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震災関連 思い出PHOTO-Ⅱ
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20210828 細倉小学校のジオラマが… 阿部先生からうれしい写真届く
細倉小学校でお世話になった
阿部昭先生から、
封書が届きました

昭和30年代を模したジオラマのお写真

コロナ禍で
それでなくとも栗原を訪問できない
教え子にかわり
ジオラマ特設会場を取材し
送ってきて下さったのです

先生ありがとうございました!!


細倉時代を 大事に想う
方たちの
熱意と努力となつかしさへ 共感です

ありがとう!ありがとう!

私5年生 正面左校舎2階の左端
私6年生 左側校舎2階の中側
でした
手前下小高いところに職員宿舎あり 
6年担任松澤よね先生のお宅
がありました
はあ~ なつかしい!


細倉の栗原鉄道時代の
駅と周辺の商店街
百分の一 ジオラマ
です

岩手県との県境も近い
栗駒山を臨む
県北西部
昭和30年
当時は石越駅から
この栗駒電鉄の電車で
二時間ほど西に入った
終着点 細倉鉱山
ここで鉛 亜鉛、銀等が
産出されなければ
平安時代から
それなりの田畑が整って
居たことでしょう
それにしても
立派な街並みです
近代産業遺産として
昭20~30年代を
髣髴させる社宅街並みは
映画
のロケ地にも使われました

筆者の細倉小学校時代の阿部先生が
2021年8月に取材撮影したものです

先生は80代後半と思われますが
大変なハイテク技術力と熱意で頭が下がります


なんと!細倉の写真が‥         2013年10月 

10月の初め母宛に分厚い封書が届きました。
細倉小学校の先生をしておられたあべ先生からです。
栗原市内に居住されている先生が、変わり果てた細倉
小学校や社宅跡の様子を、写真にして伝えてくださいました。
小学校の男先生方が下宿しておられた、病院奥の小高い住宅地は、道すら無くなってしまったそうです。病院の写真はⅠの後段に転載しましたが、愕然とするばかりです。
大勢のドクターがいた病院、木製椅子ながら3本立映画を一週間ごとに内容入れ替えて上映、時々ドサ回りの歌謡ショー演芸をやっていた劇場、その手前の駅も、消滅してしまったようです。
写真の如く、我が社宅も、跡形もありません。
奥地の小学校にもかかわらず、2千人を擁したという細倉小学校も、木造部分は全く残っていないようです。

細倉小学校 2千人の栄華

思い出Ⅰのほうで述べましたが、細倉鉱山は古来より銀に始まり、鉛・亜鉛を主とした鉱石を産出する鉱山でした。特に戦時には必須の金属であり、二千年近く、時の征服者の戦力に直接間接に関与してきたものと思われます。細倉當百という鉛の貨幣もありました。
敗戦後の昭和20~30年代でさえ、家族周辺も含めて、6千人~1万人以上の住民が三菱金属の社宅住まいをし、二千人規模の児童が常時細倉小学校に在籍したようです。

近代産業文化遺産‥木造社宅

後に通産省(経産省)の近代産業文化遺産に登録された、昭和レトロを醸す圧倒的な数の木造住宅群。柳沢社宅などの平屋四軒長屋から、佐野社宅の一部のように、二階建て社宅がコの字で所長宅を囲むところなど、さながら組織図をそのまま住宅群に落とした、身分あからさまな配置でした。

有名な映画『東京タワー』のなかで、鉱山の街や社宅として撮影に使われたのは多分佐野社宅辺りではと推測しますが、しっかり残った社宅を、商店街に改装したのが、あべ先生の撮された写真にあります。
東京タワーの冒頭のほうで、社宅内の情景が出てきますが、日本間、障子、廊下、引き戸、庭の様子が、私の住んでいた社宅を充分思い出させるものでした。

生家は社宅‥  合流点は細倉‥

また、原野の中を通るような廃路の手前右が所長社宅あたりなら、私の生まれた家は左側、終戦当時岩崎の伯父にあてがわれた社宅です。ひとり者なら贅沢すぎる広さですが、事情がありました。

祖母、母も伯父の赴任に従って、祖父の興した一代限りの薬局(屋号トモエ薬局といいました)、を隣の製本業 Y井さんに営業権を譲って、群馬県前橋から細倉に移ってまいりました。
疎開もあったのでしょう。隣の製本屋さんも、男性を皆戦争に取られ、商売にならず、優秀な長女が、薬剤師の国家資格をとっての転業でした。 

祖母が恐れた通り、前橋は戦災に遭い、すぐそこまで爆撃が来た、薬局は向かいの角に移設したという話を、後に祖母と中学生の私は現場で直接お聞きしました。

伯父の赴任に付いて移らなければ、前橋で戦災に遭っていたでしょう。また、細倉での父駒崎との出会もなかったわけで、振れ幅の大きい、戦争をかいくぐってきた人達、それぞれの奇縁というものがあり、戦後生まれの私にもそれは繋がっているのです。

細倉は、軍需産業を担っていたことで、父のように、兵隊に取られないほど体が弱い、丙種合格(?推定) という人の、吸収先でもあったわけです。
経済学部を出た父は、銀行に就職したかったようですから、それはそれで、本人としては人生曲げざるを得ない状況、だったのでしょう。腺病質だった父の初めての勤務地は美唄(びばい)、北海道です。次は宮城県栗原郡鴬沢町細倉に赴任してきたのです。
美唄で最初の課長は、大槻文平さんだった、とよく自慢していました。自慢の意味は解りませんでしたが、厳しい環境で自慢したくなる上司と出会えただけでも幸せでした。
 
何度も書いてきましたが、合流点は細倉にありました。
あべ先生も細倉に十一年間勤務され、やはり細倉で結婚されたということです。
地縁、血縁という縁に、学縁、職縁という縁が濃厚にからまり、やはり奇縁というものが細倉の地にはついてまわるように思えます。

父と母の結婚式は、昭和20年11月23日でしたが、鴬沢町で戦後初めての結婚式ということで、町中の人たちに祝福されたと、祖母が話していました。
祖母の話にはおまけがあって、父の長兄と次兄が、札幌と、久慈から駆けつけました。道が解らず、駅近くの「詰所」(守衛所か交番のようなもの)の入口に二人が勢いよく現われた時には、「すわ、進駐軍が来たか!」と、腰を抜かすほど驚かれた、とのことでした。父はヒョロッと痩せていましたが、他の兄妹はみな体格も威勢も良く、外国人のような容貌でしたから、敗戦直後の状況で、さぞ怖かったでしょう。

細倉‥十年後  二度目の赴任  

因みに、父の二度目の細倉赴任時に、私共一家にあてがわれた社宅は、あべ先生の写真にあるように、現在は既に2、3m幅の道が走るだけとなってしまっているようですが、佐野社宅というところです。傍らの深く広く穿たれた鉛川に並行した路の、左右に板塀のある木造社宅をずうっと20軒分ほど下って、鉛川に再び掛かる橋を渡らないで、そのまま進んだ右端にありました。

丁度四軒新設された一番手前の木造社宅で、広めの敷地は各々板塀で囲われており、粗末乍ら木の門が設けられていました。当時、釘と金槌を面白がった私が、門に釘を打ち付けて、父に、縁起が悪い直ぐ抜くように、と叱られたので、良く覚えております。

鉱山から出た石だらけの庭でしたが、そこそこの広さがあり、後に父がバラ造りに邁進したのは、植木の里のような生育地さいたまが、染みついていたからでしょう。掘りにくい庭を起こして、薔薇の栽培をはじめていました。ここで約三年を過ごしました。

上記、私の生まれた社宅は、T中丸細倉病院長の家になっていました。
T中丸家のご紹介で、あべ先生に勉強をみて頂くことになったのも、大変なご縁というものです。先生は、院長のご子息2人と私の勉強を見て下さいました。

母親達はその間、夫の所属部署繋がりで麻雀をやったり、転勤引越しの手伝いや、パーティーをしたりしていました。休日や、曜日を決めた夜間には夫婦で集まり、タマゴ麻雀をやったりしていました。教え子の目には入りませんでしたが、学校の先生も、どうやら社宅の人達と麻雀することが普通にあったようです。

小高いところに受信棟が立ち、山奥に白黒テレビがやっと導入された頃です。小さい頃から囲碁、将棋などに馴染み、学生時代に麻雀に染った人たちは、情報交換と暇つぶし、知的満足かスリルを求めるツールが極めて限られていたのでしょう。

我が家でも、ファイブダイス、トランプ特にツーテンジャックや、チェスに似た子供向けゲームを楽しんだり、ミニバーを造ってカクテルをシェークしたり、クラッシック音楽のBGMで、コーヒーをお客様にふるまったりしていました。半ば忘れかけておりましたが、あべ先生からのお手紙に、クラッシック音楽を聴きながらのコーヒーの美味しさ‥としたためていただき、思い出しました。父は「大正ロマン」という良い時代があった、という言い方をしておりました。母のような、質実剛健な軍国少女の時代の前、ということです。

鉱業所よりたしか西奥の小高い所に、細倉小学校は位置しておりました。
昼過ぎ、学校から社宅への帰り道を子供たちがたどる頃、鉱業所までの道は、丁度、二番手の鉱員さんたちが、それぞれの社宅から出て出勤の途上にありました。まさに近代二次産業ならではの、県境山奥らしからぬ賑わいでした。
鉱員の方々は三交代昼夜兼行の労働条件、狭い長屋暮らし、のべつ幕なしに働いて暇が全くない人たちも多勢いる中で、大正ロマンとか‥恵まれていることでしたが‥。

半年に一回ほど、母が仙台に買い物に行きました。細倉はお肉というものが、鳥か豚しかなく、仙台に行く人に、皆が牛肉を買ってきてくれるよう頼みました。会社の購買部というマーケットが、駅の近くの中心部にありましたが、コンビニやファミレスがあるわけでなく、とくに子供たちは、外食の機会は皆無でした。

先生に見ていただくための教材は、母が東京まで行って、日本橋の丸善かどこかで購入してきました。「自由自在」か、「チャート式」という評判の教材だったと思います。
その間何日か、お手伝いの女性に来ていただきました。私が嫌いな豚肉の脂を残して、父に厳しく叱られているのを見かねたのでしょう「だんなさんそんな無理に食べさせても栄養にならないから」と、助け舟を出してくださり、味方を得たようで、今でも思い出します。

下記は、インターネットで見つけた、細倉の歴史と写真探訪のサイトです。どうやら今から10年少し前に撮影したり、集めたりした写真のようですが、プロらしく大変綺麗に写っていて、撮っておいてくださって良かったなと思われます。なぜならば、その数年後には、震度7クラスの地震が3回程起き、近くの町では民宿が土砂に埋まって、大変な被害が出たのですから。
   
      ※亜哉さんの、宮城県街道を行くから、細倉鉱山 :  http://aya3photo.sakura.ne.jp/kaido-o-yuku_017.html

ヨネ先生 ありがとうございました  

50年以上年賀状を下さったヨネ先生の、最期の文面です。
ここ10年年賀状は私が出しておりましたが、ずうっとやりとりを続けていたのは、母はるこです。
先生から最後にいただいた文面には、リューマチを病み、仲良く付き合っています、との記載がありました。
それにしても、ヨネ先生は、大変な達筆を通されました。
6年生の教室後部に、この達筆で、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の全文を貼り出し、毎朝唱和させられました。

大震災を体験して、ヨネ先生をはじめとした先生方から、多くの教え子たちが、毎朝先生に唱和させられたこの詩が、どれだけ東北人の精神を支えてきたか、実感したことでしょう。
世界中に深い感動を与えた、東北人の粘り強い精神力、苦労を厭わない、誠実な姿勢。
そして、「リューマチと闘う」のではなく、「仲良く付き合っています」との先生の最後の近況の、慈愛に裏打ちされた表現に、改めて感動しました。

先生ほんとうにありがとうございました。

辛くてなかなか筆が進まず、二ヶ月ばかり周辺を書いておりました。
ヨネ先生は、産業衰退する細倉を離れ、石巻海岸部に移られていました。多くの先生が、海岸部に異動されたようです。先生方は、「細倉会」というOB会を創り、定期的に親交を続けていらしたとのことでした。

あべ先生からお便りを頂いたことで、念のためとヨネ先生の消息を問い合わせて、右のお写真まで送っていただきました。凛とした威厳のある、晩年のヨネ先生のお姿です。

ヨネ先生のお宅は、津波ですっかり流され、土台だけになってしまいましたが、なんと、ヨネ先生は、2011年3月11日の東日本大震災の直前、1月に亡くなられたとのことでした。
先ごろ、ご夫君のとしお先生が、同じ所に家を立て直されたとのことです。ヨネ先生のご逝去、直後の大震災で、思うところがあったのでしょうか。

ヨネ先生のご冥福をお祈り申し上げます。  合掌

本節末尾ですが、あべ先生に御礼申し上げます。
細倉の思い出を、半世紀以上にわたり、忘れずに大事にあたため、写真情報まで含めて伝えてくださったこと、そして半世紀も経つのに、私という教え子の拙い作文の添削ご指導まで、丁寧に見てくださったこと。ほんとうに、ほんとうにありがとうございます。

退職なさって年月が経つのに、最新機器類を使いこなし、日々ブログに俳句と解説を掲載していらっしゃるあべ先生。
まさに、我々がかく有りたいと希う、人生の達人です。
                       以上 

  
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