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震災から 再会へ 思い出 PHOTO


よく生きていた!

2011年の震災をきっかけに、半世紀ぶりに再会を果たしたのが、О上家の姉弟です。
お姉さんとは同じさいたまに住みながら、年賀状のやりとりだけで半世紀が過ぎてしまいました。震災がなければ、一生会えなかったかもしれないし、お世話になった小母さんが近くの霊園におられる事も知らないで、終わっていたかもしれません。

私より3歳年上のお兄さんが、定年後、宮城県の亘理というところに住んでいて、塀が一部壊れ、津波があと500メートルのところまで来たが、家も家族も皆無事だった。浦高の同窓会でその話をしに来ているのでと、家に連絡が入りました。時々お姉さんの家に来られていると言うことで、2度目の連絡で、やっと震災から1年半後の9月30日、これから台風が来るという日に、お姉さんの家にお訪ねし、再会を果たしました。その日はお兄さんの誕生日ということでしたが、駅近くのお寿司屋さんで逆に御馳走になってしまいました。

私が思わず「(お互いに)よく生きてました。」と言ったらしく、お兄さんは、思い出しては、ヒドイ、と苦笑していたようです。海水が入れば、上の写真も一生目に触れないで、思い出すこともあやふやで終わっていたかもしれません。

浦高に入ったばかりのお兄さんの、すらっと色白で、優しい笑顔がなかなかで、この写真を大事に持っていてくださったのもよく判ります。近頃こんな素直そうな青年はめったに見かけません。下を向いて笑っている小母さんと若かった母の間で、奥のほうの脚立にもたれてお兄さんが笑っています。つまり写真を撮ったのは私ということでしょうか。この写真の構成と小母さんの恥ずかしそうな笑顔は、よく憶えておりました。

なぜ?なぜ?

こんな小さな女の子が、なぜなぜ我が家に舞い込んできたのか。病気、進学、転勤など大人同士は諒解していても、姉弟は、半世紀経って謎解きに掛かるようでした。

S田さんのお兄さんとけい子ちゃんの関係は、そうか従兄妹だったわけね。S田さんのお兄さんはどうしているの。今は病気をし、別の従兄が消息を知るのみになっている。
S田のお兄さんは母親(私の伯母)を早く亡くし、世をスネているようなところがあって、おばあさんが苦労していた。愚痴を言いによくあちこちに出向いていた。そうそう、昔風のキセルで煙草を吸いながら話すので、私はおばあさんが来ると咽喉を痛くしていた。
S田のお兄さんはK大に入ったけれど、何か気に喰わなくてW大に入りなおした。その後はかたぎになって、国会事務局に勤めた。おばあさんのキセル、大学、国会そのあたりは、みな解っていた。

もう私たちのことは忘れているのでしょうね。いえいえそんなことはありません。上の女の子は、お姉さんと同じ名前です。漢字もまったく同じ。下の男の子は、お兄さんと上の一字が同じです。なんだ僕だけ半分か、とお兄さんがまぜかえす。相当にご姉弟に思い入れがあったんだと思います。

S田家が戦後一時浦和に居住し、その離れに北海道からきたО上家が一時住んだというのがお付き合いの起点だったのか。浦和は我が一族の拠点でもあり、別の伯父伯母の家もあった。
その後О上家が、下宿人を置けるような大きな家とアパートを建てて、近くに引越し、S田のお兄さんはそちらにもしばしばお邪魔しており、そのご縁で私の一時預かり先を、こちらなら安心と、紹介してくれたのだと思われます。

思えば、S田従兄は母親を早くに亡くし家に落ち着かず、О上姉弟は父親を亡くし、私は、父親の結核再発という大変な危機のなかにいたのです。
戦争で直接に亡くなる事はなかったけれど、健康も、仕事も安心なものは何一つなく、お姉さんは小学校を4回も転校し、お兄さんと私は、それぞれ3回も転校している。
転校するたびに先生の紹介が良くて、直ぐ委員に選ばれたと私が自慢すると、お兄さんは、学級委員に選ばれたといって、学校から泣いて帰ってきたことがあった、とお姉さんがいとおしそうに話し、そのころは気が小さかったんだね、と皆で笑った。

それにしても、写真に写るみなの表情は、じつに優しく朗らかで、平和ではありませんか。


佐田啓二

けい子ちゃんのお母さんは、すらっとして外国の血でも入っているの、と聞かれ、いえいえただの群馬県出です。どちらかというと父のほうが外人みたいといわれますが、これも代々埼玉県。
病気の父は、中学に入ったばかりの私に、毎日9時まで勉強するように、と葉書をよこしたきりで、一度もО上家に顔を見せたことがなかったのだ。

小母さんの若い時の写真を見たことがあり、とってもきれいで驚いた、と話を向けたら、それより亡くなった父は佐田啓二にそっくりな美男子で、とお兄さんが言い、お姉さんが奥からアルバムを持ってきてくれた。
あら、写真がだいぶ抜けている、とお姉さん。多分お兄さんが上のような写真を抜いていったのではないかしら。

これこれ、確かにつややかな黒髪がはらりと額にかかる佐田啓二に良く似た美男子でした。財閥系の北海道の会社で責任ある仕事をされていたが、癌で亡くなられた。煙草の吸いすぎですよ、と子供は厳しいが、優秀で、美男子はなによりのDNAでした。

3.11大震災 仙台で 東京で

2011年3月11日の大震災が、東日本の太平洋側プレートで起きたことは、今では誰でも解かっております。

しかし、私のいた東京でも、あまりにも酷いゆれ方だったので、建物から外に逃げ出して、大変な地震が東京で起きた。どうしよう、という思いでいっぱいでした。

発生から約一時間後、御徒町の駅のテレビで、すべての交通機関が止まっていることを知りました。同時に、九段会館の天井が落ち亡くなったかたがいること、都内のビルから煙があがっているとの報道、そこまでは東京が中心かと思い込んでおりました。ところがどうやら東北地方が震源地だという。東京がこれでは、それはもう、まったく想像もつかない大きな地震ということです。

宮城県仙台市まで、猛烈な津波が何キロも押し寄せてきたのは、多分その頃なのでしょう。御徒町から上野駅まで行き、公園口の東京文化会館に避難しました。

情報源はロビーにあちこちあるテレビです。そのテレビでは、宮城県仙台市で少なくとも二百人の遺体が流れ着いている。というような報道だったと記憶しています。地震発生から2~3時間後のことです。

仙台市では、いったん避難したけれども津波は来そうもないので、一時間後自宅に戻って津波にのまれたひとが大勢いたようです。

3.11 О上家のお姉さんは、外出中の赤羽駅ホームで地震に遭ったそうです。そのまま誘導された駅西口は、立錐の余地もないほど混雑していた。そのうち、池袋の駅まで移動するように誘導され、自宅の浦和とは逆方向に、それも3駅先まで歩いて移動したそうです。この日首都圏で帰宅難民となった人たちは、推定300万人と言われていますが、私も含め、自宅にたどり着いたのは、おおよそ次の日の昼前後となったようです。

馬上少年‥

宮城県と私のかかわりを、すこしだけここに書きとめようと思って、書き始めましたが、どんどん思いがひろがり、とめどなくなりそうです。

私は宮城県で生まれました。宮城県栗原郡(市)鴬沢町細倉です。三菱の佐野社宅、同じ社宅でも岩崎の伯父のほうが大きいということで、生まれたのは2階建社宅でした。
父たちは2階でマージャンをやりながら、未だ生まれないかと時々声をかけていたと、祖母は後々言ってました。付きっ切りで妊婦を励ます今の御婿さん方の気の遣い方とは、文字通り隔世の感があります。

このあたりの社宅は、木造の昭和レトロを醸す住宅群で、後に通産省(経済産業省)の近代産業文化遺産に指定されました。
「東京タワー」など映画のロケ地にもなって話題になりましたが、その後、震度7級の2度の震災に遭い、相当数取り壊されたということです。

生まれて2年程で埼玉の父の実家に移り、その後も父の転勤や社宅の都合で、大宮(桜木小学校)、駒込(駒込小学校)と移動し、小学4年の後半にまた細倉(細倉小学校)に戻りました。

中学に入る時点で、私は両親から離れ、浦和市のО上家にしばらくお世話になりました。1958昭和33年のことです。岸中学校の直ぐ側のО上家は、小母さん、ちょうど名門浦高に入学したばかりの好青年のお兄さん、同じくちょうど埼大に入学したばかりの美人のお姉さんがいました。

生まれた時から二十歳までに20回ほど引越しをしていますが、そのうち2~3回は、父や父方祖母の結核発病と、私の陽転への配慮からであったと思われます。

話は戦前に飛びますが、岩崎の伯父は、前橋中学から仙台の二高に入りました。東大法学部から三菱に入社し、その直後に徴兵されました。朝鮮から南方に転戦の際、軍医さんの診断か機転かで助けられ、輸送船に乗らずに命拾いして帰国、最初の赴任地が宮城県細倉でした。やはり宮城県には2度住んだことになります。

従弟のケンゾーちゃんも、放送局に勤め、仙台支局にいたことがあります。そのときも仙台で大きな地震があり、オフィスであたふたする様子がテレビに映り、しばらく親戚で話題になりました。2度目に赴任した、そのころは閉山した細倉鉱山の跡がテーマパークになり、一粒種のヒロちゃんと遊びに行って、とっても面白かったまた行こうねと約束した、と聞いてほんとうにうれしく思ったものでした。

そして、北海道に縁の深いО上家のお兄さんは、結局、宮城県に居を構えられました。さて、連絡やりとりのあと、伊達政宗「馬上少年過ぐる」の詩が印刷された御近所の名産品を贈ってくださったときには、伯父の思い出との思わぬ符合に感嘆しました。

「馬上少年‥」は岩崎の伯父が、最後に記した「残躯は天の赦すところ」の書き出しの一文で、亡くなったときにお棺に入れさせてもらいました。伯父の残躯を、天は赦してくれなかったではないかと、ずっと気にかかっておりました。東京にいても伯父の心に去来する詩は、60年以上前に、二高、仙台で刷り込まれていました。天に赦されていると思いながら八十で伯父は亡くなったのだと思えるのは、遺された者にはありがたいことかもしれません。また、お土産物にまで印刷されるほど有名漢詩とは、浅学で知りませんでした。

О上家のお兄さんたちとの再会で、宮城県に連なるもろもろを手繰り寄せることができ、どこを向いても困難の山積とはいえ、たおやかに笑顔で生きてきた私たち、というものも感じ取ることができました。
また怒られるかもしれませんが、お兄さんお姉さん、やはり私たち、よく生きてましたね!
        

細倉を出た そのころの 父 細倉

中央が父駒崎友治 病気にて退職記念撮影と思われる。昭和33~34年頃 白衣のなかでひとり背広姿、痩身身長180cm程、広い肩幅、小顔、甲高、額の秀でている特徴がよくわかる
上が細倉病院事務方、下が病院職員総勢かと思われる
ウェッブで見つけた写真
細倉病院 硅肺や職業病研究のため 東北大学からドクターが大勢来ていた

筆者の生家も、病院長の社宅になっていた
博士号をとるため40歳近くに結婚されたばかりの医師の新居社宅に遊びに行き、鏡台を覘いたり、ドイツ語の唄 セレナーデ を原語で教えてもらったりした


ウェッブで見つけた写真 佐野社宅 通産省の近代産業文化遺産になっていたが 二度の地震でとりこわされた家も多いとある
一時は1万人とも6千人ともいわれる住民がこのような木造社宅に住んでいた
左の病院あとは、宮城県の心霊スポットとして話題になったという

三交代で休み無く回転していた地下何キロ 激務の勤務体制
産業の犠牲になったかたがたのご冥福をお祈りしたい


余震ショック

きのうは2012年12月7日、この日は娘のお婿さんの誕生日でした。午後5時過ぎにテレビで緊急地震速報があり、珍しく大当たりの事前速報になってしまいました。さいたまでも相当強く長くゆれました。直後は電話がつながらず、お婿さんもしばらく帰宅できなかったようです。孫たちはテーブルの下に入り、揺れるのでテーブルの足をつかんでいたそうです。ウイルスで休んでいた四歳の孫は、怖くておびえきっていたそうです。

震源地は宮城三陸沖で、マグニチュード7.3、宮城岩手は震度5弱、NHKでは津波が来るので避難してください、という最強の避難アナウンスがなされました。
昨年の3.11の地震の余震だそうです。まだこれから7クラスの地震がありうるとのこと。相手が地球ですから‥自然ですから‥困りましたね。

滝沢村のО女史は、思わず家具を押さえていたそうです。亘理のお兄さんも大変だったことと思います。いついつ終わります、ということのない、千年の悩みがまだ続くようです。

ほそくら 奇縁 

2013年元日娘一家来訪。暮れの30日にも息子を交え、冷凍融けきれない3段おせちやたらばガニを大騒ぎで楽しんだが、元日は凧揚げをしてきたと健康的なスタートで安心。朝既にお味見したとはいえ、3倍も高額の正式?おせちを囲みました。
育児中もあり、仕事柄もあり、お婿さんや娘との話は教育にかかる思い出話になりました。

うちの子達は恵まれた家庭環境の中にいる。私なんか二十歳までに20回も引越しし、細倉では、中学に上がる時に子供だけ仙台に出すのが普通だった。これは「小公女」にあるように、主人公がインドの父のもとから離れ、イギリスの寄宿舎学校に入れられるのと似ている。それに孟母三遷の教えということも普通に実行されていた。と話しているうちに、お婿さんの亡くなったお母さんが、尾去沢の出身だったことを思い出した。

娘の結婚式のときに、お母さんの弟妹が大勢集まられ、私が細倉生まれと知り、皆の父親が三菱の尾去沢から細倉、山梨まで転勤されたということで、奇縁に大いに盛り上がりました。
お母さんは、尾去沢から東京に出て、三菱系列の会社勤めをされた方でしたが、弟さんは偉い教育者で、秋田県に残っておられました。

あれそういえば、娘の隣席の同僚の男性が、亡くなったおじいちゃんが細倉で自営業を営んでいた、おじいちゃんの妹が看護師になり、やはり細倉病院に勤めていた。こんど夏に宮城県に帰った時に聞いてみる。という話を聞き込んで、細倉病院時代の父の写真を散々探してスキャンした上記写真を手がかりに渡していた、それをすっかり忘れてた。

あの看護婦さんは、この中に写っていたの?と聞くと、娘は、ここここと集合写真の右上の方を指しました。いやー良かったね。こちらは2回延7年くらいの滞在でしたが、そうか、やはり常時一万人、延にすれば何十万人が関わっていたんだから、自営業でずうっとおられれば接点はあったのですね。

そういえば、娘が、社宅周辺の商業自営のかたがたは、会社や家族に失礼がないよう、大変気を使って過ごしていたらしいよ。ありがたかったね、と報告してくれていたのを思い出しました。

大変な思いをした幼少期とはいえ、見えないところで、様々な配慮をいただいて、なんとか無事に生きてこられたんだなあ、と思います。

それにしても、宮城県とのつながりは、本当に濃いものが有り、驚くばかりです。


余談  ノッポの古時計… ♬           2013年2月

お目の肥えた方にはなあんだと言われるかもしれません
それで アップも控えました
でも とうとう ノッポの古時計がやってきました
電池を入れたら動き出しましたよ♬
なぜこのコーナーか?
驚かないでください(ベツニーッオドロクかァ)
わたくしの生まれた☆
宮城県栗原市から
2月9日にやってきたのです

まっ いろいろ事情はあるでしょうが
言わぬが花☆言わぬが時計 ということもあります

この2~3年震度6~7級の地震に
3回以上は遭ってます
よく来たね もう安心だよ … 
とは言えないけれど
よく来たね
ノッポの時計が納まった居間 天井だけは 
ちょうど半世紀前建てたときのまま凝った造りです
大昔9人いた父のきょうだいは 全員見事なノッポで 
鴨居をくぐるように入室した者
 バスの天井に頭をぶつけた者
シャワーの出水栓が頭にぶつかるといって
高さを直させた者
戦闘機操縦席から頭が出るといわれて
あこがれの飛行機乗り合格が難航した者
ノッポにまつわる悲劇(ホボ)の逸話は絶えません
ノッポの古時計と天井から 
そんなことが 想い起こされました
時計のバランスは 父の長姉
 カマクラのヨーコおばさんに似ています
ワーッ 天国のおばさまごめんなさい

なんと!細倉の写真が‥        2013年10月 

10月の初め分厚い封書が届きました。
細倉小学校の先生をしておられたあべ先生からです。




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