第一章 継承

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六、襲撃

 直政は松平家屋敷から城下のある屋敷に入った。ここには元景と十左衛門がおり、左馬介配下の忍びが足軽に扮して警備していた。さらに屋敷の周辺を守るようにして松平家士平津伍兵衛らが守りを固めていた。これだけを見れば襲撃される不安などどこにもないように思われた。
「ふん、たかが童子1人殺るのに我らが出張らなくても良いものの…」
屋敷が見える民家の窓から様子を覗っている男が隣にいる髭男に言った。
「ともあれ、念には念をな」
「………」
髭男は黙って頷くと味方のところへ向かう。向かった先は伍兵衛の配下のところだった。どうやら、彼らは忍びのようで髭男を見るとわずかに一礼する。
「気づかれた様子はないか?」
「はっ、今のところは…」
「わかった」
髭男は口を真一文字にしたまま、屋敷を見つめていた…。

「ほう、やはり動いたか」
「はっ」
直政は左馬介配下の中野忠勝から知らせを受けて頷いた。
「伍兵衛を呼んでくれ」
「はっ」
足軽に扮した忍びが伍兵衛のもとへ走っていく。
 平津伍兵衛は元々は松平家臣ではなく掛川の朝比奈家に仕えていた。文学博士でもあった松平清政が諏訪原城主になった際、その豊富な知識を開放しようという噂を聞きつけて伍兵衛は清政の門を叩いた。すでに朝比奈泰能のもとを辞していたため、松平家臣となって教えを受け継いだ。伍兵衛は飲み込みが早く、一番弟子として清政の治世のもとその能力を発揮し、今は諏訪原周辺の山を管轄する山奉行となっていた。武人でもあったため、当初は直政のことをかなり侮ってみていた。
(たかが童子1人で何ができるか!?)
と思っていたのだが矢野攻防戦において劣勢にも関わらず、奥山勢に大打撃を与えたことを知ると少しは思い直したようで、
(ほう、やるではないか…)
と感心したという。しかし、直政には城がないという事実を突き付けられると伍兵衛は、
(守るべき家がなくば能力があってもどうすることもできまい)
とまた元の鞘の気持ちに戻っていた。それでも、その裏をかくようにして直政が金子城へ復帰したことを聞くと伍兵衛は呆然した。まさか、という思いが強かったようで勝ち目のない戦いを制した理由を逆に聞きたくなっていたところに直政の警備を仰せつかったのだ。けれども、留守居を務める松平清之から、
「会うことは罷りならぬ。お主は屋敷の警備だけをしておればよろしい」
と厳命されていたので警備の段取りについて相談したのは元景であった。そのため、今までその姿すら見たことがなかったのである。足軽に案内されて居間に入る。
「よくぞ参られた」
直政は上座ではなく、元景や十左衛門らと輪を囲むようにして座っていた。
「失礼致します、お呼びと聞き参上仕りました」
伍兵衛は丁寧な口調で鎮座する。
「宮琵の兵がここを襲うらしい」
「えっ!?、真にござりまするか?」
「うむ。今しがた知らせが入った」
「何と!?」
驚きを隠せない。
「一体、どこからそれを…」
屋敷から一歩も出ていないはずの直政がどこから情報を仕入れたのか、伍兵衛にはわからなかった。
「わからぬか、屋敷を守る者は全て忍びであることに」
この言葉を受けて伍兵衛は中庭にいる足軽を見た。見た目は網笠をつけた足軽に違いなかったが…。
「平津よ、そういうことだ」
元景が言う。しかし、これに納得するはずがない。なぜなら、伍兵衛は忍びという存在を忌み嫌っているからだ。影で動く忍びは武士道に反するものであると認識していた。左馬介配下のお耀というくの一が苦笑している。お耀には何らかの方法で人の心が読める能力があった。敵に回せば左馬介とて危ういはずなのだが気にしている様子もない。じっと中野忠勝の脇に控えている。
「し、しかし、ここまで厳重な警備をしているのですから、おいそれと…」
伍兵衛がそう言いかけた途端、はっと気づく。
「ま、まさか…」
唖然とした表情で直政らを見つめていた…。

 男が髭男に近寄る。
「伍兵衛が屋敷の中に入ったきり出てこなくなった」
「ふむ…、どういうことじゃ?」
「まさか気づかれたとか?」
「そんなはずはなかろう」
「いや、直政が気づいたとしたらの話しじゃ」
「中を覗うことはできぬのか?」
「話しでは庭には足軽だけらしい。だが…」
「どうした?」
「女が混じっていたらしい」
「女とな?」
兵に女などいるはずがない。
「忍びか…。しかも、左馬介の周りにいる忍びは手練揃いだろう。してやられたわ!」
男が怒鳴るが髭男は涼しい顔をして屋敷を見つめる。
「どうする?」
「決行は明日昼」
「昼だと!?」
男が唖然とする。
「夜のほうが警戒が強いだろう。昼なら襲うまいと思うているときが頃合だな」
「わかった」
2人の決断は決まった。すぐに伝令が出される。屋敷の表に足軽に扮した忍び20人に加えて裏にも多数の忍びを配置していた。彼らは静かな動きで屋敷を包囲していく。屋敷の門は開かれたままになっていた。屋敷の中でも表を窺う体制が取られつつある。
「そうか、忍びを集めたか」
直政は忠勝からの知らせを受けていた。元景や伍兵衛も聞いている。十左衛門は冷静を保っている雰囲気をかもし出していた。
「間に合わなかったか…」
元景が呟く。それを聞いた伍兵衛が言う。
「清政公は必ず来られます」
「そうだな。皆に告げよ、無駄死にはするな、とな」
直政は逃げ道を失ったと確信し、死ぬ覚悟を決めていた。ここにいる者たち全員がそういう思いだったのかもしれない。

 一方、直政より金印を預かって単身、清政のもとへ向かっていた左馬介は半日かけて悪路を突破した結果、清政の隠居所近くまで来ることができたのだ。恐るべき足の速さである。しかし、周りには忍びの目が光っていた。すでにここまで来るのに数人倒している。宮琵の忍びではないようだが敵には間違いない。かなりの殺気で満ちている。明らかに左馬介を狙っていたが気にする様子もない。このような苦難など朝飯前だからだ。清政がいる庵は山の麓を覆い茂る松林を背に正面には広々とした草原、それを遮断するかのように小さな川が流れていた。左馬介は庵がよく見える位置にいた。全神経を機敏に反応させる。庵からは人の気配を感じているがそこに至るまでに無数の気配も感じ取っていた。
(どうする?)
左馬介は自分に問う。敵の動きを見張るが攻撃してくる気配はまったくなかった。
(ここから一歩出れば、まさしく死地に相当するが…。いや、待てよ、たしか…、清政公にも忍びがいるのではないのか?。以前、松平にも忍びがいると聞いたことがあったな。よし!、やってみるか)
左馬介は意を決して懐から金印の箱を取り出して蓋を開く。純金で練り上げられた金印が光輝く。それを取り出して天高く持ち上げた。金印の光は左馬介の手の中に収まり切ることはなく、周りの草木を輝かせた。そして、その光に導かれるようにして数人の忍びが息を飲んだ。それだけ金印の輝きは素晴らしかったのだ。呆然と見つめる中、全てのものを遮断するかのような叫び声が響く。
「我は金子照政公の一子直政に仕えし忍び・亀井左馬介信永と申す!。長老にお会いしたい!」
張り裂けんばかりの声が庵の中で鎮座していた清政の耳にも届いた。
(ふふふ…、何たる大声か…。忍びにしておくのはもったいないな。だが…、とうとうここまでやってきたか…。わしを隠居に追い込んだ息子の顔など見たくもないが金子の倅に会うのも良いか…)
白髪白髭の清政は控えていた忍びの長に言う。長は黒装束ではなく、武士の姿をしていた。
「あの者をここへ」
「はっ」
長は一礼して退がった。しかし、清政は長が戸を閉める寸前に微笑んだことを見逃さなかった。黒装束ではわからないはずだった。
(いかん!、あの者は殺される!)
そう察知して隣の部屋に続く障子を開いた。ここには忍びの他に隠居する前まで仕えていた腹心も連れてきていたのだが腹心は清政の目前に違った形で現れることとなった。真っ赤な血の池が死体を中心にして出来あがっていた。すでに殺されていたのである。また、台所では女子2人と童子2人も殺されていた。清政は愕然となったが庵を囲まれている状態では逃げることは不可能に等しく、亀井忍軍最強の手練でもある左馬介の力に頼る他になかった。しかし、左馬介もまた忍びに対しては心を許すつもりはなかった。本当に心を許せるのは清政の顔を見てからと思っていたのもあったが殺気や死臭を感じたことも災いしていた。左馬介は疾風の如き速さで草原を駆け抜ける。左右に散らばっていた忍びたちの足も速いが長年鍛錬を積み重ねてきた左馬介の敵ではなかった。瞬く間に庵の手前に着くと一気に屋根の上に飛んだ。勢いがあったとしてもかなりの跳躍力である。忍びたちは次々に左馬介を追って屋根にあがるが足が着く前に返り討ちにされて中庭に落ちる。続いて背後からも数人現れ、左馬介に斬りかかる。直刀を構えて振り向き様に脳天から真っ二つにし、手甲で相手に一撃を加えて腹の急所に突き刺す。
「ぐ…」
また1人忍びが屋根から落ちる。左馬介は懐から手裏剣を取り出した。ただし、ただの手裏剣ではない。普通の手裏剣ならば避けてそれまでだろうが左馬介のは違った。手裏剣が放たれる。案の定、忍びたちは避けようとした瞬間、突如、爆発したのだ。焼けただれた忍びたちが次々に左馬介の前から自滅していく。
「変わった武器を持っているようだな」
長らしき男がやって来た。目以外は黒装束に包んでいる。異様な空気が左馬介の肌に触れる。この時、左馬介は一瞬動きを止めた。
(この気配は…)
自分がよく知る人物が放つ空気に似ていたからである。しかし、戦いを前にして怯むことは許されない。左馬介は手裏剣を投げた。長は爆発を避けるため、跳躍を利用して少し離れた場所に落ちつく。爆発は大量の煙に変わっていた。庵を覆い尽くすほどの煙は左馬介にとって絶好の目晦ましとなった。
「しまった!」
長が気づいたときには左馬介の姿はどこにもなかった。気配を消しての脱出は真に見事なものだった。
「ちっ…」
長は舌打ちした。そして、左馬介に気を取られている間に清政もまた姿を完全に消していたのである。2人は途中で合流した上で敢えて諏訪原・朱鷺田両城には向かわず、廃城となっていた塚嶋城に入った。すでに風化した石垣だけしか残されていなかったが規模はそのときの繁栄を物語る。ここを治めていた塚嶋氏はかつて朱鷺田家と森家の双方と勢力を争っていたが朱鷺田家との和睦に怒った当時の森家当主森長吉に攻められて城に火を放ち、妻と共に自害して果てたのである。生き残った子供は家臣と共に落ち延びたらしいがその生死は定かではない。
「左馬介よ、真に久しいな」
清政が言う。あれだけの激戦にも関わらず、手傷すら負っていない。
「はっ、清政様もお元気でなにより」
「元気か…。たしかに体だけは満足かもしれぬが…」
「追放されたのですか?」
「お前は相変わらずはっきり言うのぉ…」
清政は馬鹿正直な左馬介に呆れた。
「だが、その通りだ。清忠の奴に城を追われた。私は仕方なく清忠の手が届かぬ場所に居を構えることにしたのだ。しかし…」
腹心たちが殺された痛みを心で感じ取っていた。
「左馬介、礼を申すぞ。私をまた動乱の世に出させてくれたことに…」
清政は新たに決意を胸に誓いを立てていた。翌朝、2人は追手に警戒しながら旅人となって朱鷺田城に入った。城主朱鷺田忠政と嫡男忠勝は留守にしていたが諏訪原より駆けつけた真概父子と長居弘政の父信政が2人を出迎えた。
「清政殿、お懐かしゅうございまする」
「皆の者、元気にしておったか」
「ははっ、それはもう」
清政を知る信政と利康の父利政が喜びの声をあげた。しかし、清政の表情はすぐに真顔に戻る。次ぎの手を打つ。文人である以上に策士でもある清政はすぐに指示を出す。直ちに諏訪原に使者を出すと共に左馬介にも言い放つ。
「わしが襲われたとなれば若にも危険が及ぶのは間違いなかろう。左馬介、行ってくれるか?」
「承知」
左馬介は疲れも見せずにすぐに自分の里に使いを出した上で朱鷺田城周辺で待機していた忍びを率いて諏訪原に向かった。朱鷺田と諏訪原の領地は隣同士であり、左馬介の足ならばすぐに行ける距離だった。

「そろそろだな。城下に火を放て」
男が配下の忍びに命じた。忍びたちは消えるような素早さで行動を移す。去る忍びを見つめていた髭男は静かに笑っていた。
 その頃、諏訪原城下にて清政からの使者が到着したが城に入る前に闇に消されてしまった。しかし、左馬介配下の中野忠勝らの尽力もあり、只ならぬ事態を未然に防ぐため、留守を預かる清之は家老土屋頼持に命じて兵を総動員したが事態は急変する。城下の数箇所から一斉に火が吹きあがり、もくもくと煙と匂いが城下を覆い尽くし始めた。清之は土屋に消火を託して自ら2百の兵を率いて直政がいる屋敷に急いだ。けれども、城下が混乱し、人々で溢れかえった道を行くのは困難を極め、動くに動けなかった。
「これが狙いか!?」
清之は舌打ちした。
「このままでは間に合わぬ」
直政の死も予感し、かなりの焦りを見せていた。
 一方、屋敷を取り囲む忍びたちは男の命令で一斉に屋敷の塀を越えて侵入を図る。屋敷内からは矢や手裏剣が放たれる。手裏剣は忍びが刀で弾こうとした瞬間、大きな音と共に爆発を起こした。左馬介が清政の庵で使った手裏剣とまったく同等の武器である。突然の反撃に敵は怯む。
「な、何だ!?」
威力は凄まじく直撃した者は丸焦げになって散っていく。さらに屋敷の裏を流れる小さな川にも油を流して火を放ち、水中で待機していた忍びを滅する。壁を少し焦がしただけで被害は小さく、髭男が再度攻めようと試みるが城下の消火に当たっていた兵たちに見つかってしまい、挙句に土屋率いる増援の到着もあって屋敷の外は混乱した。屋敷内では十左衛門が庭で、元景は裏手で、直政は正面で忠勝らと共に善戦していた。敵が門を火薬で吹き飛ばし、破片が飛び散る。飛び散った破片は屋敷の至るところに飛び込み、十左衛門が負傷した。傷を負った十左衛門は直ちに屋敷の中へ運ばれ、手当てを受ける。その間にも敵は待つことなく屋敷内に乱入した。屋敷の外では優劣は決していた。土屋に加え清之も到着し、瞬く間に忍びたちを一掃しにかかる。消火のほうは風がないためもあり、ほぼ鎮火の道を辿っていた。作戦が失敗だと悟った男と髭男は死を覚悟し、男は直政の姿を発見するや突進する。直政は退がることなく、両手を広げて天を仰ぎ始めたのだ。この異様な行動に度肝を抜かれた男は疑心暗鬼に陥った。
(何だ!?、この異様な感じは…。死を覚悟してのことなのか?、それとも妖術の類か!?、このまま行けば死ぬかもしれぬ。しかし…)
男はそう予感したが何てことはない。相手がどう出るか見定めたまでのことである。男は忍びの直感で危険と判断したが直政は心で笑っていた。ただ、相手がそのまま突っ込んできたら戦うまでのことで退く気などさらさらない。男は呆然としているところを駆けつけた左馬介が背後から斬りつけた。突然の激痛が男を我に返させる。
「く、くそっ…」
直刀を構えるが傷は思ったより深く、男は正体がばれるのを恐れて自爆の道を選んだ。凄まじい爆発力で男が散った。死を覚悟して命を散らしたおかげで屋敷の外で展開していた髭男らは退却することに成功したのだ。皆がこの男の意識を集中させていたためでもある。逃げ遅れた忍びらは左馬介・忠勝らによってその短い命を奪われた。危機を乗り越えた直政方の被害は少なく、命を落とした者は零に等しかった。残された敵の死体は左馬介らの手によって消し去られ、その痕跡は以前と変わらないものとなっていたのである。
「今回だけは死んだと思ったわい」
元景がほっとした表情を見せる。
「何の、裏手の敵を退かせただけでも見事というしかありませぬ」
負傷して戦線を離脱した十左衛門が言う。
「しかし、あの手裏剣はかなりの威力だったな」
直政が控えている忠勝に言う。
「はっ、あれは火薬手裏剣と申し、攻撃力のみを増大させた武器にございまする」
「強さは凄まじいな」
「ですが、雨には脆うございます」
「ふむ…。火薬を使う分、威力が半減するというわけだな」
「御意」
「しかし…、これにかわる武器はいずれ出てこような」
直政がしみじみと言う。
「それも時の流れというものです。今をどう判断し、行動するかによってまた別のものが生まれてくるでしょう。故に今を大切にしなければなりませぬ」
元景が言った。直政は頷くと風に当たるため立ち上がった。庭に左馬介が控えている。お耀もいた。
「左馬、礼を言うぞ。お前が来なければ私は死んでいた」
「とんでもございません」
「いや、謙遜することはない。お前の実力が我を救ったのだ。感謝する」
「もったいないお言葉にござりまする。殿、これをお返し致しまする」
左馬介は金印の入った箱を直政に返して清政の庵での一件を報告した。話しを聞くうちに直政の表情は一変する。
「宮琵の他にも忍びがいるというのか?」
「はっ」
「金子を嫌うとすれば宮琵を除けば矢野義康に仕える上野伊賀か北の森家…、あとは…」
「遠州領内ではもうないと思いますが今川様と盟友関係にある武田忍びの可能性があります」
「武田か…。たしかに武田は忍びを飼っていると聞いたことがある。なれど、その武田が私の命を狙って何の得がある?」
「………」
左馬介は黙った。お耀は直政に少し動揺があると感じていた。直政はふとお耀を見た。目を閉じていたのだ。左馬介もお耀を見る。その瞬間、お耀が動揺し、目を開いた。視線が自分に集まっている。直政はすっと立ち上がると、
「後で来てくれ。話がある」
と言うと廊下の奥へと消えた。お耀は体を震わせている。なぜ、震えているのか自分がよくわかっていた。左馬介は青くなったお耀を見て言う。
「覚悟しておいたほうがいい。あの御方は心を覗かれるのが一番好まぬ」
「………」
お耀は絶句したまま、しばらくの間、動けなかった。
 その日の夜、屋敷を警護する者を除けば静かなものであった。ただ一つ、直政の部屋だけは微かな火が灯されている。直政は気配を感じたが姿は見えなかった。
(こんな童子が恐ろしいか?、私はな、ただ話しをしたいだけだ。降りてくるがいい)
と、心の中で呟くとお耀が姿を現した。先程より顔色が良いように見える。
「左馬介に何か言われたか?」
「覚悟をしておけと」
「ははは…、左馬介は考え過ぎだな。別に怒ってはいない。心配するな、聞きたいことがあっただけだ」
「聞きたいこと?」
「そうだ、お前は昼間のことをどう思う?」
「忍びのことですか?」
「うむ、お前は左馬介が言うように武田忍びの仕業だと思うか?」
「………」
「構わぬ、申すが良い」
「はっ、私はそうは思いませぬ。ですが、正体は長が知っているかと思われます」
「ほう…、それはどういうことだ?」
「はい、長は時折、考え事をなさっている時がありまして…」
「心を読もうとしたのか?、呆れた奴だな…。しかし、左馬介の心までは覗けなかったようだな」
「はい、鉄壁の精神をもっておられる御方ですから。しかし、それにも隙があったのでございましょうか、一瞬ですが読むことができました。誰かはわかりませぬが人の名でした」
「人の名前とな?」
「はっ」
「何と申す?」
「それは心で」
用心深さは忍びにつきものである。直政は快く承知した。
(名は黒雲の幻斎と申しておりました)
心に語りかけてきた。いや、心というよりも脳に直接呼びかけてきたといっても過言ではないだろう。直政が頷く。
「左馬介は当然、知っているのだろうな」
「はい、私が心を読んでいるのに気づいていましたので…」
「そうか…。ならば直接、聞くしかあるまい」
すっと襖を開いた。すると、そこには気配を絶っていた左馬介が控えていた。お耀はこれを見て驚きを隠せず、申し訳なさそうに左馬介を見つめる。直政は左馬介に中に入るよう促し、隅にいるお耀にも側に来るよう促した。左馬介はお耀に近づいて頭を撫でる。
「すまぬことをしたな。わしがお前に不安を与えたばかりに…。許せ」
左馬介はお耀に頭を下げた。お耀は左馬介の態度が信じられないようで唖然としている。左馬介はまだ30近い若き棟梁である。しかし、亀井忍軍総勢5百人を束ねる長が自分みたいな一介の忍びに頭を下げるとは思わなかった。直政はそんなお耀を見て言う。
「べつに心を読むなとは言わぬ。しかし、時と場合を考えよ。よいな」
お耀は無言であった。感涙していたに違いない。本来なら直政に斬られてもおかしくない状況だったのだ。それが何のお咎めもなく許されことに対して、ましてや自分の能力に信頼を置いてくれたことに対して嬉しかったに違いなかった。
「さて、本題に入ろうか」
直政の言葉に左馬介とお耀の眼差しは真剣になる。
「左馬介、気づいたのはいつだ?」
「はっ、清政公のもとに行ったときにござりまする」
「相手は手練か?」
「はっ、かつては周防の大内家、美濃の斎藤家、越前の朝倉家などの大名家を転々としていましたが今は誰に仕えているか不明です」
「そうか…、宮琵疼斎にはすでに忍びがいる。すると、北の森か、それとも掛川の朝比奈か…」
「そうですな、あの男を雇うとすれば…」
「白城(しらしろ)平左衛門はどうでしょうか?」
静かに聞いていたお耀が言う。
「白城とは何者か?」
「海賊でござりまする」
左馬介が言う。
「三河近くに展開し、今川家とも対立しているとか。今は太原雪斎との交渉で同盟を結んでいますがいつ戦いが起きてもおかしくありませぬ」
「海賊か…、しかし、海賊が忍びを雇うかな?」
「たしか、かの者は絶えた葉祇一族の縁戚だと聞いています。そして、あの者は元は忍び、考えられるかも知れませぬ」
「葉祇一門に忍びがおったとはな…。なれど葉祇一族はすでに絶えている。喧嘩が原因だったと聞いているが…」
「はい、些細なもめ事が戦いになるまでに事が大きくなり、事態を重く見た照政公が間に入り、騒ぎを起こした葉祇家当主葉祇通氏と植野家当主植野元綱に切腹を命じ、通氏の子一平太は朱鷺田家預かりとなり、元綱の子元信は朝比奈家預かりとなりました。葉祇家はそのまま再興されることはなく、元信は一時、朝比奈家に仕えていましたが今は牢人として各地を転々としておるようです」
「喧嘩両成敗か…。もっともな裁決だな。で、一平太はどうなっておる?」
「朱鷺田家に仕えていると聞いています」
「そうか…、明日、祖父に会うから皆も来るであろう。その時に聞いてみようか?」
「いや、まだその時期ではないかと。今は家督を継ぐことが対外的に認められることこそが大事かと」
「そうだったな…。ところで向こうの戦況はどうなっている?」
直政は話しを変えて義康の包囲のことを聞く。
「完全に水を絶っていますので降伏は間近と思われます」
「義康以外は降るだろうな」
左馬介は笑っていた。直政はそろそろ義康のほうも終わりにしようと考えていたのだ。お耀には2人の会話がどう受けとめられたのかわからないが…。
「ところで…」
直政は話しを戻す。
「黒雲の幻斎とは何者だ?」
この言葉を聞くや否や、左馬介の表情が真剣になり、お耀は左馬介の憎悪を感じたのである…。


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