三国志登場人物解説

【と】

土安【トアン】
?〜225
【兀突骨】

演義のみの登場。烏戈国の領兵俘長。奚泥と共に藤甲軍3万を率いて蜀軍と戦う。盤蛇谷で諸葛亮の火攻めで焼き殺された。

董允【トウイン】
?〜246
【蜀】

字は休昭。董和の子。劉禅の匡正に務め、黄コウの台頭を牽制し、243年、輔国大将軍となり、翌年、侍中守尚書令として費イの次官となる。諸葛亮・蒋エン・費イと並んで『四相』『四英』と称された。

滕胤【トウイン】
?〜256
【呉】

字は承嗣。太常卿を務め、後に大司馬となるが孫チンに殺された。諸葛恪とは親密な関係であったという。

董厥【トウケツ】
?〜?
【蜀→魏】

字はキョウ襲。諸葛亮には高く評価されて官位は大将軍まで昇ったが、蜀が滅びた翌年に樊建と共に洛陽に赴いて相国参軍・散騎常侍となった。

陶謙【トウケン】
132〜194
【後漢】

字は恭祖。徐州刺史。193年、配下の張ガイが曹操の父曹嵩を殺したため、激怒した曹操の攻撃を受けるが孔融・劉備の援軍により、徐州を守るがまもなく病にかかり、劉備に後事を託して死んだ。正史では、「道義に背き感情に任せて行動し、刑罰と法律に均衡を欠き、善良な人々は多くその害を被った」と評される人物で、演義では正反対に評されている。また、董卓討伐軍の兵も起こしていない。

トウ賢【トウケン】
?〜212
【劉璋】

211年、劉備が益州に入ることに反発する。翌年、劉備がフ城を落として劉璋と敵対した際に劉カイ・冷苞・張任と共にラク城の守備に当たるが討死した。

トウ賢【トウケン】
?〜?
【蜀→魏】

孟達の外甥。孟達と共に魏に降伏し、新城に駐屯する。曹丕の死後、孟達が蜀に戻ろうとしていることを知り、李輔と共に司馬懿に密告し、その到着を待って新城を明け渡した。後に上庸を任される。

董コウ【トウコウ】
?〜192
【董卓】

董卓の甥。董卓が実権を握ると侍中に任じられて禁軍を率いる。董卓が殺されると家族と共に殺された。

董衡【トウコウ】
?〜219
【魏】

領軍将軍。関羽の樊城攻略の際に于禁と共に援軍に赴いた。関羽の水攻めに遭ってホウ徳と共に堤に逃れたが降伏を口にしたため、ホウ徳に殺された。

董氏【トウシ】
?〜189
【後漢】

桓帝の弟で解漬亭侯劉萇の妻で、劉宏(後の霊帝)を生む。王美人が何太后に殺されると孫の劉協(後の献帝)を養育する。霊帝の死後、何太后と争って何進に毒殺された。

唐氏【トウシ】
?〜?
【後漢】

少帝の妃。189年、董卓が献帝を擁立した際に弘農王に格下げされた少帝・何太后と共に永安宮に幽閉される。少帝の死後、解放されて郷里に戻り、再婚を拒否。李カクが長安を占拠すると攫われて妻にされかけたが拒み通すと共に身分も明かさなかった。後に賈クがこれを知って献帝に告げたため、宮中に迎えられて弘農王妃の称号を賜った。

董氏【トウシ】
?〜192
【董卓】

董卓の母。名は不明。董卓の死に先立ち、凶兆を予感する。董卓の死後、一族もろとも殺された。

董氏【トウシ】
?〜192
【董卓】

董卓の娘。名は不明。袁紹らの連合軍が虎牢関に迫った際に孫堅を懐柔するため、孫堅の子との縁組を提案するが拒否される。董卓の死後、一族もろとも殺された。

董氏【トウシ】
?〜192
【董卓】

董卓の孫。『三国志大戦』では名を董白という。董卓が実権を握ると何不自由なく暮らしたが董卓の死後、一族もろとも殺された。

董氏【トウシ】
?〜200
【董承】

董承の妻。董承が使用人の秦慶童と妾の雲英の密会を見つけて殺そうとした際に許してやるよう頼み込む。後に秦慶童の密告で董承が捕らえられると一族もろとも殺された。

董氏【トウシ】
?〜200
【後漢】

董承の娘。名は不明。貴人の位にあった。献帝の寵愛を受けて妊娠していたが、父が謀反の疑いで殺されると曹操の命により絞殺された。

唐咨【トウシ】
?〜?
【魏→呉→魏】

魏に仕えていた際に反乱を起こして呉に逃れ、左将軍次いで安遠将軍となった。257年、孫チンの命で全端らと共に諸葛誕の援軍に赴くが魏に囲まれて降伏する。263年、魏の蜀攻略に先立って船の調達を行った。

トウ芝【トウシ】
?〜251
【劉璋→蜀】

字は伯苗。尚書として劉備・劉禅に仕える。223年、諸葛亮の命により呉に赴いて孫権を説得して同盟を締結させる。後に揚武将軍となり、228年、諸葛亮の北伐に中監軍として参戦し、趙雲と共に箕谷で疑兵の計略を行う。230年の4度目の北伐では参謀として諸葛亮の命に従おうとしない陳式らを諫めた。

唐州【トウシュウ】
?〜?
【黄巾賊】

184年、黄巾賊の決起の際に朝廷軍の内応者である封ショに決起の期日を知らせるよう命じられるが宮中に密告し、馬元義らを捕らえる口実を与えた。

董襲【トウシュウ】
?〜215
【厳白虎→呉】

字は元代。初め厳白虎に仕えたが孫策が会稽を攻めた際に厳白虎を討って降伏し、別郡司馬に任じられる。208年、孫権が江夏の黄祖を攻めた際は甘寧の副将として参戦。215年、濡須の戦いで水軍を指揮するが暴風で船が転覆して溺死した。

滕脩【トウシュウ】
?〜?
【呉】

孫コウに司空に任じられかけたが、辞令が来る前に転任していたため、司空には任じられなかった。

陶濬【トウシュン】
?〜?
【呉】

280年、晋の呉攻略の際、御林軍を率いて迎え討とうとしたが出陣前に兵が逃げてしまい、戦わずして壊滅した。

陶商【トウショウ】
?〜?
【陶謙】

陶謙の長子。父から「刺史の器ではない」と評された。

董承【トウショウ】
?〜200
【後漢】

董太后の甥で董貴妃の父。195年、献帝を護衛して長安を脱出して曹操の庇護を受け、列侯に封じられ、後に車騎将軍となる。199年、献帝の密命を受けて王子服、呉子蘭と共に曹操暗殺を計画するが使用人の密告により一族もろとも殺されてしまった。

董昭【トウショウ】
156〜236
【袁紹→張楊→魏】

字は公仁。献帝より議郎に任じられ、196年、献帝を許都に迎えるよう曹操に進言して長史となる。212年、曹操を魏公とし九錫を迎えるよう上奏文を奉じ、219年、孫権が関羽の挟み撃ちを申し出た際にその書状を樊城に送るよう進言する。曹操の死後、曹丕が即位すると大鴻臚・侍中を歴任し、曹叡の代には司徒となった。

董尋【トウジン】
?〜?
【魏】

曹叡に仕えて司徒軍議掾となる。曹叡の人民の困窮を顧みない宮殿増築や土木工事などの暴政を諫めて官位を剥奪され、庶民に落とされた。

董卓【トウタク】
?〜192
【後漢】

字は仲穎。河東太守として黄巾討伐に参戦するも戦況は常に劣勢であった。後に前将軍・涼州刺史となる。189年、何進の召集令に応じて洛陽に入り、朝廷での実権を握る。少帝を廃して献帝を即位させるとその後見となり、諸侯の反感を買う。翌年、袁紹・曹操ら連合軍に攻め込まれるも呂布・華雄らを率いて善戦する。しかし、191年に長安遷都を強行し、洛陽に火を放って廃墟とした。後に太師を自称して暴虐の限りを尽くしたが呂布と対立して殺された。正史では王允の策略で両者が対立したというのは後世の創作である。

トウ忠【トウチュウ】
?〜264
【魏】

トウ艾の子。父に従って各地を転戦し、魏の蜀攻略で功を立てたが鐘会の讒言により父と共に捕らえられて、後に田続に殺された。

董重【トウチョウ】
?〜189
【後漢】

外戚で董太后の甥。董太后が何太后と争った際に驃騎将軍に任じられる。後に何太后が政争に敗れて宮中より追放されると館を何進に包囲されて自害した。

董朝【トウチョウ】
?〜?
【呉】

中書郎。258年、孫チンが孫亮を廃した際に孫休が新皇帝に迎えるための使者として孫楷と共に虎林に赴いた。

董超【トウチョウ】
?〜219
【魏】

関羽が樊城を攻めた際、于禁に従って董衡と共に領軍将軍に任じられる。関羽の水攻めに遭い、ホウ徳と共に堤に逃れたが降伏を口にしたため、ホウ徳に殺された。

トウ程【トウテイ】
?〜?
【呉】

258年、孫亮が孫チンに廃された際に孫亮から奪った玉璽を保管するよう命じられた。

トウ銅【トウドウ】
?〜227
【蜀】

諸葛亮の『後出帥表』にトウ銅の名が見え、227年に諸葛亮が漢中に移ってから1年以内に死去した70余名の1人として趙雲らと共に記されている。

董荼那【トウトナ】
?〜225
【孟獲】

演義のみの登場。孟獲配下の三洞元帥の一人として第二洞を守る。諸葛亮の南征で張嶷に捕らえられるが解放されるも孟獲の命で再度出陣して馬岱に「忘恩の輩」と叱責されて退却し、孟獲の怒りを買って棒打ちの刑に処された。その後、孟獲を捕らえて諸葛亮に引き渡すが、解放された孟獲によって殺された。

トウ敦【トウトン】
?〜263
【魏】

前将軍。263年、司馬昭が蜀攻略を計画した際、反対して殺された。

トウ頓【トウトン】
?〜207
【烏桓】

烏桓の族長。曹操に追われた袁尚と袁熙を匿い、白狼山で曹操軍と戦うが張遼に討ち取られた。

唐彬【トウヒン】
235〜294
【晋】

字は儒宗。広武将軍。279年、晋の呉攻略の際に王濬らと共に長江を渡って呉に入った。

董旻【トウビン】
?〜192
【董卓】

字は叔穎。董卓の弟。董卓が実権を握ると左将軍となるが、董卓の死後、一族もろとも殺された。

トウ武【トウブ】
?〜168
【後漢】

字は游平。外戚で娘は桓帝の皇后となった。桓帝の死後、霊帝を擁立して大将軍となったが官宦勢力の掃討に失敗して自害した。

トウ茂【トウボウ】
?〜184
【黄巾賊】

程遠志の副将として大興山を拠点としてタク県を攻めるが張飛に討ち取られた。

トウヨウ【トウヨウ】
?〜249
【魏】

字は玄茂。曹爽に仕えて尚書となったが司馬懿の謀反により一族もろとも殺された。

トウ良【トウリョウ】
?〜?
【蜀→魏→晋】

トウ芝の子。263年、魏の蜀攻略の際、劉禅が降伏を決め、張紹・ショウ周と共に玉璽を持ってトウ艾の許へ赴いた。後に晋が成立すると広漢太守に任じられた。

トウ龍【トウリョウ】
?〜206
【劉表】

206年、黄祖の命により柴桑を攻め、周瑜に捕らえられた。演義では孫権が黄祖を攻めた際、陳就と共に先鋒を命じられて応戦するが甘寧に討ち取られたとある。

杜叡【トエイ】
?〜?
【蜀】

234年、諸葛亮の6度目の北伐の際、諸葛亮の命により胡忠と共に上方谷で木牛流馬の製造を監督した。

杜遠【トエン】
?〜200
【山賊】

曹操の許を辞した関羽が劉備の許へ赴く途中、許都郊外で劉備の甘・縻夫人をかどわかし、仲間の廖化に二人で分けようと持ちかけるが劉備の妻と知った廖化と争って殺された。

杜キ【トキ】
?〜?
【蜀】

227年、諸葛亮が北伐のために漢中に赴くにあたって行参軍に任じられ、後に武略中郎将となった。正史では監軍・大将軍司馬を歴任したとある。

杜義【トギ】
?〜?
【蜀】

227年、諸葛亮が北伐のために漢中に赴くにあたって行参軍として従った。

杜瓊【トケイ】
?〜250
【蜀】

字は伯瑜。劉備が漢中王になった際に議曹を務め、劉備を帝位につける議論に参加。劉禅が即位すると諫議大夫となり、230年、諸葛亮の4度目の北伐に参戦する。後に左中郎将・大鴻臚・太常卿を歴任し、識緯(予言書)研究家として著作に『韓詩章句』がある。

杜襲【トシュウ】
?〜?
【魏】

字は子緒。曹操に仕えて侍中となる。214年、王粲・衛凱・和コウらと共に曹操を魏王に立てようとしたが荀攸に反対された。後に曹叡の時に曹真と司馬懿の軍師になった。

杜襲【トシュウ】
?〜?
【魏】

夏侯淵に仕えて数百の兵を率いて定軍山の西側の高峰を守っていたが黄忠の夜襲を受けて敗走した。

杜微【トビ】
?〜?
【蜀】

字は国輔。諸葛亮の評価が高く、224年に益州牧になると召しだされて主簿に任じられたが固辞。替わりに諫議大夫に任じられて帰郷した。

杜預【トヨ】
222〜284
【晋】

羊コの推挙により、右将軍を経て鎮南大将軍・都督荊州諸軍事として襄陽を守る。280年、大軍を率いて長江を渡って呉を攻略し、晋建国の一翼を担った。また、学者としても有名であり、数多くの著書の一つ『春秋左氏経伝集解』は現存する注解の中では最古のものという。

杜路【トロ】
?〜?
【蜀→呉】

武陵の五谿を領する武将。221年、劉備の呉征討の際に劉寧と共に参戦するが翌年、呉に降伏した。


【ね】に続く

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