在宅ケアネットワーク古河会報(第15号)
           平成25年11月発行

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T 2013年度市民フォーラム開催
 平成25年度在宅ケアネットワーク古河市民フォーラムを、古河さしまケアマネジャー研究会との共催により、105日(土)スペースU古河で開催しました。今年度のテーマは「災害と医療〜語りつごう大震災の経験」で、岩手県立高田病院前院長の石木幹人先生をお呼びして、「陸前高田市での被害の実際とその復興」と題する特別講演をいただきました。その後、当ネットワークに参加する病院等から「指定発言」という形で報告をしていただきました。参加者は約150名で、大盛況でした。以下に、講演の概要を以下に記します。


特別講演:「陸前高田市での被害の実際とその復興」(概要)
                             岩手県立高田病院前院長 石木幹人先生 
 岩手県立高田病院では、高齢者を支えるための多職種による「在宅療養を支える会」を2月に発足させたばかりだった。平成23年3月11日、今まで経験した事のない地震と津波が陸前高田市を襲った。陸前高田市と言えば、その津波の後「奇跡の一本松」といわれる松が残ったところ。津波に襲われる前は約7万本もの松が海岸線に美しく連なっていた。
 人口2万4千人だった高田市は、1700名もの方々が津波にのまれ命を落とした。高田病院は4階建てだったが、最上階の4階まで津波が押し寄せた。津波が来る事が分かり、医師や看護師は必死になって患者を背負い、3階・4階へと避難したが、瞬く間に水位はあがり、助けられない方々も多くいた。入院患者15名、職員9名が亡くなった。防災訓練では、津波でも3階は安全と言う想定だった。
 屋上には、患者や職員だけでなく、市民もいた。小雪の舞う寒い夜を通して、患者を看病した。真っ暗闇の中に何度も押し寄せる津波に不安に感じながらも、患者や職員を「大丈夫、大丈夫」と励まし、支えあいながら朝を向かえて、翌日、救助のヘリコプターによりやっと救出された。
 石木先生や職員は自身の家族や家を失ったにもかかわらず、すぐに被災者のための医療をどうするかを職員全員で考え、仮診療所を開設して活動を開始した。慢性的な病気を抱える患者に医薬品を確保するのが大変だった。幸いにも医療・介護・福祉の連携が早くできたため、家や家族を失った被災者のための訪問診療を行うことができた。現在も被災地の復興を手掛け、仮病棟での入院医療とともに高齢者のための訪問診療に力を入れている。とくに、仮設住宅に住む被災者のための「はまらっせん農園」事業は、参加者の生きがい度の向上、仮設住宅内のコミュニケーションの活発化、参加者の骨密度の改善などが確認された。この結果を踏まえて、大災害時の仮設住宅建設時には集会所と畑をセットでつくるべきと国に提言した。

指定発言:「当院・当施設での大震災時の経験」(概要)
1)大震災発生時の訪問看護ステーションたんぽぽでの対応について
                             訪問看護ステーションたんぽぽ 看護師 坂本ゆかり
 事業所は野木町にあり、古河市・小山市・結城市が訪問地域。大震災時の利用者は263名だった。所員全員が訪問先で地震に遭遇し、各自利用者と医療機器の状態を確認した。幸い地震によるけが人は一人もいなかった。電話の混線状態は続いていたが、ライフラインは問題なかった。各自事務所に戻った後、医療機器を使用している利用者や独居の方の安否確認を行った。当時、人工呼吸利用者13名で、内1名は自宅が停電のため大学病院に一泊入院した。
 電力確保のため、東電に連絡して自家発電機を確保、また車のシガーソケットも利用した。在宅酸素利用者にはボンベの本数を確認した。さらに翌日、残りの利用者に連絡して全員無事を確認したが、停電のためベッド背上げのままになっていた利用者がいた。
 その後のガソリン不足は2週間続き、計画停電により訪問計画を変更せざるを得ない事態も起こった。しかし、今回の貴重な経験を踏まえて、災害発生時の減災対策と災害発生時のマニュアルを作成することができ、今後に備えることができた。

2)大震災時の経験
                                          県西住宅クリニック 医師 岩本将人
 地震発生にともない、職員数名は子供を保育園に預けていたため、すぐに帰宅させた。一方、遠方から通勤する職員は、事務室に寝泊まりすることになった。
 すぐに取り組んだことは、医療機器を使用している患者の安否確認だった。近隣の基幹病院への一時入院依頼や、東電に自家発電機の貸し出し依頼を行った。停電のない地域の利用者から回してもらったり、業者からの無償の貸し出しを受けたりして、酸素ボンベ40本、自家発電機7台が確保できた。
 ガソリン不足の中で患者宅を訪問するため、近所のガソリンスタンドに頼み込んで訪問車用のガソリンを確保した。
 利用者に困っていることの聞き取り調査をしたところ、「食べ物がない」「水がない」「体調不良」という回答を得た。そこで、近所の住民や知人に声をかけてボランティアを募り、2〜3人で1チームを作り、必要な機材、水や米を利用者に配達した。約3ヶ月この活動が続き、現在のNPO法人「千里への道」につながった。

3)友愛記念病院での大震災での経験
                                     友愛記念病院 ケースワーカー 渡邉希代光
 友愛記念病院は2006年に新築移転し、災害に備えた病院だったので、3月11日、激しい揺れはあったが外壁の亀裂があった程度だった。
 病棟の患者を安全な1Fロビーへ誘導したが、夜までには全員各病棟へ戻すことができた。
 病院としての対応では、被災や原発で避難されてきた人たちの受入れが最も重要だった。
 ソーシャルワーカーとしては、できることはなんでもやるという生活支援が果たすべき役割。現地では、日本医療社会福祉協会というソーシャルワーカーの全国組織からワーカーを派遣し、現在も支援にあたっている。
 備えあれば憂いなし。日頃から災害に備えて、職場・家庭・地域のネットワークを通してお互いの弱い部分を補いあい、強い部分をより強固なものにすることが重要と、五感をもって感じた貴重な経験だった。

4)東日本大震災〜被災地で経験したこと〜
                              古河病院 理学療法士 廣嶋俊秀
 311日、通常通り4Fでリハビリを行っていた。地震直後から患者の安全の確保に努めた。エレベーターが停止し、夕方になっても復旧できなかった。リハビリが終わった患者を車椅子等で部屋まで戻す作業が始まった。夕食は職員総出で患者への配膳を行った。
 古河病院からは、医師、看護師等14名のスタッフが被災地支援に参加した。大船渡市民会館リアスホールを活動の拠点とし、被災地を巡回した。慢性疾患等の薬切れが問題だった。夜中も余震があると不安になる人々に寄り添い、心のケアを行った。避難所では介護が必要な方のオムツ交換、トイレ介助が問題で、また、ベッドや車椅子がない状況が続いた。高齢の方は活動性の低下(廃用症候群、エコノミー症候群)が心配された。
 認知症や障害を持つ人たちは、突然生活環境が変わったことに対し、慣れるまで時間がかかり不安も大きく、対応に課題が残った。

5)当院における東日本大震災活動報告                    
                           古河赤十字病院 看護師 小木光江

日本赤十字社では震災直後から被災者の受入れを行った。また、同時に被災地へ医師、看護師等を派遣した。被災者の受入数は、震災発生後1週から2週がピークだった。
 古河赤十字病院では、医療救護班、こころのケア活動班、病院支援活動班を結成した。
 心のケアでは、石巻赤十字病院と岩手県釜石市にスタッフを派遣。病院支援は、石巻赤十字病院で全国の日赤職員とともに行った。医療救護班は、避難所での医療活動、民家への巡回診療などを、保健師との連携で行った。
 日本赤十字社は全国からの寄付を財源に支援活動に当たっているが、東日本大震災でも全国の赤十字病院から直ちに46の救護班が結成されて医療救護活動を行った。現在も引き続き復興支援を継続している。

*なお、総和中央病院作業療法士の大場耕一さんからも報告をいただく予定でしたが、大場さん急病のため、発表中止となりました。

U 定例会報告(平成256月〜258月)

1 平成25年度第2定例会「ケース検討」
 (平成2564日友愛記念病院にて。参加者43名)

1)@緩和ケアチームと在宅支援チームが協働して在宅生活を支援したケース                                   友愛記念病院 渡邊希代光

ケース:M.M.54歳女性  主介護者:夫  家族状況:夫との二人暮らし
本人の希望:症状の緩和、自宅での生活、介護保険サービス利用
日常生活自立度:食事は自立、他は一部介助
現病歴と経過(病名:子宮頚癌術後骨盤内リンパ節転移):
 
50歳の時に子宮頚癌ステージ3Bの診断で、大学病院で子宮全摘術と術後化学療法と放射線療法を受けた。2年後、腹部大動脈周囲リンパ節転移が認められ、54歳の夏、下血が出現。小腸出血として、輸血で経過を見ていた。しかし、大動脈リンパ節から骨盤腔内リンパ節全体に転移が進んで増大し、左下肢の痛みやしびれが出現してきた。そこで、主治医からは緩和ケア科での経過観察を勧められ、10月当院緩和ケア科へ転院。月2回の通院で、輸血とオピオイドで様子を見ていたが、疼痛が増強し下肢運動障害が出現したため11月入院となった。
 12月に入って、本人から自宅に退院になった場合の必要なことについて相談を受ける。掃除と手すりの設置について依頼され、介護保険の申請が必要なことを話す。以後、ソーシャルワーカーとして、介護保険サービス受給に必要な調整を行う。ケアマネジャーを含めたカンファレンスを行うと、在宅生活に向けた意欲が伺えるようになった。ただし、病棟看護師とのカンファレンスでは、下肢痛がひどくなりレスキューのオキノームを飲まざるを得ないことがあり、その時に本人は落ち込んでいるようだとのこと。
 正月は自宅で過ごしたいとの希望を受け、年内に本人とご主人を交えた退院前カンファレンスを行い、必要なサービスを確認。29日退院となる。

Aリンパ浮腫が増強し急速にADLが低下した子宮頚癌の女性
                       
たんぽぽ居宅介護支援事業所 幾世和子
同一ケースの退院後の経過:
 
在宅サービスは、月・水の訪問介護、隔週水曜の訪問看護、毎週金曜日の訪問リハビリ、車いすのレンタルを利用し、在宅生活開始。
 本人は在宅生活に意欲的だが、左下肢の浮腫が進行。9日には、訪問介護利用時、浴室で転倒。打撲だけだったが、本人は転倒したことに対してショックを受け、落ち込む。その後も浮腫が増強し痛みも軽減しないため、それまで受けていたリンパマッサージを止める。これ以降、症状が悪化するたびに、いい結果が出ないと落ち込みが続く。
 3月になると、浮腫はさらに増強し、腹部にもおよびズボンのボタンが留められないほどに。さらに、5月には歩行器も利用できない状態になった。 
 現在、排泄が一番の問題。自走式車いすを利用し、移乗はなんとか自力で可能。

Bこのケースでの問題点と今後の課題
・リンパ節転移が見つかった時点で、放射線治療を勧められたが、手術後に放射線治療を受けた後遺症の腸管癒着によって腸閉そくを起こした経緯があり、それを主治医には治療不可能と言われたにもかかわらず、自分で情報を集め、なんとか治すことができた実績がある。そのため、自分で情報を集め、納得のいく方法でやって行こうとする気持ちが強くなっていた。
・一方で、悪い知らせは聞きたくないと言うなど、自分でも落ち込むことへの防戦を張
る側面があった。
・退院後は、リハビリを行えばよくなると信じていたものの、結果がついてこなかった
ため、不安が増強。いつまで在宅生活ができるのかと聞かれても、支援側は見守ることしかできない状態。これからの関わりをどうすればいいのか?
C解決策
・このようなスピリチュアルな問題は、がんの患者同士の話の中で本人が解決策を見つけることにするのがベスト。月1回だが、第3土曜日にがん患者会を福祉の森診療所で開催しているので、ぜひそこに参加するよう話してみてはどうか?

2
)家族の思いに寄り添った退院調整
                        
    古河赤十字病院  大木奈緒
ケース:H.U. 77歳男性  主介護者:長女  家族:妻、長女とその夫、ダウン症の次女、姉との6人暮らし
家族の希望:できるだけ家で見てやりたい  日常生活自立度:全介助
現病歴と経過(病名:左大脳広範囲梗塞):
 
誤嚥性肺炎のため12/15に当院入院となった。当院来院時、意識レベル300。呼吸状態悪く、右半身マヒもあり、脳梗塞が疑われた。数日後、CTにて左大脳半球広範囲梗塞と橋梗塞と診断。一時、肺炎の悪化により危篤状態となったが、軽快。しかし、右半身完全マヒ、左半身は上肢をわずかに動かせる程度の状態。また、失語を合併。開眼、追視はするものの、意思疎通は困難な状態。経口摂取困難なため、2/9胃瘻造設。経管栄養の増量の過程で誤嚥性肺炎が再発したため、入院期間は長期化。軽快後は、家族の「今後は在宅で療養したい」との希望により、在宅へ向けて退院となった。
 2/11より、長女を中心にオムツ交換・経管栄養・吸引・口腔ケアの指導を、パンフレットを使用して行う。長女から、一日の流れを知りたいとの希望あり。病院でのケアを、自宅で家族が実施できる時間に調整。患者用のタイムスケジュールを長女といっしょに作成し、それに沿って指導。長女は、初めは手技に対して不安が強かったが、毎日指導を重ねた結果、しだいに不安が解消されていった。しかし、ケースの喀痰が粘稠で十分にうまく吸引できないことから、長女の不安の声が聞かれた。したがって、誤嚥や窒息の可能性があると考え、合同カンファレンスで看護師に相談し、吸引の時間に合わせて介護サービス調整依頼。
 長女は、母親は高齢で、しかもダウン症の妹の世話もあるので、母親にあまり迷惑をかけたくないという思い。また妻は、介護に協力はしたいが不安が強いとのこと。そのため、長女を交えて妻に少しづつ指導。チームの看護師にも、その状況を知らせ、チーム全体で指導に関わり、不安なく退院を迎えることができた。

まとめ:
・家族が在宅での療養を希望した重度マヒと嚥下障害の残る脳梗塞患者のケアについて、長女を中心にオムツ交換・経管栄養・吸引・口腔ケアを指導し、最初の不安を解消して退院につなぐことができた。
24時間のケアが必要となるため、タイムスケジュールを作成し、訪問看護師と調整
することにより家族の 負担が最小限になるようできた。

3
10年に亘る長い認知症介護を在宅で終えることのできた1ケース

                               福祉の森診療所  赤荻栄一

ケース:K.S. 90歳女性  主介護者:嫁  家族構成:息子夫婦との3人暮らし
家族の希望:できるだけ家で見てやりたい  日常生活自立度:全介助
現病歴と経過(病名:老年性認知症):

 10年前頃から物忘れがひどくなった。そのまま在宅で様子を見てきたが、介護保険サービスを利用するため、平成181月当院初診。その時点で、物忘れと意欲低下はかなり進行しており、四肢の筋力低下も著明で、歩くことは支えられてなんとか可能だったが、ADLはほぼ全介助の状態。家族はそのまま在宅での介護を続けるとして、デイサービスやショートステイを利用し、とくに問題がある時に当院受診。この後5年間は、たまに発熱が見られる程度で大きな問題なく経過。しかし、四肢関節は次第に拘縮傾向。平成2412月には、下腿とかかとに褥瘡形成。これは、平成252月には軽快したが、3月になると誤嚥性肺炎を発症し、入院となる。家族は完治不可能と考え、このまま病院で最期を迎えるよりは、家で看取りたいと当院へ相談に。
 326日退院し、同日から訪問開始。家族は、「家に帰ったとたん本人の顔から笑みが出た」と喜んでいた。訪問看護による点滴を皮下注で1500ml継続とし、家族による喀痰吸引を指導して最期の在宅ケア開始となった。家族は、喀痰吸引を最初は不安がったが、すぐに慣れて積極的に行うようになった。
 退院時「1週間は持たないのでは?」と言われていたため、少しの変化に対して不安が先走る状態だったが、退院後2週目には家族の気持ちも落ち着き、「本当に家に戻ってよかった」とくりかえした。
 45日発熱。解熱剤で対応。49日呼吸音に喘鳴が聞こえるようになる。誤嚥性肺炎の再発と考えたが、家族は肺炎治療を望まず、そのまま様子を見ることにした。その後、次第にチェイン・ストークス呼吸となり、416日永眠。家族は、「3週間もの間、家にいられた」と満足した様子で話した。

まとめ:
・長い経過の認知症ケアでは家族が大きな負担を背負うが、このケースの場合、かなり身体的状態が悪化して初めて当院を受診した。したがって、すでに治療を行う段階は過ぎており、対症療法と在宅介護を行うことだけが必要な状態だった。
・寝たきりとなり、嚥下機能の低下により誤嚥性肺炎を発症したため入院となったが、
そのまま最期を病院で迎えさせるのは忍びないと思った家族が在宅での看取りを希望。
・在宅に戻った本人も笑みを浮かべ、それを見た家族も在宅へ戻ったことを喜び、最初
はとまどいもあったが、すぐに痰の吸引などの介護にも慣れて、そのまま希望通り家で看取ることができた。

4)
「ケア・カフェ」の提案
                                            つくば調剤薬局総和店 吉田 聡
1)ケア・カフェとは
 
医療・介護・福祉の専門職、そして一般市民も含み、それぞれが顔の見える関係づくりを目指す場所。BGMの流れるカフェのような雰囲気の中で、日ごろの医療・介護の悩みや思いをグループで話し合う場。日常業務での悩みを相談する場として利用することも可能。これをベースに、在宅多職種連携につなげる。
2)概要
・在宅ケアネットワーク古河の会員を中心に、一般市民も巻き込んで展開することを目的とする。
・毎回、テーマを決めて、4〜6人でのグループワークを行う。
・マグカップやお菓子を持参。

3)今後の課題
・事務局をどこに? 会場は? 呼びかけはどこまで?

2 平成25年度第3定例会「ケース検討」
  (平成2586総和中央病院にて。参加者32名)

1)母を在宅で介護する長男への退院支援
                            
古河赤十字病院 福田ゆみ子
ケース名:K氏 87歳 女性 老年性認知症、腰椎多発圧迫骨折

主介護者:長男(56歳)
家族の希望:長男:介護の負担は増すばかりだが、少しでもいい方向へ進んでいけたらいい
家族の状況:夫(86歳)が慢性硬膜下血腫で要介護状態。嫁(49歳)と孫3人を含め7人家族。
現病歴と経過:
 平成25416日に自宅で転倒。転倒後数日間は動けていたようだが、20日頃から歩行困難となった。排泄時には家族が抱き上げて移動介助。腰痛悪化のため、26日当院整形外科を受診。腰椎多発圧迫骨折として入院となった。
 入院時、認知症があり、また強い腰痛や環境変化によってせん妄状態となって精神的混乱に陥っており、質問に対し返答はあるが全く辻褄の合わないことや、神経症状の診察時に下肢拳上、足関節の底屈背屈の指示動作ができず、独語があり、多弁と興奮状態。入院後、腰椎多発骨折による両下肢マヒと尿閉が出現。それに伴い下肢全体がむくみ、腰痛も強く体位の自己変換ができないことから、エアマットを使用。下肢浮腫軽減のため弾性包帯を巻き、また褥瘡好発部位の観察を行い縟瘡予防に努めた。尿閉に関しては、尿道留置カテーテルを挿入して排泄介助。清潔保持のため、清拭とシャワー浴介助を施行。入院中は、キーパーソンの長男が毎日仕事を終えた後来院し、身の周りの世話。看護師からは早い段階で介護保険申請をするよう声かけ。
 5月中旬、医師から長男に病状説明が行われ、手術しても歩けるようになる確率は低いことが話された。長男は手術をあきらめられない様子だったが、最終的には保存的治療を受け入れた。そのため、精神的にも安定したこともあり、退院を考える時期と判断。517日介護保険の調査に合わせて、連携室に介入を依頼。連携室ではすぐに長男と面談し、ケアマネジャーを紹介。しかし、自宅ではK氏の夫が昨年慢性硬膜下血腫を起こして要介護状態となっており、長男からは「二人の世話は大変」と不安の声。また、長男夫婦は共働きで日中は介護が難しい状況であることが分かった。受け持ちナースとして、平日は通所のデイケアやショートステイを取り入れて日中の介護負担を少なくできることをアドバイス。自宅退院か施設入所か迷ったようだが、529日に自宅退院と返事。そして退院するに当たり、連携室担当者、ケアマネジャー、病棟看護師、家族で、問題点や不安な点について話し合いを行った。病棟看護チームは、自宅での療養生活維持のため、家族にオムツ交換や陰部洗浄の方法と尿道留置カテーテルバッグ内の尿の処理法など細かく指導する必要があった。長男夫婦に一緒に来院してもらい、それらの手順を指導。また、その後毎日来る長男には数回オムツ交換を指導して、手技を習得してもらった。また、退院後の居宅サービスの内容とレンタルベッド搬入日を確認し、退院日を決定。退院直前には、縟瘡好発部位の観察、下肢浮腫予防のための弾性ソックスの必要性、通所サービスのない日は自宅で車椅子に乗車させ、寝たきりにしないよう指導、612日退院となった。

まとめ
・要介護者が二人になり介護の負担が増えることで在宅での介護に不安が生じていたが、介護サービスを利用できるよう介護保険申請を早期に勧めたことや、排泄を始めとする自宅での介護の手順を指導したことにより、退院後の在宅介護の不安を軽減することができた。
・今後も、在宅介護サービスを利用して、在宅での療養生活が維持できるようニーズ
に対応し、調整していくことが課題と考える。今後とも、患者様やご家族の状況に応じた在宅支援に向けて取り組んで行きたい。
討論:
@夫の状態は?
 一時寝たきりだったが、長男の介護により現在は自力で歩行が可能となっている。
A自宅への退院か施設入所か迷ったのは何故?
 経済的理由。在宅が、やはり最も経済的ということになったようだ。
B長男にとって二人の世話が大変と思われたのに、それをやることになったのはどう
して?
 このケースでは、この点がポイント。経済的な理由もあったようだが、長男にとって、
父親の介護で要介護状 態から自力歩行できる状態に回復させることができた実績があったので、母親もなんとかなるという気持ちになれたのではないか。もちろん、入院時から適切な指導があったので長男がこれならできると思ったのだろう。

2)誤嚥性肺炎を起こし病院で最期を迎えた多系統委縮症の1ケース(本ケースは平成23年度定例会に既出)
                         
福祉の森診療所 赤荻栄一
ケース:S.K.67歳 女性 多系統萎縮症 主介護者:夫
家族の希望:夫:できるだけ家で見ていきたい 家族の状況:夫との二人暮らし
経過:

 平成10年頃から、足元のふらつきが出現。さらに言葉のもつれも加わったため、頭部CT撮影。小脳と橋の委縮を認めたため、神経内科へ紹介。オリーブ橋小脳委縮症と診断され、外来での経過観察となった。
 平成20年、通院困難になり、訪問診療を目的に当院へ逆紹介。4月から訪問開始。訪問開始時、つかまり歩き可能で、排泄は自力。8月に入ると立位保持も困難となり、夫の介護疲れも見え、療養棟へ入院を希望。3か月の入院でバルーンカテ留置となり退院。訪問を再開した。
 寝たきりとなって、仙骨部に褥瘡出現。これは、エアーマットにして軽快。しかし、次第に四肢の筋硬縮が進み、関節も固縮傾向。そして、肩や手関節痛が増強した。
 翌年、肺炎のため再入院。3か月後退院したが、入院の間に仙骨部褥瘡が拡大し、ポケット形成。これを、切開し、訪問看護により洗浄を続けてもらい、6か月でやっと軽快。その間、バルーンカテの自然抜去や閉塞、出血や緑変などのトラブルが多発。これらは、膀胱洗浄の回数を増やすことでなんとか解決した。
 またその間、平成22年の夏頃から経口摂取が困難になり始め、誤嚥性肺炎発症。抗生剤の経口投与でなんとかしたが、経口摂取はかなり困難になっており、肺炎の再発が懸念されることから、241月胃瘻造設。(ここまで前回報告)
 その後誤嚥は少なくなり、状態は安定していたが、ときどき血尿が見られていた。253月、多めの血尿が出現。膀胱洗浄と抗生剤で軽快したが再燃を繰り返し、521日には発熱と呼吸速迫が見られたため、肺炎として入院。24日には、一時心肺停止状態となる。その後、人工呼吸器を装着。気管切開を勧められたが、子どもたちが反対。夫はどうすべきか苦しんだが、結局、そのまま気管切開をしない方針とした。
 618日、そのまま永眠した。

まとめ:
・平成208月から寝たきりとなり、夫が一人で介護に当たってきた。
・途中に、縟瘡形成、バルーンカテーテルトラブル、誤嚥などの問題が生じたが、な
んとか切り抜けてきた。
・しかし、ほとんど嚥下ができない状態になり、四肢も拘縮。その時点から誤嚥性肺
炎をくりかえした。
・結局、その誤嚥性肺炎が致命的となり、入院はしたものの心肺停止となり、人工呼吸器装着となった。
・人工呼吸器装着となったところで気管切開を勧められたが、すでに多系統委縮症の
末期の状態であり、人工呼吸器を付けたまま生きることは、ただの延命にしかならないと考え、子どもたちが気管切開に反対。
・夫が最後までこだわったが、結局、延命措置は行ってもらわないことになり、気管
切開を置かず、そのまま永眠した。
・神経難病の末期では、この選択でいいと思うが、介護者の本当の気持ちはどうだっ
たのだろうか?
討論:
@夫の気持ちについて
 
本人は、いつも夫の介護に感謝していた。夫も、本人の表情からどういう気持ちでいるかを理解できていた。ところが、しだいに表情が乏しくなり、夫にも本人の気持ちの理解が難しくなっていた。
 したがって、夫にもそろそろ本当に最期かもしれないという気持ちもあったかもし
れない。
 また、夫には食べられなくなったら最期という思いもあったようだ。ただ、それは
胃瘻造設で乗り越えられた。
 最期の時、呼吸が止まって人工呼吸器をつけたが、その後は意識はまったく戻らず、
夫が声かけをしても反応はまったくなくなった。その時点で、夫もあきらめたと思う。


<<今年度中の定例会開催予定>>
123日(火)午後630分から古河赤十字病院にて
24日(火)午後630分から古河病院にて