三国志登場人物解説

【て】

丁イ【テイイ】
?〜220
【魏】

字は敬礼。丁儀の兄で曹植の側近。曹丕の魏王即位に際して兄と共に反発して殺された。

程イク【テイイク】
141〜220
【魏】

字は仲徳。曹操に招かれて幕僚となり、194年に呂布がエン州を占拠した際、荀イクと共に策を巡らせてケン城・東阿・氾の3県を死守する。196年、曹操の許に身を寄せていた劉備が危険だと判断し、殺すよう進言するが拒否される。201年、倉亭の戦いで十面埋伏の計を献じて袁紹軍を破る。赤壁の戦いでは火攻めに注意するよう進言し、黄蓋の偽船団を見破ったが火攻めを止められなかった。

程遠志【テイエンシ】
?〜184
【黄巾賊】

トウ茂と共に大興山を拠点としてタク県を攻めたが関羽に殺された。

丁咸【テイカン】
?〜?
【蜀】

篤信中郎将。227年、諸葛亮が北伐のため、漢中に赴いた際に左護軍となる。

丁管【テイカン】
?〜189
【後漢】

尚書。董卓が少帝を廃した際に宮殿で董卓に打ちかかって殺された。

程畿【テイキ】
?〜222
【蜀】

221年、劉備が呉を攻めた際に黄権と共に参謀となるが、劉備が敗れた時に水軍に加勢を求めるが呉軍に包囲されて自害した。

丁儀【テイギ】
?〜220
【魏】

字は正礼。丁イの兄で曹植の側近。曹丕の魏王即位に反発して弟と共に殺された。

程銀【テイギン】
?〜?
【韓遂→魏】

韓遂に仕え、馬超の挙兵の際に韓遂に従って曹操を攻める。馬超が敗れると侯選と共に南下して漢中に逃れ、215年に曹操が漢中を平定した後に降伏した。

丁原【テイゲン】
?〜189
【後漢】

字は建陽。ヘイ州刺史・執金吾を歴任し、少帝の廃位に反対して董卓と対立し、呂布に董卓の陣を急襲させる。その直後、呂布の器量に魅せられた董卓の策略により呂布が離反、丁原は呂布に殺された。正史では呂布は丁原の養子ではない。

鄭玄【テイゲン】
127〜200
【後漢】

字は康成。馬融に師事して知人である若き劉備を指導する。鄭玄は多くの経典に注釈を施した漢代の経学を集大成した学者であったという。

程コウ【テイコウ】
?〜189
【後漢】

中常侍。十常侍の1人として権勢を奮い、189年、何進を殺されたことに激怒した袁紹らによって殺された。正史では十常侍とは記されていない。

禰衡【デイコウ】
173〜198
【魏→劉表】

字は正平。曹操に招かれた際に持ち前の毒舌で満座の文武官を罵倒して太鼓係に命じられると裸になって曹操を翻弄する。後に孔融の推挙により、劉表に降伏を勧める使者となったが毒舌が災いして黄祖の許に送られ、黄祖を侮辱した後に殺された。禰衡は文学者として代表作に『鸚鵡賦』がある。

丁氏【テイシ】
?〜?
【魏】

曹操の正妻。早世した劉氏の子である曹昂と曹氏(清河公主)を育てるが曹昂の討死したことに曹操を恨んで仲違いし、実家に帰された後に離縁された。丁氏の後は卞氏に代わった。

程咨【テイシ】
?〜?
【呉】

程普の子。赤壁の戦いの際に大都督となった周瑜の指揮を受けることを拒否した父に代わって軍令を聞き、その采配が全て兵法にかなっていることを父に報告し、父は周瑜に非礼を詫びた。

鄭泰【テイタイ】
?〜?
【後漢】

字は公業。何進に仕えて尚書侍郎・奉車校尉となる。189年、何進が董卓を都に召喚しようとした際に反対を唱えるが拒否されて役を辞した。

鄭度【テイド】
?〜?
【劉璋】

益州従事。劉備の蜀侵攻で成都に迫った際に徹底抗戦を進言したが聞き入れられなかった。

丁斐【テイヒ】
?〜?
【魏】

字は文侯。渭南県令。211年、曹操が馬超に追い詰められた際に牛馬を解き放って馬超軍を攪乱した功により典軍校尉に任じられた。丁斐は曹操とは同郷であり、多少の過失を犯しても大目に見られることがあったという。

丁謐【テイヒツ】
?〜249
【魏】

字は彦靖。丁斐の子。曹爽に仕えて尚書となり、司馬懿を太傅にまつり上げて実権を奪うように進言。策は成功するが司馬懿の反乱の際に殺された。

程普【テイフ】
?〜?
【呉】

字は徳謀。早くから孫堅に仕え、191年に孫堅が玉璽を手に入れた際に江東に戻って自立するよう勧める。孫堅の死後、孫策に仕えて劉ヨウ、厳白虎と戦い、江東の平定に功を成す。孫策の死後は孫権に仕え、208年、赤壁の戦いでは副都督(正史では右都督)となり、戦後に周瑜と共に南郡を攻めた。210年、孫権と曹操が和睦すると江夏太守となる。215年、孫権が合肥を攻めた際は留守を任された。

程武【テイブ】
?〜?
【魏】

程イクの子。227年、諸葛亮の北伐の際に夏侯楙の参軍として趙雲を生け捕りにする策略を立てるが失敗した。正史では夏侯楙が蜀軍と戦った事実はない。

鄭文【テイブン】
?〜234
【魏】

偏将軍。諸葛亮の6度目の北伐の際に司馬懿の命により偽りの降伏をするが、諸葛亮に見破られ、逆に司馬懿を誘い出すための手紙を書かされた上で殺された。

程秉【テイヘイ】
?〜?
【士燮→呉】

字は徳枢。初め交祉太守士燮に仕えて長史を務めていたがその名声を聞いた孫権に招かれて太子太傅となる。程秉が呉に仕えたのは210年以降とされる。

丁奉【テイホウ】
?〜271
【呉】

字は承淵。孫権に仕えて若くして小隊を任されて甘寧、陸遜、潘璋の配下に入り、赤壁の戦いや荊州攻略で功を立てる。223年、曹丕が呉を攻めた際は張遼を射て魏軍を破る。252年、司馬昭が東興を攻めた際はわずか3千の兵で胡遵を急襲して退かせる。258年、孫休が即位すると権勢を奮う孫チンを誅殺し、大将軍となった。263年、魏の蜀攻略では援軍として赴くが間に合わず、翌年まで魏を牽制するために蜀に留まり、呉に戻った後は長江沿岸の守備に就いた。

丁封【テイホウ】
?〜?
【呉】

丁奉の弟。後将軍。263年、魏の蜀攻略で孫異と共に丁奉の副将として援軍に赴くが間に合わず、翌年、呉に戻った。

鄭宝【テイホウ】
?〜?
【君主】

巣湖の土豪。1万余の兵を擁して巣湖を守っており、廬江の人々から慕われた。後に民衆と共に長江の南に移ろうとして劉曄に殺された。

鄭袤【テイボウ】
?〜?
【魏】

字は林叔。光禄勲。255年、司馬師がカン丘倹を攻めた際に持久戦に持ち込むよう進言した。

丁立【テイリュウ】
?〜227
【蜀】

諸葛亮の『後出師表』に諸葛亮が漢中に赴いて1年以内に死去した70余人の武将の1人として名を挙げられている。

鄭倫【テイリン】
?〜258
【魏】

姜維の6度目の魏攻略の際にトウ艾の先鋒となって蜀軍の背後を突くが廖化の伏兵に遭って殺された。

テキ元【テキゲン】
?〜219
【魏】

曹仁に仕え、関羽が襄陽を攻めた際、曹仁・夏侯存と共に迎え討つが伏兵に遭って関平に斬られた。

典韋【テンイ】
?〜197
【魏】

古来の猛将『悪来』の異名を持つ。夏侯惇の推挙により、曹操に仕えて帳前都尉となる。豫州の黄巾賊を平定するために曹操に従って出陣。何儀を捕らえるが民衆側で戦っていた許チョに会って一騎打ちを披露した。後に濮陽で呂布の火攻めに遭った際に囲みを破って突破。197年、宛城で張繍の偽りの降伏に騙され、奇襲された曹操を救うべく轅門を死守し、全身に矢を浴びた状態で討死した。

田楷【デンカイ】
?〜?
【公孫サン】

公孫サンの命によって青州刺史となるが袁紹に敗れた。

田氏【デンシ】
?〜?
【民衆】

名は不明。濮陽の富豪。194年、エン州を占拠した呂布の命により曹操を濮陽城へ誘い込む。翌年、呂布が曹操に敗れると城門を閉ざして入城を拒否。後に曹操より恩赦を得た。

田章【デンショウ】
?〜?
【魏】

263年、魏の蜀攻略で鐘会に従って出陣した。

田続【デンゾク】
?〜?
【魏】

田チュウの従孫。263年、鐘会に従って蜀を攻める。江油城の陥落後に兵を休ませるよう進言し、トウ艾の怒りを買って殺されそうになる。鐘会の死後、トウ艾の報復を怖れた衛カンの命を受けてトウ艾父子を綿竹で殺した。

田チュウ【デンチュウ】
169〜214
【劉虞→魏】

字は子泰。初め劉虞に仕え、死後は一族を率いて徐無山に隠れた。袁紹から幾度も招聘され、将軍の印を授けられたが悉く拒否した。207年、曹操が烏桓を攻めた際に案内役を務め、柳城を落とした後に議郎に任じられた。

田豊【デンホウ】
?〜200
【袁紹】

字は元コウ。191年、袁紹が冀州を奪うと内政を任される。曹操の留守を狙って許都を攻めるよう進言するなど参謀としての顔も見せる。後に袁紹が曹操を攻めようとした際に反対して投獄され、官渡の戦いの後に逢紀の讒言により自害させられた。

典満【テンマン】
?〜?
【魏】

典韋の子。父の死後、郎中に任じられ、曹操の館に引き取られた。

田豫【デンヨ】
?〜?
【魏】

字は国譲。汝南太守・テン夷将軍。234年、呉が諸葛亮に呼応して魏を攻めた際に襄陽の援軍に赴いた。


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