三国志登場人物解説
【ち】
張魯【チョウロ】
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【君主→魏】
字は公キ。五斗米道三代教祖。張衡の子。祖父張陵の代より漢中を支配し、各地に義舎を設け、刑罰を緩和するなどして安定を保ち、朝廷から鎮民中郎将に任じられた。215年、曹操が漢中を攻めると城内の蔵を封印して巴中に逃れる。しかし、追い詰められて降伏し、鎮南将軍に任じられた。
チ慮【チリョ】
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【魏】
御史大夫。常日頃から不仲であった孔融を曹操に讒言して殺させる。214年、曹操が伏氏を殺そうとした際はその璽綬を取り上げるために宮中へ遣わされた。
陳イ【チンイ】
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【後漢】
太中大夫。李膺の家で孔融と会った際、孔融が李膺から神童と称され、「小さい時は利口でも大きくなって頭が良いとは限らない」と難癖をつけ、孔融に「あなたは小さな時はさぞかし利口だったのでしょう」と言い返されたという。
陳応【チンオウ】
?〜208
【魏】
趙範配下の武将。管軍校尉。劉備の荊南攻略において桂陽に攻めてきた趙雲を迎え討つが捕らえられる。すぐに解放され、一度は趙範と共に降伏する。しかし、鮑龍と謀って趙雲暗殺を企てるが失敗して殺された。
陳横【チンオウ】
?〜195
【劉ヨウ】
孫策が劉ヨウを攻めた際、薛礼に従って抹陵を守るが蒋欽に射殺された。
陳紀【チンキ】
?〜197
【袁術】
袁術が曹操に敗れた後、李豊、楽就、梁剛と共に寿春を守るが敗れ、捕らえられて殺された。
陳宮【チンキュウ】
?〜198
【後漢→呂布】
字は公台。中牟県令だった189年、董卓暗殺に失敗した曹操を一度は捕らえるが解放した上で行動を共にした(正史ではこの事実がない)が、曹操の考えを理解することができずに決別。後に呂布に仕えて曹操、劉備と戦う。下ヒの戦いで呂布と共に捕らえられて殺された。
陳矯【チンキョウ】
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【魏】
曹操に仕え、赤壁の戦いの後、曹仁と共に江陵を守る。周瑜が軍を率いて迫った際、矢を放って傷を負わせるが逆に周瑜が死んだとの偽情報により曹仁が誘い出されて留守を守っていた陳矯は諸葛亮の命を受けて攻め寄せてきた趙雲に捕らえられ、江陵を奪われた。
陳矯【チンキョウ】
?〜237
【魏】
字は季弼。尚書。220年、曹操の死後、曹丕に魏王に即位するよう勧め、その後に華キン、王朗らと共に献帝に譲位を迫った。
陳羣【チングン】
?〜236
【魏】
字は長文。曹操に仕えて司空掾・治書侍御史となる。220年、曹丕が魏王に即位すると華キン、王朗らと共に献帝に譲位を迫った。曹丕の死後、鎮軍大将軍に任じられ、曹真、司馬懿と共に曹叡を補佐した。陳羣は魏晋南北朝の任官制度の根幹となる『九品中正法』を制定した。
陳羣【チングン】
?〜?
【魏】
司馬。238年、司馬懿の遼東攻略に従う。司馬懿が襄平を1ヶ月余り包囲した後、城南の軍勢を退かせたのを見て理由を尋ねた。
陳珪【チンケイ】
?〜?
【陶謙→蜀→呂布→魏】
陳登の父。陶謙の死後、劉備に仕え、徐州陥落後は呂布に仕えたが忠誠心は無かった。呂布と袁術の縁組を阻止した後、曹操から2000石の禄を賜り、陳登と共に内応を約束する。198年、呂布から徐州の守備を命じられるとビ竺共に曹操に内応し、10県の禄を褒美として賜った。
陳騫【チンケン】
212〜219
【魏→晋】
字は休淵。陳矯の子。257年、諸葛誕討伐に参戦し、副先鋒となる。司馬炎が晋王となると車騎将軍となり、即位後は大将軍、太尉、大司馬を歴任した。
陳元【チンゲン】
?〜?
【晋】
羊コ配下の武将。呉の陸抗が襄陽に駐屯していた羊コに酒を送った際、毒酒ではないかと怖れて飲まぬよう制した。
陳氏【チンシ】
?〜203
【劉表】
名は不明。劉表の先妻。正史では劉キと劉ソウは陳氏の子とされるが、演義では異母弟とされる。
陳就【チンシュウ】
?〜208
【劉表】
黄祖配下の武将。孫権が黄祖を攻めた際、トウ龍と共に先鋒を命じられるが敗走し、呂蒙に討たれた。
陳俊【チンシュン】
?〜?
【魏】
257年、諸葛誕討伐に参戦し、司馬昭の命により車馬に酒や布などを乗せて敵軍の混乱を誘うが失敗した。
陳翔【チンショウ】
?〜?
【庶民】
『江夏八俊』の一人で劉表の友人。詳細は不明。
陳式【チンショク】
?〜230
【蜀】
陳寿の父(正史では記載なし)。黄忠に従って漢中攻防戦に参戦し、魏軍に捕らえられるが蜀の捕虜となった夏侯尚と交換されて軍に復帰する。230年、諸葛亮の四回目の北伐に従い、魏延、張嶷、杜瓊らと共に箕谷に向かったが命令に背いて独走し、司馬懿の伏兵にも遭って大敗。諸葛亮に斬首された。
陳震【チンシン】
?〜235
【袁紹→蜀】
字は孝起。袁紹に仕えていた際に徐州を失って袁紹の客将となった劉備に出会い、劉備の命で曹操に降伏していた関羽との連絡にあたった。200年、孫策との同盟を図るため、袁紹によって呉に遣わされる。後に劉備に仕え、221年、劉備の呉征討では馬良と共に文書の管理を担当。劉備の死後、諸葛亮の下で尚書を経て衛尉を務め、229年、孫権が即位した際に劉禅の命で呉へ遣わされた。
陳生【チンセイ】
?〜191
【劉表】
黄祖配下の武将。孫堅が劉表を攻めた際に孫策に射殺された。
陳造【チンゾウ】
?〜?
【魏】
曹真の先鋒を務め、街亭の戦いの後、曹真と共に蜀軍を追撃して伏兵に遭って馬岱に殺された。
陳泰【チンタイ】
?〜260
【魏】
字は玄伯。陳羣の子。雍州刺史・征西将軍として蜀の姜維の侵攻を防ぎ、その後に尚書僕射となる。260年、司馬昭の側近の賈充の指示を受けた成済によって曹ボウが殺されると喪服を着けて霊前にて泣き伏し、事前の処理を尋ねた司馬昭に、「賈充を斬れば少しは天下に詫びができよう」と答えた。
陳耽【チンタン】
?〜185
【後漢】
司徒。十常侍の専横を霊帝に訴えた劉陶を弁護して捕らえられ、劉陶と共に殺された。
陳登【チントウ】
?〜?
【陶謙→蜀→魏】
字は元龍。陶謙、劉備に仕え、徐州が呂布に奪われると曹操に内通して広陵太守に任じられた。198年、曹操が呂布を攻めた際に呂布軍内部を攪乱して下ヒ以外の城を次々と失わせる功績を上げて伏破将軍に任じられた。
陳蕃【チンハン】
?〜168
【後漢】
字は仲挙。太傅。高い名声があり、清流派の領袖と目されてトウ武、劉淑と共に『三君』と称された。トウ武と共に宦官を朝廷から一掃しようと計画して逆に殺された。
陳武【チンブ】
?〜215
【呉】
孫策に仕えて校尉となる。215年、孫権に従って合肥を攻め、濡須の戦いでホウ徳に討ち取られた。
陳蘭【チンラン】
?〜?
【袁術】
197年、袁術に従って呂布に攻める。後に雷薄と共に袁術のもとを離れて嵩山に立てこもった。後に張遼に討たれた。
陳琳【チンリン】
?〜217
【後漢→袁紹→魏】
字は孔璋。『建安七子』の一人で著名な文学者として代表作に『飲馬長城窟行』がある。主簿として何進に仕える。189年、何進が宦官誅殺のため、地方軍の洛陽入りを促そうとしたが聞き入れられず、やむなく野に下る。後に袁紹に仕えて記室(書記)となり、199年、袁紹が曹操征討の兵を挙げた際に三代に渡って曹操を悪罵した激文を起草。204年、曹操の捕虜となるがその才を惜しまれて従事に取り立てられた。
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