平成25年度研修会
〜古河さしまケアマネジャー研究会との共催〜
     (10月5日スペースU古河)

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市民フォーラム「災害と医療〜語り継ごう大震災の経験」

1 特別講演 「陸前高田市での被害の実際と復興」 岩手県立高田病院前院長 石木幹人先生
          
 海岸線に美しい松原を持った陸前高田市、その街も津波に襲われた。
 その日まで、高田病院では高齢者を支えるために在宅医療にも力を入れ、すべての職種の関わりで進めるべく在宅療養を支える会を発足させたばかりだった。病院の経営も、それまで赤字続きだったものが、平成21年に黒字となり、平成23年に病床の増床を予定していた。
 そこへ突然襲った大地震と津波。津波襲来までテレビ、ラジオがまったく機能せず、320分に初めて市内の有線放送で23mの津波が来るという情報を得た。そこで、対策本部を病院3階に移した。これは、3階は安全という認識があり、そこに災害用備蓄もあったためだ。
 ところが、329分、津波は病院3階を越えて襲ってきた。入院患者と職員だけでなく、逃げてきた市民も病院の4階に上がっていた。全員を救うのは困難と考え、歩ける患者を急がせ、屋上に逃げた。
 屋上で点呼を取り、12名の入院患者と9名の病院スタッフの死亡を確認した。日没までのわずかな間に、そのまま夜を明かすための準備にとりかかった。津波の引いた病室から使えそうなものを持ち寄り、オムツを体に巻きつけ、ポリ袋を防寒用に頭からかぶった。これは役に立った。しかし、夜は雪が降り寒かった。入院患者のうちさらに3名がその夜のうちに亡くなった。
 翌日、自衛隊やDMATのヘリコプターが救援に来た。患者の搬送が終わったのは、午後2時過ぎだった。そのあと一般市民、そして最後に病院職員が避難所に着いた時、日は暮れかかっていた。
 13日から、避難所で診療を開始した。日本赤十字社は、12日から陸前高田市に入り、ただちに救護所を設置して、活動を開始していた。
 陸前高田市では、すべての開業医院と調剤薬局が全壊、薬品問屋も全壊し、2名の開業医が死亡した。歯科医院も9か所中8か所が全壊、歯科医も2名が死亡した。
 14日には、避難所を巡回した。100を超える避難所があり、各地区の大きい避難所を回ることにした。看護師や保健師がいて、避難所の住民を管理していた。急病の患者は少なく、慢性疾患を持つ患者が手持ちの薬を津波で流されたという訴えが多く聞かれた。狭い避難所に多くの住民が避難していて、衛生状態が気になった。
 この巡回のあと、各地域に救護所を建てること、慢性疾患に対応できる体制の整備、緊急用薬品および生活習慣病用薬剤の確保を当面の目標として活動することが決められた。
 救護所で毎日、朝夕のミーティングを行い、意思統一と連絡事項の確認を行った。20日になると、全国からの支援者が集まってきた。このため、被災後休みなく働いてきた職員全員が22日から2週間の休暇を取ることとした。
 石木先生自身も、初めて被災後の市内を見、自身の家も跡形なく壊れたのを発見した。のちに、妻が津波の来る前に自宅にいたという情報が入った。それによって妻の生存をあきらめた。
 27日、陸前高田市医療・保健・福祉包括会議が開設された。そこには、ボランティアも参加した。
 高田病院としての診療は、44日に再開した。活動は、全職員によるグループワークを基にして行った。ここでの意見は重要で、入院機能の回復まで自宅を入院ベッドと考え訪問診療を強化、同時に入院機能を持つ仮設病院の早期建設、被災者の健康管理(全戸ローラー作戦)への参加、職員をも対象とした心のケアの実施、という方針が立てられた。
 6月には仮設住宅が建てられたため、避難所が相次いで閉鎖された。7月になると、全国からの医療支援チームが撤退。そして、725日には仮設診療所が開設され、自立に向けて活動が始まった。さらに、翌242月には仮設病棟の運用を開始し、高田病院の機能が回復した。
 全戸ローラー作戦(健康生活調査)への参加は、病棟機能の減った病院看護師の、ちょうどいい活動の場となった。市民の安心を得ることができ、看護師自身が被災の状況を確認することができた。これによって、市民と行政のいずれのつながりも強めることができた。
 また災害時には、病院職員の心のケアが重要であることが分かった。職員も被災者であり、かつ被災地での活動は地元の職員の参加が必須なので、職員の医療・保健活動が膨大になるためである。これは、他県からの心のケアチームの力を借りて、うまく行うことができた。
 現在では、認知症外来や健康増進外来、ほほえみ外来として障害を抱える患者の優先外来を始めている。さらに健康講演会も再開した。
 被災後の最も重要な事業は、仮設住宅入居者の生きがいづくりと生活不活化病予防のための、「はまらっせん農園」事業である。高田病院の事業として行い、生きがい度の向上、仮設住宅内のコミュニケーションの活発化、骨密度の改善などが確認された。この事実を踏まえ、災害地での仮設住宅には、集会場と畑をセットでつくることを国に提言した。
 今回の震災では多くのことを学んだ。まず、住民の命や生活を守る施設は被災の可能性のある場所にはつくらないこと、防災訓練は通信が途絶えることを想定して行うこと、過去の津波の被災を検証し、備蓄は最上階へ、電源部も津波の到達部よりも上に設置すること、日ごろから遠隔病院と連携を取り、被災時には急性期を過ぎた患者を連携病院に送って職員の負担を減らすことである。
 今後の課題としては、被災地以外の人たちへの状況の報告を行うことと心のケアの充実のため地域毎に傾聴技術を持つ心理サポーターを増やすことである。

2 指定発言
(1) 大地震発生時の訪問看護ステーションたんぽぽでの対応について
                                   訪問看護ステーションたんぽぽ 看護師 坂本ゆかり
 大地震発生時に最初に行ったのは利用者の安否確認。幸いにもけがをした人はいなかった。つぎが、医療機器を在宅で利用している方々の状況確認。人工呼吸器利用者13名中1名は、停電のため大学病院へ入院の手配。その他は自家発電やバッテリーで対応可能。在宅酸素利用者は、残りの酸素ボンベ本数の確認。利用者のひとりが、停電のため電動ベッドを背上げ状態から復帰できないままでいることがわかった。このように翌日にわたって、利用者1軒1軒すべてに電話連絡し、状況確認をした。
 翌日からガソリン不足の状態になり、その確保に苦労した。このガソリン不足は、その後2週間続いた。また、計画停電があったため、訪問時間の変更を余儀なくされたこともあった。東電から貸し出された自家発電機は数に限りがあり、個人で購入した人もいた。
 これらの貴重な経験を踏まえ、災害時の減災対策と災害発生時対応マニュアルを作成して今後に備えることができた。

(2) 大震災時の経験                                県西在宅クリニック 医師 岩本将人
 地震発生に伴い、看護師の数名は子供を保育園に預けていたため、すぐに帰宅させた。一方、遠方から通勤する職員は、事務室に寝泊まりすることになった。
 すぐに行ったことは、電動の医療機器利用者の状況確認。病院への一時入院依頼や自家発電装置の貸し出し依頼を行った。在宅酸素利用者に対しては、業者から移動式の酸素ボンベの無償貸し出しがあった。さらに、停電のない地域の利用者から酸素ボンベを借り、別の地域で酸素を必要とする利用者に届けることにした。
 しかし、これらの作業を行うには絶対的な人手とガソリンが足りなかった。人手の確保は、知人などに声をかけてボランティアを募り、なんとか間に合った。このボランティアは、こののちNPO法人設立につながった。
 ガソリンの確保は最初困難を極めたが、さいわい近くのガソリンスタンドの協力を得ることができ、往診車のガソリンは問題なく確保できるようになった。
 この災害の経験から、備蓄を行うこと、地域の団結力を引き出すことおよび利用者同士の助け合いを進めることの重要性を認識した。

(3) 友愛記念病院での大震災の経験         友愛記念病院相談室 ソーシャルワーカー 渡邊希代光
 友愛記念病院は、耐震構造設計が行われており、自家発電と地下水利用という状態だったので、停電や断水の影響を受けることがなかった。地震に際して、一時入院患者を安全な場所に避難させたが、その日のうちにもとの病室に戻すことができた。
 病院としての対応は、被災者の受け入れが最も重要だった。ソーシャルワーカーとしての立場から考えると、災害時の人命救助や救護は医療職だが、ソーシャルワーカーはできることはなんでもやるという気持ちで行う生活支援だと感じた。現地では、現在も日本医療社会福祉協会というソーシャルワーカーの全国組織が、支援に当たっている。
 いざというときにどんな役割を担うのか、備蓄をどうするか、など備えを十分にすることが重要と、五感をもって感じた。

(4) 東日本大震災〜被災地で経験したこと〜             古河病院 理学療法士 廣嶋俊秀
 NPO法人TMATの一員として、大船渡市に入った。診療所での診療活動、往診、巡回診療、リハビリなどを行った。避難所での課題は、介護の必要な方々のオムツ交換、トイレ介助、ベッドや車いすの確保の問題、高齢者の廃用症候群やエコノミー症候群予防、認知症への対応の問題、さらに障害を持つ方々の変化した生活環境への適応の問題など、多くのことがあった。

(5) 当院における東日本大震災活動報告               古河赤十字病院看護師 小木光江
 日赤では震災発生と同時に派遣活動を行った。被災者の受け入れは、震災発生後1週から2週目がピークだった。
 支援活動は、医療救護班として6班を茨城、福島、岩手の各地に派遣、こころのケア活動班は石巻と釜石に、支援活動として石巻赤十字病院に派遣した。
 医療救護班は、避難所での医療活動、民家などへの巡回診療などを保健師との連携をもとに行った。
 日本赤十字社では、震災発生後ただちに全国から46班の医療救護班が出動、またこころのケア活動や救援物資の配給など、幅広く支援活動を展開した。さらに、現在でも復興支援活動は続けている。

*なお、総和中央病院 作業療法士 大場耕一さんからも報告を頂く予定でしたが、大場さんが急病のため残念ながら報告して頂けませんでした。