなってきた

公園口まで行けば 電車開通の様子も見える

ということで

東京文化会館の入り口まで移動する

 

体格の良い外国人の集団が なにやら口々に話している

警備員ががっちり入り口に立ち

中をのぞこうとしても 切符はと 押し出される

外はどんどん寒くなる

しばらく入り口付近で幾分の暖房を感じながら時間を過ごす

入り口の張り紙に トイレは右のあっちとあり

どうせならそっちに行ってみようと移動したのが良かった

右側入り口の中はすんなり入ることが出来た

 

ロビーにあるそこここのテレビのまえは すでに場所を陣取った人たちが座り込み

立っている人たちが それを何重かに取り囲んで

みなテレビに見入っていた

あまりの地震のすごさと 交通機関の壊滅的不通に 

 うめき声が時々あがった

ほとんどの人が 帰宅するのは不可能と確信したようだった              
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東京文化会館 小ホール

C:\Users\MISA\Desktop\110311_1813~01.jpg

20110311 17:36 東京文化会館小ホール客席 避難所)

 

ロビーの一角から拍手があがった

 この会館が開放を決めたのだと

説明は聞こえなくとも 解った

もちろん小さいお子さんがいる方 高齢者 病人が優先だ

会館小ホールが開放されたとわかった

近くにいる親子連れの方に 

行ってみてはいかがですか と声を掛けたが

ここのほうが居易い 子供が安心するようなのでと答えた

居場所もなかったし 

Y氏がホールに行ってみようと言う

 ゆるいループをのぼり移動する

通路の座れる部分はすでに人がほとんどすわりこんでいる

ホールに入ると席はほぼ埋まっていたが

上のほう中側にぽつぽつと空席がまだあった

その後 通路まで横になる人がでてきたのだから

ぎりぎりで何とか席が確保できただけでも 幸運だった

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地震発生から約三時間経過

シャンデリアのもと 贅沢な不安

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20110311 17:36 東京文化会館小ホール客席 避難所)

余震が続き

そのたびに 天井から釣り下がる

角材の束のような縦長シャンデリアがゆれ

そのたびに皆が不安そうに見上げては ああーっと騒いだ

皆がかまえ ゆらゆらは 予想外だったり 予想以上だったりした

すでに地震第一報では 都心の九段会館で天井が落ち 

死者が出ているというものだったから

 

ステージ上に小さなテレビが置かれ

音響よく すみずみまで音声が流れつづけた

東京どこそこのだれだれさんが

宮城県気仙沼市の何々さんを探しておられます

無事ですか 連絡ください

 災害報道以外は 尋ね人が 延々とつづけられていた

まるでなにひとつ連絡方法がない 戦争直後の混乱のようだった

 

明け方四時半にまた大きなゆれがきた

震源地は長野県北部新潟中越

と聞き

地震がおさまらないで 範囲が広がっていることに

皆の不安が増大した

 

地震から津波 福島の原発放射能まで 

災害は不安以上の規模で 増大の一途を辿っていった

 

Kはこの席で 翌朝8時30分までの 約15時間を過ごすことになる

この間 携帯メールを約20通送信

夫、娘と無事の連絡がついたのが 11日19時前後 発生から約4時間

翌12日 朝6時半 

交通・地震・津波・原発まで情報を送ってくれていた同僚Nに 

電池が切れる寸前 とメール 

冷静で用心深いKは ここで携帯アンテナ2本を温存した

 

前列離れた席で Y氏は なんと翌日昼ごろまで

約18時間を過ごした

 

携帯電話やメールで 娘や妻と連絡が取れるまでに

周辺のだれよりも 時間がかかったため 

「もしや」とまわりが気を遣った

 

「直ぐに水をため お米五合たいて オムスビにしておけ」

「こういうときは むかしから すぐに女性たちに言っておくんです」 

とY氏は 連絡がとれた安堵から 皆に聞こえるようにいった

あらあら 奥様も大変ですね

まわりの皆もほっとした

震災直後からはじまった 計画停電騒ぎを見ると 

これも古来からの 被災時の知恵といえる

 

Kは 隣席の就職試験中の青年カップルと 途切れなく 話し続けた

青年は物知りで メモを取り ここはミクシーで誘導された と教えてくれた

青年は Y氏を就職の伝になる どこかの偉い人かと思ったようだ 

帰宅難民

不思議なことに 夜が明けると

あたり一面床に寝ていた たぶん全身がつらかっただろう人たちから

潮が引くように 人が減り出し

まったく違う雰囲気をもった

勤め帰りの集団のような スーツ姿の人たちが

 朝の冷たい風を運びながら 入れ替わって 入場してきた

 

この日 都内で被災して帰宅難民となり

会社や避難所などで 一夜を過ごした人たちは

300万人と推測されている    (朝日新聞記事より20110409)

 

上野の東京文化会館 

場所 暖房 飲み水 乳児ミルク 朝のクラッカー 情報 支配人らしき人の巡回監督

会館の温情ある 全機能対応により

まったく恵まれた帰宅難民ケースであったことを

同会館への感謝とともに ここに付記したい

不忍池

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20110312 8:43 上野 不忍池)

 

ちょうどパンダが来日したばかりの上野動物園の下にある しのばずのいけ 

鏡のような水面 という表現があるが 

冷たい風のせいか やはり続く余震のせいか 水面は ざわめいていた  

20110410 KEIKO K 


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