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葵月(AOITUKI)後編



携帯の着信音が鳴る
聞き慣れている音なのに・・・
体を即座に反応させるが、すぐにそれが電話の着信ではなく
メールのものだとわかれば携帯電話にかけようとした手も止まり知らずに溜息をもらしてしまう

「・・・違う・・高原さんじゃない・・・」

いつからこうして高原からの連絡を待ちわびるようになってしまったのだろう・・・
当たり前のようにあったことが突然なくなってしまえば
それがいかに大切な時間であったかあらためて身に知らしめられる

拓真からのメールだった

『週末、時間ありますか?』

短い内容のメール
実直な彼らしく、用件だけを素直に伝えている
飾り気のない言葉が今の日樹にはありがたく心の隙間をわずかでも埋めてくれる

不安定な心・・・

日樹は窓辺にもたれ掛かりながら、広がる景色を見つめていた
マンションの南側には広い緑地公園があり、鬱蒼と茂った緑の木々が時に幻想的で
そのまま吸い込まれてしまいそうな錯覚におちいる

いっそ、そうなってしまえば楽になるかもしれない
抑えることの出来ない不安に
日樹は胸元をギュっと握り締めた







「なぁ・・・最近の高原さんおかしくないか?」
部員の一人がもらした言葉に今だとばかりに次々と同調する者が出る
心の中では皆な同じことを思いながらも、人の何倍も練習に集中する高原を思えば、
軽々と口にすることができなかったのだ

「そうなんだよ、いくらなんでもあれは異常だよ」
「あぁ、まわりが全然見えてないっていうかさぁ・・・」
「リレーのメンバーは、ずっとつき合わされっぱなしだぞ」

部員たちの言う通りだった
最後の夏の大会へ向けての意気込みと受け取るには部員の誰から見ても
高原の変わり様は一目瞭然だった
過剰な練習
確かにこの夏が終われば引退しなければならない
だが、何が高原をそうまでさせるのかは誰にもわからなかった

執念・・・まさにそんな言葉がふさわしく
高原の表情も以前のものとはまるで違っていた
その頃からだったろうか
高原と日樹、二人が一緒の姿を見かけなくなり、替わって拓真と日樹の関係が囁かれるようになったのは

それは必然的に高原の耳にも入っていたことだろう

「高原さん、少し休みませんか」
ハァハァ、と息を切らした中西が、さすがに音を上げ上体を苦しそうに屈める

他のメンバーはベッタリと地に腰をつけてしまっていた
高原のペースについていくのがやっとだ

「いや、もう少し走りたい」
だが高原は休む気などまったく無いらしく
考える余地なく中西の提案はあえなく却下されてしまった
日樹の替わりにリレーメンバーに抜擢された一年生

「・・はい・・・わかりました・・」
先輩の意向には逆らえず従うしかない
だが部員全員が部長の高原を尊敬し、新人の中西も例外ではない
その熱意を理解の上でのこと、反する気持ちはまったくなかった

「糸川先輩、佐伯先輩 さ、走りますよ 」
ついにはぐったり寝そべってしまった先輩連中を呼び起こす

「・・わかった・・・」
致し方なく、二人はノロノロと気だるそうに腰を上げる

高原の執念、熱意・・・
それがたった一人に向けられたものであることは誰も気づいていなかった









「すみません・・・急にメールしちゃって・・・」

拓真は頬を紅潮させながら照れくさそうに目を伏せた
真っ直ぐ向けられる日樹の瞳を直視することは未だに慣れない
吸い込まれそうなダークブラウンの瞳が陽の光を浴びてさらに色薄く見える

「ううん・・・」

結局、メールの返信がないので、拓真自ら日樹の返事を聞くはめになる
メールでなら面と向ってこんな恥ずかしい思いをしなくて済むと思ったのだが見事にあてが外れた

金曜日の放課後、なんとか日樹に返事を聞くなり駄目押しをしたかった
休日前の最終チャンス
返事がもらえなかったのはその日の都合が悪いのか、
日ごろ携帯を触れない日樹のことだから返信してこないのか
あるいは断れずにいるのか、いろいろな思考が頭をよぎっていた

「週末空いてますか?」

二度同じことを問う
結局メールは無駄だった

「日曜日の練習が午前中で終わります、その後会えませんか?」
「・・日曜日・・・?」

入院の前日、そのことは担任の教師以外に伝えていない、もちろん高原にもだ
予定など何もない・・・

「・・・うん・・・」
日樹はしばらく躊躇いそして軽く頷いた

やった!・・・

返事をもらった拓真は舞い上がってしまいそうな体を意識的に抑えた
試験勉強を口実に逢うのとはわけが違う
練習に明け暮れる日々が続き、やっと合間に出来た貴重な時間を日樹と過ごせる
プライーベートで誘っているのだからOKをもらうことの価値も明らかに違う

「じゃ、練習が終わったら電話します!」
弾む心・・・
以前、こうして日樹と話していた時に高原が現れて邪魔をされた
だが今は違う
自分だってれっきとした日樹の知人の一人なのだ
遠慮せず自信をもって高原に太刀打ちできる

来るなら来い!
俺だって諸藤さんを守ることぐらいできる

そう意気込んだところで、高原がタイミング良く現れるものでもない
まして高原自身がそれを避けていることとあってはあり得ることではないのだ

「俺、楽しみにしてます」
拓真が念を押して約束を取り交わした二つの影は別々の方向へ離れていく
拓真はグランドに向かい軽快に走リだす
そして日樹は・・・

拓真を見送ってから、ゆっくりと歩き出す
いつも通り一人の孤独な時間を迎えるために
そして

    『いいご身分だ・・・』

拓真と反対方向へ向って歩いていた日樹は数人の生徒とすれ違う
通りすがり、どこからともなくその言葉が耳に入ってきた

  ・・・えっ・・?

振り返ってみるが、それがはたして自分に向けられたものなのかどうかわからない
言葉の主の視線も感じることがなかった
気のせいだったのだろうか・・・

ただ漠然と何に対してのことかは自覚できなかったが、自分に対する戒めの言葉だったのかもしれない
心辺りがまるで無いわけではなかった
胸につかえるもの・・・
それはたった一人への想い




グランドに戻ればさっそく亮輔が何か言いたげに待ち構えていた
「諸藤さんと何を話してたんだよ〜」
「別に〜」

油断するとこぼれてしまいそうになる笑みをこらえ
口を堅く閉じ、日樹との約束を胸にしまいこんだ
教えてなるものか
今度ばかりは亮輔に邪魔をされたくない二人だけの約束

「拓真さぁ、この前の下駄箱の嫌がらせの件もあるから気をつけろよ」
「えっ?・・あ、あぁ・・・」

そうだった、自分の下駄箱に入れられていた男性用避妊具のあの嫌がらせ
忘れていたわけじゃない

「さっき、じっと見てたぜ、奴ら」
亮輔は陸上部に視線をやり、追って拓真も視線を移す

「なんで・・・?」
「番犬は、いねぇみたいだけどな」

どうやら高原は不在なようだった
もしグランドにいれば先程の日樹とのやりとりを見て、まっしぐらに駆けつけ胸ぐらをつかまれていたかもしれない

「諸藤さんも、陸上部だからな」

陸上部・・・
亮輔に言われずとも承知している
いずれ復帰するのだろうか
それとも今のまま?

名も知らず、ただ走る姿に魅かれていたあの頃とは違う
今は諸藤日樹という人間に深く想いを寄せ始めている

高原、・・・そして目の前の陸上部の部員
何か相互に深い関係があるのだろうか・・・

そんな思いが拓真の頭の片隅を過ぎった







梅雨の合間
めずらしく朝から快晴の日曜日だった
そんな日は初夏が近いせいもあり、汗ばむほどの陽気になる
依然、湿度は高く蒸す

早々に練習を引き上げた拓真が日樹と待ち合わせをしたのは
日樹の自宅近くにある広い緑地公園、マンションから歩いて10分とかからない場所
ちょうどこの公園の中央にある噴水前が待ち合せ場所

自転車を公園入り口に停め、
木漏れ陽射す緑葉のトンネルを猛ダッシュで駆け抜けてきた
拓真が計画したのは健康的な青空の下のデート

日曜日の昼下がり、まさかこんな場所でクラスメイトには出会うまい
理由はただそれだけ
今時分の学生なら、デートにはもっと洒落た場所を選ぶだろう
だが野球一筋少年の拓真には到底無理な話

この緑地公園の敷地内には人工的に造られたせせらぎ、多目的に利用可の芝生のグランド
テニスコートなどが設備されている
山林を切り開いて整地されたこの公園はあちらこちらに自然がそのまま生かされ
時折、野鳥のさえずりも耳にすることもできる


待ち合わせ時間よりに先に現れていた日樹は、カットソーにジーンズと特に着飾っているわけではないのだが
ほっそりと均整のとれた体は、制服と違い体のラインがはっきりとわかるにもかかわらずみごとだった
長い足を前に投げ出し約束の場所、噴水前のベンチに座っていた


待ち合わせの場所を目の前にし、拓真はしばらく足を止めていた
四方に飛び散る噴水の水飛沫が陽の光に透け、小さなガラス玉のようにキラキラと輝く
その光景と同じフレームの中に日樹の姿があったからだ
本人は気づいていないだろうが、思わずシャッターを押してしまいたくなるほど美しい被写体だった

 このまましばらく観ていようか・・・

駄目だ!駄目だ!約束の時間に遅刻じゃ失礼じゃないか

時間に間に合うように、着飾らず制服のまま部活帰りにすっ飛んできた拓真
野球部は午前中にグラウンド使用を終え、午後からの使用権利を他の部活に明け渡してきた
拓真にとってはかけがえのない大切な休日、有効に過ごしたい

傍まで行ったら・・・

『諸藤さん、待たせてすみません』 と、声をかけて
それからベンチの隣に座って
そう・・・何から話そう

拓真の頭の中では二人だけの妄想の時間と、その大まかなリハーサルが繰り返されていた
休日の公園は人も多く、その数人が挙動不審の拓真をジロジロと見ながら通り過ぎて行く
救いなのは本人がそれに気づいていないということ

滑稽な姿を他人様に曝し続けてかれこれ5分が過ぎた
やがて意を決した拓真が、一歩踏み出す

「北都くん!」

自分の名前を呼ばれて驚くのは授業中、不意に指名された時ぐらいだろう

「・・は、はいっ!・・・・」
その場に直立不動だ

拓真の姿に気づいた日樹が先に声を掛けてきてしまった
先に声を掛けられては散々繰り返しシュミレーションをした段取りが台無しになる
それに拓真が即座に機転を利かすのは無理な話
ひとつ歯車が狂えば、全てがおかしな動きを始めるのだ

「・・・あ・・・え・・・は・・ははっ・・」

こうなったらもう笑うしかない
少々ひきつりはするが日樹に笑顔の挨拶を返す
そして日樹も、拓真にいつもの笑顔を向けてきた

少し前までの深沈とした美しい面持ちを隠して・・・

目の前にたどり着いたまでは良かったが、
突っ立ったまましばらく気の聞いた言葉が出てこなかった
たった数メートルの距離
しかもそこまでは甲子園初出場校選手の入場行進状態
右手右足、左手左足がペアで動いていたような気がする
意識すればするほど体がぎこちなく動いた
思わず吹き出したくなる拓真の姿に、日樹は失礼にならないよう笑いを堪えていた

それからの沈黙の時間がやたら長く感じられた

噴水で水遊びをする子供達
全身ずぶ濡れになりながらも無邪気に気持ち良さそうに遊んでいる
それを見ている親たちは後々のことを考え、ハラハラしていることだろう

もうすぐ夏が来る

俺もいっそ頭から水を浴びたい・・・
熱く火照る体の熱を取り去りってしまいたい
それに

日樹の隣に座るには練習後の体はいうまでもなく汗臭すぎる
むさくるしく不快な思いをいさせてしまわないだろうか

いきなり嫌な顔をされたらどうしよう
イメージダウン間違えない

かつて異性との間にさえこんなにドキドキと心をときめかせたり身なりを気にしたことはない

隣に座ったら・・・
この心臓の音を聞き取られてしまわないだろうか

それより何か・・・

何の話題から切り出せばいいだろう
単に口実だったとしても、試験勉強につき合ってもらった時は話題に困らなかった
邪魔だったが相棒の亮輔も居た、試験に関連することだけでも会話が成り立った
だが今回は・・・

呼び出したのは自分なのに・・・
聞きたいことは山ほどあるのに

「練習はもう終わったの?」
拓真の心配をよそに、先に声を掛けたのはクスっと笑う日樹だった

「・・・はっ、はい・・・」

優しい笑顔を向けられれば目を逸らさずにはいられない
とにかく照れくさくて・・・
拓真の視線は四方八方に泳いでしまい、付き合い始めたばかりの恋人同士のように初々しい

「・・・確か午後は、・・陸上部とサッカー部がグランドを使うことになっています・・・」

その“陸上部”というキーワードに
日樹の表情が一瞬翳りを帯びたことなど拓真は気づきもしない

「夏の大会が近いから、みんな休日を返上して練習なんだね」
「・・・ええ・・」
決してスムーズとは言えないが、なんとか会話のキャッチボールにエンジンがかかってきた

その調子だぞ・・・頑張れ俺
心の中で自分を声援していた

「・・・隣に・・・座ってもいいですか・・・」
やっと言えた



うん・・もちろん
       ここは君の席だから・・・”

少し都合が良すぎるけど、勇気を出して言えたから
あの人の瞳がそう囁いているように見えた
だから・・・正々堂々と、誰に気兼ねなく隣に座る

傍に寄り過ぎないように適度な空間を開けて腰掛ける
その間ずっと彼の視線を感じていた
だが・・・とうとう一度も目を合わせることはできなかった


「気持ち良いね」
「・・・え?・・・」

その時、拓真はやっと日樹を見た
空を見上げ清々しく大きく息を吸い込む
その横顔は、誰がどの角度で見ても端整だと思う

「拓真くんに誘われなければ、こんな良い天気にもかかわらず
ずっと家に閉じこもっていたかもしれない・・・もったいないことをするところだった」

「・・・そ・・そんなことないです・・・」
憧れの人に思いも寄らぬことを言われ、否定してしながらも内心では褒められたようでちょっと嬉しかった

ううん・・・
日樹が微かに首を振ると髪が軽やかに揺れる

「実は・・・この公園に来たのは今日が初めてなんだ・・・」
今度は日樹が照れくさそうな表情をする

「本当ですかっ!?」

拓真が驚いて当然
この公園は日樹のマンションからも望め、それに歩いても10分とはかからない場所だったからだ

だからあえて足を運ばなかったのか
近ければいつでも来ることができる、そんな風に機会を逃していたのだろう
カップルで訪れ二人の時間を過ごすというなら話は別だが
鬼ごっこをしたり、ウォーキングをしたり、噴水で水遊びをしたり
どれも高校生がここに来る理由としてはピンとこない

「この公園は、俺が中学に入る頃に出来たんです」
拓真が中学生になった年、今から三年前のこと
日樹が朋樹のマンションに住むようになったのはそれよりも後のことだ

「それまでこの辺は雑木林で、何もないド田舎ですよ」
笑っちゃうくらい・・・
東京住まいだった日樹には想像がつかないほどの自然あふれる町だったのだ
それがここ数年でめまぐるしい開拓が進み、
駅前を中心としたお洒落な建物がどんどん造られ広がっていく
まさに町から街への転身で、日樹の住むマンションもその景観にふさわしい造りだった

「そうだ!この奥にテニスコートがあって、ラケットをレンタルできるから・・・軽くやりませんか!?」

部活で散々エネルギーを消耗してきたはずなのに恋の力というものは偉大だ
このままじっと座ったまま、面白くもない話題を持ちかけるよりは
体を動かしながらの方が会話も弾ずむに違いない

亮輔のようにエスコート上手ではなく、むしろバカがつくほど不器用だ
だが自分にしては珍しく気の利いたセリフが言えたものだと自負していると

「・・・でも・・・」
日樹はあまり乗る気ではないようだった

「やりましょう〜!」
少しねだるように日樹を誘ってみる

試験勉強の時もそうだった
快く引き受けてくれた
だから押し切れば、『うん』と言ってくれそうな気がしたのだ
ラリーになるほどのゲームをするつもりもなく
二人で、ほんのお遊び程度の打ち合いを楽しめれば良かった

だが残念なことに
自分があまりにも考えなしに浮かれていたことに気づかされた

「・・・まだ走れないから・・・」
日樹は拓真を責めることなく、申し訳なさそうな表情で静かに
言った

そうだったのだ・・・

いつもと違った容姿に、すっかり大事な情報が抜け落ちていた
体育の授業を見学し
陸上部に退部届けを出していること
大好きな人のことは全部知っていたはずなのに

その怪我の具合も、経過も考慮せずに軽率なことを言ってしまったのだ

「・・・あ・・すみません・・・俺・・・」

一度口から出てしまった言葉は二度とは戻らない

以前もこうして、日樹が一番気にかけているようなことを無神経に言ってしまった

まただ・・・
どうして、俺って

それでも日樹は、詳しいことは何も知らないはずの拓真へ、誤解のないように説明を続ける

「ここに、・・・まだ金属が入っているから」
日樹はそう言ってジーンズの上から左足に手を添える

「これを抜くまでは、おとなしくしていないと駄目なんだ・・・」
決して辛そうな表情ではなかった
それが尚更、拓真の心にチクリと痛い

同じアスリートとして自分の体が思うようにならないはがゆさも、拓真には十分過ぎるほどわかっている
いっそ、『苦しい』 と言ってしまった方がどれだけ楽だろうか・・・
一番楽になれるその言葉が言えないのは、それだけ大物の選手だからだ

「自分では金属が入ってるって感覚は全然無いんだけどね・・・」
「諸藤さん・・・」
日樹の手が触れている左足へ視線を向ける
生々しい事実とは裏腹に、日樹は大したこともないような様子でいる

そしてその金属を取り去るための入院もいよいよ明日に控えている
だが、目の前の拓真には告げない
勿論、高原にも伝えていないこと

「せっかく誘ってくれたのに、ごめんね・・・」
「そんな・・・」

この事故一連にまったく無関係だったから、真っ直ぐ自分に気持ちをぶつけてきたから
日樹も拓真には話す気になったのだろう

誰のことも恨んだりしていない
誰が悪いのでもない
少しだけ歯車が上手く噛み合わなかっただけ
それより手術が終わってからの自分がいったいどうなるのか不安だ
新しい歯車がきちんと廻れば良い
運良く最初からスムーズに廻ることはないだろう
その時に受けるダメージを自分が乗り切れるかどうかもわからない
そして高原との関係も、もうこれで・・・

「完治したら、また・・・走ってくれますよね」
「・・・えっ?・・・」

「だって俺・・・貴方の走る姿を好きになって・・・」
高校に入り、やっと日樹と念願の再会をはたした時にもそう告白したはずだ
演技でない拓真の素直な気持ち
飾らない言葉が一番嬉しい

他人のことにこんなに親身になって
「・・・そうだね・・・」
日樹は拓真をなだめるように静かに返した

実のところ日樹自身は気づいていないが、それは本心で一番望んでいること
周囲の人間のことを優先して考えるがために、心の奥底に追いやってしまった自分の正直な気持ち

身の振り方などまだ決めていない
なるようにしかならない現実を真正面から受け止めていくだけ
だが今は、拓真にそう答える

日樹が少し無理をしているのではないかと思えば拓真は次の言葉が見つからない
噂は色々と聞いた
それがどこまでが事実なのか確かめたい気持ちもあって日樹に逢いたかった

ひとつひとつ確かめていくことは
その度、日樹に残酷な思いをさせることになるだろう

今だって・・・

噂の真相を知ったところで過去のことなどどうにもならない
日樹が変わるわけでもない
事実はこうして今、目の前に彼が一緒にいること

うな垂れる拓真の顔を日樹が覗き込む
「少し歩かない?・・・」

あまりにも屈託のないその笑顔が重々しくのしかかっていた空気を解き放ってくれた
日樹のさり気ない気遣いが窺える

“お前はすぐにウジウジするから”

相棒の亮輔にいつもそう叱られる
そうは言うが、試合中のリードは亮輔に任せっきりなのだから
依存心が強くなるのも仕方ないこと
刻々と過ぎていく時間、日樹との貴重な時間を無駄に使うことは出来ない

そうだ・・・

「・・・奥の方に行ってみませんか?」
何か思い浮かんだのだろう、拓真は気を取り直したようだ

先ほどまで噴水で遊んでいた子供達もいつの間にか居なくなっている
ベンチから先に立ちあがった拓真は日樹の目の前に立ち、自らの手を差し出す
姫をエスコートする王子の様な仕草
拓真のボールを握る、節々の太くてしっかりした指が誘い
やがて、ちょっと照れくさそうな拓真の手のひらに日樹の手のひらが重なる
細くて長い指は拓真のものとは対照的だった

「行きましょう」
「・・・うん」

重なる指を絡めると拓真がそっと握り、日樹の体を自分の方へ引き起こす


緑の木立の中を歩く
広い敷地の自然公園はまだ完成してから数年しか経っていない
ところどころにある憩いの場所は柱や屋根に木材を利用し、
自然の中に違和感なく溶け込むデザインの建物だった
青々と茂った芝生はきちんと手入れされている
ここが整地される前からの住人なのだろう、耳を済ませば時折野鳥が二人に囁きかけてくる

握った手のひらが合わさると互いの体温で徐々に汗ばむ
それさえも構わず、目的の場所までまっしぐらに歩く
拓真は日樹の足を気遣い、時々振り返りながらペースを確認しては少し早足で歩く
手のひらを通して日樹の息遣いも伝わってくる

熱をもつのは手のひらだけではなかった
拓真の顔は今にも湯気が立ちそうなほど熱い
どこへ連れて行かれるのか少々不安そうな日樹に声を掛ける余裕も今はない

すれ違う人々の視線を感じれば
男同士、手を繋いで歩く姿は奇妙だろうか
恥ずかしさと日樹とこうしていることを天秤にかければどちらが比重を占めるか言わずと知れている
見物人の興味は一切気にかけない

やがて木立が途切れる頃、目の前にせせらぎが飛び込んできた

「やってる、やってる」
拓真は日樹の顔を見てから一度頷いて名残惜しく手を放す

せせらぎには数人の小学生が拾ってきた木の枝の切れ端から糸をたらし、真剣な表情で水面をじっと見ている

「・・・?・・・」
日樹には拓真の意図がすっかり不明だ

「ここでザリガニが釣れるんです」

「・・・ザリガニ?」
学業が飛び抜けて優秀な日樹にも持ち備えていない知識がある
今まで生きてきて特に必要でなかったこと、残念ながら体験しなかったことがそれである
ザリガニの姿は知っていても、こんな光景を見るのは初めてだった

都会に住んでいた日樹には自然と接する機会は少なかったのではないだろうか
家族でアウトドアに出かけていたとしても、こういったレアな遊びは田舎の少年しか知らない技
拓真はそう確信していた

「ザリガニを・・・釣るの?」
「糸の先にスルメを結んで垂らしてやると、岩場の影に隠れたザリガニが食いつくんです」

拓真が説明するが、日樹にはどうしても想像し難い

人工的に造られたせせらぎは上流から循環水が流され、下流は澄んだ浅瀬の池になっている
春にはおたまじゃくしがにぎやかに列をなし泳ぎ回る
目を凝らせば小さな魚や鯉も優雅に泳ぎ廻っているのを発見できる

拓真は水面際の小学生に駆け寄ると、お手製の釣り道具を拝借していた

「見ててくださいね〜」
頼もしい顔を日樹に向けると
小学生の列に一人の大きな子供が紛れ込み、場所を選定すると即座に糸を垂れた
おまけに拓真はすぐに子供たちと馴染み、ご丁寧にアドバイスまでしていた
追いかけて歩み寄り、日樹はその様子をじっと見つめる
真剣な拓真の表情は、いつかマウンドで投げていたその時と同じ好感の持てる真摯な瞳だ

数分としない間に拓真が歓声をあげた
「きたっ! 諸藤さん、見てください!」

拓真の垂れた釣り糸に見事な獲物がかかった
それは周りの子供らも驚くぐらいの大物だ

「ほらっ!」
「・・・拓真くん・・・すごい・・・」

しきりにハサミで威嚇し、胴体を丸めたり伸ばし逃れようとする獲物を日樹の前に披露すると、
案の定、目を丸くして驚いていた
近くに居た小学生たちもどれどれ?と一斉に集まって、いつのまにか輪の中心になり
“名人”と称えられ、拓真はすっかりヒーローになっていた
この名人芸も実をいえば小学生のころ、亮輔に伝授してもらった技の受け売りに過ぎない

素の自分を知ってもらいたかった
決してカッコよくはない、少々幼く子供じみたことだが、
呆れたりせず日樹はきっと珍しがって喜んでくれるはずだと勝手な思い込みもあった 


梅雨の空というのはどこか不安定だ
拓真が5匹目の獲物を釣り上げる頃、西の空が湿気を含んだ低い雲に蔽われはじめていた







拓真の所属する野球部が午前中に練習を終えると、午後からは交替で他の部のグランド使用になっていた
そこに練習の始まりをたった一人で待つ高原の姿があった



“一年の諸藤です  陸上の経験はありませんが宜しくお願いします”
彼は短くそう挨拶した


中学時代、名をとどろかせた選手、全国に知名度高い出身校を誇らしげに語る選手、
けれども彼の自己紹介には特にインパクトは感じられなかった
いや、逆に未経験ということが印象深かっただろうか

背が高いとか、陸上向けの良い体格をしているとか、前評判の高い選手だとか、どれにも当てはまらなかったが
新入部員数名の中でひときわ目立っていた
他の誰とも違っていたのは、意志の強そうなその瞳と佳麗な容姿のせいか
不思議と興味をもって彼を見ていたのはその頃からかもしれない

何かを忘れるために走っているように見えた
そのせいか未経験というだけにフォームはまるでなっていなかった
が、それが幸いし顧問の指示で矯正するとすぐに持ち前の運動神経の良さが生き、好タイムを出し始めた
すると今度は走ることを楽しむように、その表情からも爽快感が伝わって来るようになり
その後もみるみるうちに成長を続け、こと更に目にかけられるようになっていった

それが・・・
もともと己の力に自信があった連中の自尊心を逆撫でし始めた

寡黙な彼は、周囲とあまり馴染むこともなく
それが顧問に贔屓されている、お高くとまっていると誤解を受けることになってしまった
一年生さながら大会出場メンバーに抜擢された時はかなりのバッシングを受けたことだろう

彼はそれにも屈することなく使命を全うし
我校始まって以来の大会記録を出したのだ
本来なら栄誉を称えられるべきなのに、それがさらに部員たちの醜い嫉妬を沸き立たせた

三年生が引退したあと、二年の高原が部長となって陸上部を率いることになり
高原なりにチームワークをまとめようと試みるが、一つだけどうしても上手く事が運ばないことがあった

孤独に追いやられた日樹の醜聞を見つけ出しては
チームメイトが追い討ちをかけるように穴をほじくり返し面白半分に罵った
都内の名門私立中出身だということ
それが教師との関係を取り糺され退学になったということが脚色され嬲るように噂された

それは残念なことに単なる噂ではなく事実であったと、日樹と関係した高原自身が裏づけを取ることになってしまった
かつ、過去の呪縛を今でも引きずっているということも

そして三ヶ月前
あの日の事故・・・

誰もそんなことは予期しなかった
当事者たちは軽率で過ぎた言動を悔い、この上もなく後ろめたい思いをしたはずだ
だから
今はもう誰も何も口にしなくなった

部内で起きてしまった不祥事
至らなかった部長としてせめてもの責務をはたし、入院中の彼を毎日見舞った
いや、きっと気持ちはそれだけではなかったのだろう

陸上選手にとって不可欠である足に外傷を受け
再起不可能は免れたものの、その姿を見て心を痛めずにはいられなかった

事故以来
彼の姿はグランドから消えてしまった
もう・・・
戻ってはこないだろう


諸藤
お前はどんな思いでいるだろうか・・・


「高原、おいっ、高原」
「・・・ん」

何度も呼ばれていたらしい
練習時間よりだいぶ早くグランドに来てしまうクセが抜けない
いつものことだ
そうしては時間をもて余し、もの思いにふけってしまうのだ
後からやって来た同輩に決まって現実へ呼び戻される

「どうした?高原」
「いや・・・」
「今日は珍しく晴れてるな、でも夕方からは雷雨になるってさ まったく梅雨の天気は変わりやすくて嫌だよ」

「そうか・・・」

入れ代わり立ち代り、チームメイトが隣に腰を下ろし差しさわりのない会話を交わしては去っていく
高原が何を考えているか察しているのだ
最近少し神経質になっていることも皆が案じている

空を見上げればこれから雷雨になるとは思えないような快晴の青空だ

「あとちょっとで終わりだな」
三年はこの夏の大会が最後に引退を控えている

「あぁ・・・」
「肩に力を入れすぎず 互いに後悔のないようにしようぜ」
「そうだな」

高原は一言、二言短く返事を続けた
高校生活現役の大会は泣いても笑ってもこれで最後なのだ

「さ〜て、ぼちぼちメンバーも集まったみたいだし練習を始めようや」

・・・そうさ、やらなきゃな
       諸藤、お前の分も・・・

高原は自嘲気味に笑みを浮かべ、己に言い聞かせた







「諸藤さんもやってみますか?」

拓真が声をかけたのは、
興味深さそうな日樹に見つめられ続けているのがとうとう堪えられなくなったからだ
じっと見つめられているのは案外苦痛なものだ
それが自分の想い人となれば尚更のこと

「俺の貸してやるよ!」

馴れ馴れしく拓真の隣にいた小学生が即席の釣竿を日樹に差し出した
恰幅の良い、アニメの主人公の親友に必ずにいそうなタイプ

「・・・いいの・・?・・・」

日樹も戸惑いながらもやる気があると見える
池の淵の特等席を一つ空け、その場所を日樹に譲る少年
高校生の日樹をつかまえて動じない態度は見た目通りであった

「ありがとう・・・」

嬉しそうな日樹の笑顔を拓真は見逃さなかった
日ごろ、このくらいの年齢の子供と接することがないのだろうか
拓真のように自然には溶け込めないようだが、それでもザリガニ釣りの名人のお連れ様というだけあって
日樹は子供たちから特別待遇で受け入れられていた

手順は今まで拓真や子供たちの姿を散々見ていたから頭に記憶済み
日樹は見よう見まねで水面に糸を垂れる

単純でたわいもないことなのになぜかワクワクしてじっとしていられなかった
何の思惑もなく童心に返ることがこんなに楽しいことだとは思わなかった
自分の生活にはあまり縁がなかったこと
いや・・・気づかなかっただけかもしれない

家族の愛情深くいつも守られていたからいつしかそれが当たり前になり
小さな感動を忘れてしまっていた

「あっ・・・」
釣り糸を垂れてまもなく日樹が声を上げた

引き上げた糸の先を見れば、まんまと餌を持っていかれている

「下手くそだな〜」

遠慮なく言うのは先ほどの子供だ
たとえそう思ったとしても、自分でさえ言えないことをはっきり言ってしまい
日樹が気を悪くしないかとハラハラとする拓真

次の餌に糸にくくり付けようとする日樹の手際があまり良くないと
今度は
「あーあ、駄目だよ〜  おねぇちゃん〜」

すかさず、こちらによこせと手を出すが早いか、日樹の手元からさっと奪ってしまった

・・・・“おねぇちゃん”?

どう考えても、今の“おねぇちゃん”は日樹に向けられた言葉だろう
ふき出しそうな拓真と顔を見合わす
そんな拓真や日樹にもお構いなしに、胡坐で座り込んだ少年は夢中で餌をくくりつけている

「おい・・・」
拓真が少年に呼びかけ、この人は“おねぇちゃん”じゃない、“おにいちゃん”だぞ
と首を振って否定し言い聞かせる

「ん?・・・あ・・・なんだ、にいちゃんか」

日樹の胸元をチラッとも見て、いともあっさり納得したようだ
少年には、にいちゃんでも、ねぇちゃんのどちらでも拘るほどのことではないらしい
日樹はすっかり呆気にとられていた

「できたよ、ほらっ」
「あ・・ありがとう・・・」

少年はぶっきらぼうに言って、新しく餌の付いた枝を日樹に差し出した
おやじギャルとは聞くが、おやじ子供?どうも仕草や口調がおやじっぽい
風体は丸みを帯びてとても愛嬌があるのだが・・・
日樹がそう気を悪くした風でもないので拓真はそのまま見逃すことにした

ただ・・・
日樹が夢中になり過ぎて、拓真自身の存在をすっかり忘れていることが予定外だった
それでも身近で共有の時間過ごせる
日樹の笑顔を見ていられる、それで十分だ
それに少年はなぜか日樹のことを気に入ったらしく、それからずっと日樹にべったりとくっついていた



時間の経つのは早く
あれからどのくらいザリガニ相手に格闘して過ごしただろう
上空はすっかり雲行きが怪しくなっていた

降ってこないうちにそろそろ
その時にはもう遅く、ポツポツと雨粒が地面を濡らし始めていた
子供たちも慌てだし身の回りのものを自転車のカゴに押し込むとそれぞれ家路に就いた
その行動の早さには驚くばかり、今ここに居た全員があれよという間に見えなくなってしまった

雨足は驚くほど早くボトボトと音が立つほどの大粒の雨に変わってきた
とりいぞぎ拓真と日樹は間近の木陰に二人で身を寄せる
互いの息遣いが感じられるほど狭いそこは、濡れぬように雨をしのげば体がすぐ触れてしまう
映画のワンシーンならここで二人は見つめ合い
そして・・・
勝手な妄想をいだき、しばらくこのままこうしているのも悪くない

「あんなに良い天気だったのにね・・・」
まだ満足できなかったのか、よほどザリガニ釣りが気に入ったか
日樹は空を見上げて不満そうだ
空を見上げても一面は灰色の雲に蔽われ、それは増すばかり
雨が止むのは期待できなさそうだ

公園の一番南奥に位置するこの場所から自転車を停めた公園入り口まで走って戻れさえすれば、
後はまっすぐ家まで自転車を飛ばして帰れば良い

日樹もそこまで行けばマンションがもう目の前だ
だけど・・・

「僕の家に来る?・・・・・」

木の葉に溜まった雨の雫が肩に落ちた

「え?」

拓真の頭にけしからぬ期待が走った
諸藤さんの家に・・・?
考えてもいなかったこと

「・・・ただ・・・今日は義兄がいるんだけど・・・」
「あ、・・あぁ・・・」

その期待は一瞬にして萎む
雨が止むまで待避しないか、という意味だったのだろう

一度お目にかかったことのある日樹の義兄
その威圧感は、9回の裏ノーアウト満塁の危機状態で投げる投手と同じぐらいの緊張感を与えられた
忘れてはいない

「大丈夫です、自転車で走ればすぐだから」

「それなら、拓真君先に行って」
「・・・でも・・・」

自分に付き合って一緒に歩いたのでは
自転車にたどり着くまでにびしょ濡れになるから、それが日樹の気遣いだ
このままこうしていても何時止むとの保証がない
それに徐々に降りはひどくなりそうだ

「僕は・・・歩いてもすぐだから」

公園の入り口、拓真が自転車を停めた処まで走れば数分とかからない

俺はそれで良いけど諸藤さん、貴方が・・・

「大丈夫だよ」

拓真の心中が全て読まれているようだった
澄んだ瞳を真っ向から向けられては無下には断れないばかりか
このまま別れるのでは名残惜しすぎる
できればマンション前まで送って行きたかったが譲り合っていても埒があかない

「今日は楽しかった・・・」

最後は笑顔で押し切られる
もう少し、そう思うところが退き際だ
「・・・・じゃ・・・明日また」

「気をつけてね」
「諸藤さんも」

「月曜日に学校で・・・」
明日も変わりなくまた逢えるだろうと
拓真はそんな軽い気持ちで別れを告げ一気に走り出した

振り向けば見送る日樹の姿が少しずつ小さくなっていく



自宅に着き濡れた制服を脱ぎ散らかし
シャワーを浴びながら、拓真は貴重な時間を過ごした今日一日を振り返る
子供のような日樹の表情、そして笑顔、驚いた顔
どれも拓真には鮮明なことばかりで
今夜は興奮して眠れないのではないだろうか・・・

ひとつ、別れ際の日樹の表情だけが
なぜか心に引っかかっていた

「明日また・・・」

拓真がそう言った後、日樹がやけに寂しそうで
その時日樹が胸のうちに重大な事実を隠していたとは思いもしなかった
拓真が日樹の入院を知ったのは、週明け
日樹の姿が見えなくなって三日目のことだった





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蘭月