法然上人の念仏の教えは都の人々に広まり、社会的にも無視できない存在となっていった。しかし、比叡山、南都など旧仏教界からの圧力は日増しに強くなって行く。 そのような折、御所の女房,松虫・鈴虫が法然上人の弟子安楽・住蓮の称える六時礼讃にひかれ出家した事により後鳥羽院の逆鱗に触れ、安楽・住蓮は死罪、師法然上人は四国流罪となった。 建永2年(1207年)2月28日 念仏停止の勅命、土佐配流の命下る。その後、九条兼実の働きもあり配流地が土佐から讃岐へ変更となる。 法蓮坊はじめ法然上人の多くの弟子が「勅命なので暫く念仏をとどめて配流を避けて下さい」と言うも「辺鄙の地に赴き田夫野人に念仏を勧めることは以前からの望みであった。長年の思いを遂げんこと朝恩とも云うべし」と答えられた。(勅伝33巻)1番 誕生寺(岡山県久米郡) |
|
小松谷 正林 |
法性寺 |
官人、小松谷の御坊にむかいて、いそぎ配所へうつり給べきよしを責しければ、ついにみやこをいでたまふ。月輪殿御余波をヽしみて、法性寺の小御堂に一夜とヾめたてまつられけり。(勅伝33) (建永2年(1207)3月16日法性寺より四国へ向け出発) |
|
伏見 一念寺 鳥羽のみなみの門より川船に乗りてくだりたもう(勅伝34) この地で川舟に乗り鴨川を下る |
舟 繋 石 法然上人の乗った川舟を繋いだ石 一念寺境内 |
一念寺門前の鴨川 | |
遊 女 塚 神崎の泊まりで5人の遊女に結縁、その後5人は髪を切り入水した。 5人を偲び江戸時代に建立 |
尼崎 如来院 5人の遊女の遺髪が納められている。湛空作法然像を自ら開眼 (50年に一度涙を流すと云う |
&神戸 薬仙寺 大和田の泊まりに入った際、 人々を教化 |
元祖教会 薬仙寺で人々を教化した際、法然上人が刻んだ 御名号 |
摂津の国経が嶋につき給にけり〜中略〜鬱々たる魚鱗をすくはむがために、村里の男女老少そのかず おほくあつまりて、上人に結縁したてまつりけり (勅伝34 |
|
漁夫 八田治郎太夫夫妻の墓 高砂 十輪寺境内 |
漁夫 八田治郎太夫夫妻について (勅伝34) 播磨の国高砂の浦につき給えるに、人おほく結縁 しけるなかに、七旬あまりの老翁、六十あまりの老 女、夫婦なりけるが申けるは「わが身は、この浦の あま人なり。 おさなくよりすなどりを業とし、あしたゆ ふべに、いろくづの命をたちて、世をわたるはかり ごとヽす。ものヽ命をころすものは、地獄におちて くるしみたえがたく侍なるに、いかがしてこれをまぬ かれ侍るべき。たすけさせ給へ」とて,手をあわせて なきけり。上人あはれみて「汝がごとくなるものも、 南無阿弥陀仏ととなふれば、仏の慈悲に乗じて浄 土に往生すべき」むね、ねんごろにおしへ給ければ 二人ともに涙にむせびつヽよろこびけり。上人に仰 をうけたまはりてのちは、ひるは浦にいでヽ手にす などりする事やまざりけれども、口には名号をとな へ、よるは家にかえりて、二人ともにこゑをあげて 終夜念仏する事、あたりの人もおどろくばかりなり けり。 つゐに臨終正念にして往生をとげにけるよし つたえきき給て「機類万品なれども、念仏すれば往 生する現証なり」とぞ、おほせられける。 |
遊女 君友について (勅伝34) 同国(播磨)室の泊まりにつき給に、小船一艘ちか づきたる、これ遊女がふねなりけり。 遊女申さく「上 人の御船のよしうけたまわりて推参し侍なり。 世を わたる道まちまちなり。いかなるつみありてか、かヽ る身となり侍らむ。この罪業おもき身、いかにしてか のちの世たすかり候べき」と申ければ、上人あわれ みての給はく「げにもさようにて世をわたり給らん、 罪障まことにかろからざれば、酬報またはかりがた し、もしかヽらずして、世をわたり給ぬべきはかりご とあらば、すみやかにそのわざをすて給べし。 もし余 のはかりごともなく、又身命をかへりみざるほどの道 心いまだおこりたまわずば、たヾそのまヽにて,弘誓 をもたてたまえる事にて侍れ。たヾ、ふかく本願をた のみて、あへて卑下する事なかれ。本願をたのみて 念仏せば、往生うたがひあるまじき」よし、ねんごろ にをしへ給ければ、遊女随喜の涙をながしけり |
遊女 君友像 浄運寺 |
法然上人貝堀の井戸と看板(上) 室津 浄運寺 現在も地元の人々が利用している |